『アンネの日記』の概要

 

 第1回目の今回は、『アンネの日記』(増補新訂版 深町眞理子訳 文春文庫)を 

ご紹介します。

 

 世界的ベストセラーなのでご存じの方も多いのではないでしょうかニコニコ

 私自身も、小学生の頃から何度も読み返している作品です📖

 

 

 『アンネの日記』は、第二次世界大戦中、ヒトラー率いるナチス・ドイツの迫害から逃れていたユダヤ人の一人”アンネ・フランク”が、約2年間にも及ぶ隠れ家生活の中で書き続けた日記です。

 

 約80年前まで実在した少女が実際に書いた日記なんです。

 

 世界中で読み継がれているこの『アンネの日記』ですが、実は最悪の結末を迎えてしまうのです…。

 

 彼女の生い立ちからその周りの人々との関係、当時の時代背景や特に印象的だった箇所を引用するなどして分かりやすくお伝えしていきたいと思いますびっくりマーク

 

 

 

  生い立ち

 

 

 

 アンネ・フランクは1929年6月12日にドイツのフランクフルトで生まれました。

 

 当時のドイツは大不況に追い込まれていました。高い失業率と貧困に悩む多くの人々。そこに現れたのが、ナチ党率いるヒトラーです。

 

 ヒトラーは、当時国が抱えていた数多くの問題の解決を公約に掲げ、多くの国民の支持を得ました。

 

 そんな中、ユダヤ人を嫌うナチ党は彼らが問題の原因であると決めつけ、非難したのです…えーん

 

 

 1933年、ナチ党党首のヒトラーは首相に任命され、ドイツの政権を掌握しました。権力を手中に収めたナチ党はユダヤ人への敵意をさらに強めていきます。

 

 アンネの父オットーと母エーディトは危険を避けるため、ドイツを離れることを決意し、オランダ・アムステルダムのメルウェーデ広場近くのアパートへ移住することとなります。

 

 このアパートでは、ドイツから逃れてきた1933年12月から、”隠れ家”へ移る1942年7月までの8年余りを過ごすこととなります。(下の写真)

 

(右端の建物の4階部分に住んでおり、アンネの書いた線が引いてある。)

 

 

 1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻します。第二次世界大戦の始まりです爆弾

 戦争はヨーロッパ全土に広がっていきます。

 

 1940年にはドイツ軍はオランダを占領し、ユダヤ人の生活はさらに困窮を極めていきましたもやもや

 

”ユダヤ人は黄色い星印をつけなくてはいけない。ユダヤ人は自転車を供出しなくてはいけない。ユダヤ人は電車に乗ってはいけないし、たとえ自家用車でも、自動車を使ってはいけない。ユダヤ人は午後の3時から5時までの間にしか買い物ができない。…”

 

                 アンネ・フランク 1942年6月20日

 

 アンネは自身の日記でこのように語っています。

 

 

 1942年7月、姉マルゴーの元に労働キャンプへの召集令状が届きます。

 

 いよいよ危険を感じたフランク一家は、父オットーの経営するオペクタ商会の事務所の裏手の建物に隠れ家を設置し、身を隠す準備を始めました。

 

 その後同月にファン・ペルス一家3人、同年11月に歯科医のフリッツ・プフェファーを迎え入れ、計8人で隠れ家生活を送ることとなります。

 

 約2年間にも及ぶ隠れ家生活がスタートするのですガーン

 

 

 

  日記について

 

 1942年6月12日アンネ13歳の誕生日、父オットーからプレゼントでサイン帳が贈られました。

 

 彼女はこのサイン帳を日記帳として使用し、1942年6月12日から逮捕される3日前の1944年8月1日まで日記を書き続けますメモ

 

 彼女はこの日記帳を”キティー”と名付け、キティーに語りかけるという設定で日記を書いていました。

 

 狭い隠れ家の中で、キティーが彼女にとって唯一の友達だったのかもしれません照れ

 

 

 

  登場人物

 

 さて、遅くなりましたが、ここでアンネの日記に登場する主要な人物についてご紹介します。

 

①アンネ・フランク

 

 まず1人目は、この日記の作者、アンネ・フランク。彼女は日記の中で自身のことを「天真爛漫で友達も多く活発な女の子」と自己評価しており、明るい性格の持ち主であったことが伺えます。

 

 そんなアンネですが、13歳から15歳という思春期真っ只中の2年間を、隠れ家から一歩も外へ出ずに過ごしていたわけです。不満が溜まるのは当然です。

 

 外へ出られない不満、同じ隠れ家に住んでいるほかの人々への不満、そしてナチス・ドイツや社会への不満を赤裸々に”キティー”にぶつけていますショボーン

 

 実際に『アンネの日記』では、終わりの方にもなると最初に隠れ家に越してきた頃とは比べ物にならないほど心の成長を遂げています。こうした一人の少女の心の変化を直に感じ取れるという点でも、『アンネの日記』は非常に心打たれる作品となっています。

 

 

②オットー・フランク

 

 2人目はアンネの父、オットー・フランクです。

 

 実はこのオットー、第一次世界大戦中に陸軍での活躍を評価され中尉にまで昇進したり、会社の経営を行ったりとなかなか頭の切れる人物だったといいます。

 

 また、戦後にアンネの日記を世間に普及したのも彼でした。

 

 他の住人とは対立することの多かったアンネでしたが、唯一父オットーとは喧嘩することが少なく、彼のことを非常に気に入っていました照れ

 

 

③エーディト・フランク

 

 3人目はアンネの母、エーディト・フランクです。

 

 『アンネの日記』では、この母エーディトに対してひどく不満を抱いている様子が伺えます。

 

 後の方になってアンネはエーディトに心無い言葉をかけたことを後悔している描写が記述されていますが、最後まで二人が仲直りした様子はありませんでした…汗

 

 

④マルゴー・フランク

 

 4人目はアンネの姉、マルゴー・フランクです。

 

 アンネの3歳年上のマルゴーは成績優秀で、おとなしく、常に両親から気に入られていました。

 

 そんな姉のことをアンネは気に入っておらず、日記にも彼女に対する不満が多くみられます。姉と比較されることが嫌だったようですね…にっこり

 

(フランク一家。左からマルゴー、オットー、アンネ、エーディト)

 

 以上がアンネとその家族、フランク一家です。

 

 続いて、ファン・ペルス一家です。彼らもフランク一家が身を隠したのと同じくらいの時期に隠れ家へやってきます。

 

 

⑤ヘルマン・ファン・ペルス

 

 5人目はヘルマン・ファン・ペルスです。ファン・ペルス家の主人であった彼はオットー・フランクの仕事仲間でもありました。

 

 冗談好きで非常に陽気な一面もある一方で、フランク一家とは時折衝突したり、機嫌の善し悪しが煙草の有無次第になることから、日記ではアンネから気に入られている様子はありませんでした。

 

 また、日記の中では「ファン・ダーンのおじさん」と呼ばれています。

 

 

⑥アウグステ・ファン・ペルス

 

 6人目はアウグステ・ファン・ペルス

 

 ヘルマンの妻であった彼女は主に毎日の料理を担当する非常に働き者でしたが、誰に対しても口うるさく反対するため、アンネからは非常に嫌われていました。

 

 『アンネの日記』には隠れ家メンバーに対する不満が非常に多く記述されていますが、私が読んだ限りこのアウグステに対する不満が一番多かったような気がしますあせる

 

 ヘルマン同様、日記の中では「ファン・ダーンのおばさん」と呼ばれています。

 

 

⑦ペーター・ファン・ペルス

 

 7人目はペーター・ファン・ペルス

 

 ファン・ペルス家の長男で、アンネの2歳年上の男の子です。

 

 後にアンネはこのペーターと恋仲になり、その時の気持ちを自身の日記に綴っています。

 

(左から、アウグステ・ファン・ペルス、ヘルマン・ファン・ペルス)

 

 

(ペーター・ファン・ペルス)

 

 

⑧フリッツ・プフェファー

 

 最後の8人目は、フリッツ・プフェファーです。日記では「デュッセル」さんと呼ばれています。

 

 歯科医であった彼は時折隠れ家メンバーの歯の治療を行っていましたが、マナーなどについて説教することが多々あり、アンネからは非常に嫌われていました。

 

 猫アレルギーであった彼は、自身の部屋で猫を飼っていたペーターと同じ部屋で生活することができず、アンネと同じ部屋で生活していましたオッドアイ猫

 

 その際に一つしかない部屋の机の使用時間についてアンネと揉め、なんとかオットーの仲裁で折り合いがついたもののその後2日間はアンネに口を聞いてくれなかったといいます凝視

 

 そんなデュッセルさんを、アンネは日記で「閣下」と皮肉っていますもやもや

 

(フリッツ・プフェファー)

 

 

 

 以上8人が『アンネの日記』に登場する隠れ家メンバーです。

 

 一つ屋根の下に約2年間、3世帯が住んでいたんですね…あせる

 アンネに限らず、8人全員が息が詰まる思いで生活していたことでしょう…。

 

 しかし彼らは皆ユダヤ人。外に出たら捕まってしまいます。では、食糧などはどうしていたのでしょう?

 

 

 実は、彼ら隠れ家メンバーを支援していた人々がいました。

 

 主にオットーの経営する会社、「オペクタ商会」で働いていた非ユダヤの人々であり、ユダヤ人を匿うと自分たちも捕まってしまうという非常に大きなリスクを承知の上で食糧や日用品を隠れ家に運び入れる役割を引き受けてくれました。

 

 

 ●ヨハンネス・クレイマン …会社の幹部職員

 

 ●ヴィクトル・クーフレル …会社の幹部職員

 

 ●ミープ・ヒース     …オットーの秘書

 

 ●ベップ・フォスキュイル …会社の従業員

 

 

 他にも何人かいますが、直接的に主に支援していたのは上記の4人です。

 

 自身も危険にさらされている中で約2年間支援してくれたことから、オットーがいかに人望のある人物であったかが伺えます。

 

 

(左から、ミープ・ヒース、ヨハンネス・クレイマン、オットー・フランク、

ヴィクトル・クーフレル、ベップ・フォスキュイル)

 

 

 これらのメンバーで1942年7月~1944年8月までの約2年間隠れ家生活を行っていくのですが、当然のごとく人間関係でのトラブルは毎日のように起こっていましたピリピリ

 

 中でも最年少で思春期真っ只中のアンネはマナーや考え方などで大人たちと衝突することが多く、特にフリッツ・プフェファー、アウグステ・ファン・ペルス、そして自身の母親とは頻繁に衝突し、その詳細やその時の気持ちを事細かに日記に記しています。

 

 フリッツ・プフェファーに対しては「心の狭い人」、アウグステ・ファン・ペルスに対しては「わがままで欲張りで打算的」、そして自身の母親に対しては「自分のことを理解してくれない」、「気が利かない」と不満の気持ちを記しています。

 

 

 

  

 

 そんなアンネにも恋の季節がやってきます。相手はファン・ペルス家の長男のペーター

 

 初めは人一倍内気で自分とは全く価値観の合わないと考えていた彼に対して次第に恋心のようなものを抱いていくアンネの心の動きが鮮明に描かれています。

 

”朝の9時半に、ファン・ダーンさん一家の独り息子、ペーターがやってきました。もうじき16ですけど、ちょっぴりぐずで、はにかみ屋でぶきっちょな子です。あんまりおもしろい遊び相手にはなりそうもありません。”

 

                 アンネ・フランク 1942年8月14日

 

”彼の表情には、困惑と、どう振舞ったらいいのかわからないという自信のなさと同時に、わずかにちらつく男性意識らしきものが感じ取れました。彼の物慣れない、内気そうな態度を見ると、私はなんだかとても優しい気持ちになって、こう言ってみたい衝動にかられました。ねえ、なんでもいいからあなた自身のことを話してくれない?”

 

                 アンネ・フランク 1944年1月6日

 

 

 The・思春期の女の子の気持ちという感じの記述ですね照れ

 

 ペーターへの好意に気が付くのが1944年の初め頃であり、そこからしばらくは日記はペーターのことで埋め尽くされています。

 

 屋根裏部屋で二人きりでおしゃべりしている時間が何よりも幸せであること。

 ペーターから特別な目で見られたいこと。

 ペーターが自分をどう思っているのかわからず、独りで泣いてしまったこと。

 

 アンネは現代を生きる私たちと全く変わらない繊細な心を持った、ごく普通の女の子だったのです。

 

 

  終わりは突然やってくる

 

 1944年6月6日、イギリス、アメリカ、カナダなどで構成される連合国がドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻を開始しました。ノルマンディー上陸作戦の始まりです。

 

 アンネたちユダヤ人にとってはナチス・ドイツの支配から逃れられるかもしれない、またとない機会です!

 

 アンネたち隠れ家メンバーも、ようやくこの長い隠れ家生活に終止符が打たれることを期待していました。

 

 しかし、終わりは突然やってきます。

 

 

 1944年8月4日午前10時半頃、アンネたちの住む隠れ家の前に一台の自動車が停まりました。

 

 車から降りてきたナチス親衛隊幹部とオランダ人警官数名は隠れ家に押し入り、8人と支援者であったクレイマンとクーフレルを連行しました。(クレイマンとクーフレルはその後解放される。)

 

 ミープとベップは逮捕を逃れ、後にミープによって拾い上げられたアンネの日記は現在まで保存されることとなります。

 

 隠れ家メンバー8人のうち、戦後まで生き残ったのはオットー・フランクただ一人でした。

 

 

  その後

 

 隠れ家の8人は逮捕後4日間、アムステルダム市内ヴェーリングスハンスの拘置所に留置され、その後ヴェステルボルクのオランダ最大のユダヤ人通過収容所へと送られました。

 

 ポーランドのアウシュビッツ強制収容所へ到着したのは9月になってからでした。

 

(現在も残るアウシュビッツ強制収容所。一直線に伸びるレールは死を意味している。)

 

 

●エーディト・フランク

  

 1945年1月6日、アウシュビッツ強制収容所にて飢餓と疲労のため死去。

 

 

●ヘルマン・ファン・ペルス

 

 1944年10月または11月、アウシュビッツ強制収容所のガス室にて死去。

  

 ガス室での集団処理が中止される直前のことだったということです。

 

 

●アウグステ・ファン・ペルス

  

 1945年4月9日にテレージエンシュタットへ送られ、そこからさらに別の収容所へ移送されたことは確かであるが、その後の消息は不明。

 

 途中でナチスの兵士に列車の下へ突き飛ばされたとの記録もありますが、詳細は不明です。

 

 

●ペーター・ファン・ペルス

  

 1945年1月16日、アウシュビッツからオーストリアのマウトハウゼン強制収容所へ移され、そこで同年5月5日に死去。

 

 ドイツが無条件降伏する2日前、そして収容所が米軍によって解放されるわずか3日前でした。

 

 

●フリッツ・プフェファー

 

 1944年12月20日、ドイツのノイエンガンメ強制収容所にて死去。

 

 

●アンネ・フランク、マルゴーフランク

 

 1945年2月または3月頃、チフスにより死去。数日違いのことでした。

 

 

 

 オットー・フランクはアウシュビッツ強制収容所に収容されていましたが、ソ連軍によって収容所が解放されたのち、自身も自由の身となりました。

 

 後に彼は1980年に亡くなるまでアンネの日記を大切に保管し、彼女の残したメッセージを全世界へ届けることとなります。

 

(オットー・フランク)

 

 

  終わりに

 

 以上がアンネ・フランクとその周りの人々の身に起こった悲劇です。

 

 なぜ「ユダヤ教を信仰している」という理由だけで虐殺されなければならなかったこでしょうか。

 

 忘れてはならないのが、迫害されたユダヤ人たちは現代の我々と全く変わらない同じ「人間」であること、そしてこれらが同じ「人間」によって引き起こされた実際の出来事であるということです。

 

 またもう一つ、日本人として我々が忘れてはならないことがあります。それは、このナチス・ドイツと同じ枢軸国として第二次世界大戦を戦っていたということです。

 

 当時の日本はいわば、ナチス・ドイツと協力関係にあったということです。

 

 現代の日本で生きる我々は、この凄惨な出来事の責任の一端を負っていることを忘れてはいけません。

 

”わたしの望みは、死んでからもなお生き続けること!”

 

                 アンネ・フランク 1944年4月5日

 

 

 アンネの想いは今なお生き続け、全世界の人々の心を動かしていますニコニコ

 

 

次回は、このアンネたち隠れ家メンバーを密告した人物に関する書籍をご紹介したいと考えています!!

 

 

【📚今回の書籍情報📚】

タイトル:『アンネの日記』増補新訂版 深町眞理子訳 

著者  :アンネ・フランク

出版社 :文藝春秋

Amazon:https://amzn.asia/d/27HpBZR