謎の武将ー明智光秀
戦国武将の中に明智光秀は特別な存在だと思う。彼は主君信長討伐の「本能寺の変」を発動することで世人に知られた。この事件に従って、日本の歴史が変えた。しかし、こんなに有名な光秀は、出身、経歴、それに死亡などいろんな謎があるといわれるのがおかしいじゃないのか。
明智光秀は清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。しかし、青年期履歴は不明な点が多い、記録もほとんどない。ネットでちょっと調べた、明智光秀の生年は『明智軍記』の享禄元年(1528年)説、『綿孝輯録』の大永6年(1526年)説、また『当代記』の付記による永正12年(1515年)説など複数がある。場所は岐阜県可児市明智の明智城、山県市美山出身という2つの説が有力とされる。また恵那市明智町の明知城という説もある。織田家仕官前に、美濃国斎藤氏、越前国朝倉氏、それに13代将軍足利義輝などの大名に仕えたと言われた。要するに、明確な記録がない。
それから、なぜ光秀が信長に謀反をした「本能寺の変」を発動したのか。これも謎だ。調べたら、以下の主張があるそうだ。
主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。
光秀自身が天下統一を狙っていたという説。
光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説。
「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。
田家を取り巻く諸将が黒幕という説。徳川家康や羽柴秀吉が主に挙がる。
このさまざまな主張がどちらが信頼できるのか、誰でもしらない。
さらに、羽柴秀吉と山崎の戦いったあと、坂本へ落ち延びる途中に小栗栖で殺された。しかし、光秀は小栗栖で死なずに徳川家康の幕僚南光坊天海になったという異説がある。
異説の根拠として、
1.日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
2.日光に明智平と呼ばれる区域があること。天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
3.徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
4.光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
5.学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること
6.光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと
7.光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること
8.テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。
9.「かごめかごめ」の歌詞は「光秀?天海同一人物」を示唆したもの
等があげられている。
参考:明智光秀 - Wikipedia