四柱推命とは⑤二世紀にもおよぶ長き戦国時代、中国初の統一王朝となった「秦」が滅び、鄒衍の唱えた陰陽五行説は、その後も数世紀を経て、「宋」時代には徐子平(占術師)により四柱推命術「淵海子平」いう本として著されます。さらに明の時代になると、劉 泊温という(政治家兼占術師)が「滴天髄」という四柱推命本を書きあげます。他にも「欄紅網」(後の「窮通宝鑑」)が存在したことから、明は一年十二ヶ月という生まれ日の理を窮めます。