よく晴れて静かな日だった。私は無邪気に玄関先で甘い汁が出てくる花を片っ端から吸っていた。そう、幼少期の私には遊び相手と呼べる友達がいなかったのだ。(あ、なんか泣けてきた…)すると、遠くの方からかすかに音楽が聞こえてきた。あのかすれたスピーカー音、テープが伸びて狂った音程、古き良き昭和のおばちゃんナレーション…北海道直送牛乳だ!時は来た!私はすぐさまミツオを呼びに家の裏まで走った。ミツオの趣味は日曜大工である。ミツオ!孫が頼んだタイムマシンらしき乗り物なんか陽気に作ってる場合じゃねーぞ!(飼い犬なので私の依頼は断らない)ミツオを連れて玄関先へ行くと、北海道直送牛乳はちょうど隣の住人との商談(販売)を終えて、車を発進させようとしていた。それを見たミツオは慌てて北海道直送牛乳の運転席に駆け寄る。

「おい、買うから開けろ」

もはや客の礼儀ではない。何様だ。常にアディダスのジャンパーを着ているミツオが、今はマフィアにしか見えない。運転手も、普段買いに来ない子連れ狼が現れた事に少なからず動揺を隠せないでいる。しかしながら、ミツオの迫力に圧倒された運転手は、閉めたばかりの冷蔵室を渋々開けてくれた。とうとう私は念願だった北海道から直送(たぶん)なコーヒー牛乳と対面できるのである!ところが、すでに勝利を確信した私に悲劇が起きる。コーヒー牛乳だと信じ続けたそのパッケージは…

なんとバターだったのである…。

なぜこのような間違いをしてしまったのか…そうか!私はいつも隣の住人が買い物をしている後ろから覗いていた上に、

極度の遠視だったのである!

つまりは茶色っぽいパッケージだったという事実だけでコーヒー牛乳だと自己暗示をかけていたのだ。しかも、近くで見たら大して茶色でもないし…。時すでに遅しである。運転手は早くしてくれよ的な顔をしているし、ミツオなんて可愛い孫のために活躍できた事に酔いしれてやがる。ここで「やっぱりいらない」などと言えるほど私にはミツオイズムは継承されてはいない。無言で顔を紅潮させている私にミツオが「ところで何が欲しいんだ?」と、さらに追い打ちをかけてくる。そして、私の幼い脳内コンピューターが最後の決断を下した。私が指差した商品は、

やはりバターだった…。

おそらく、運転手に尋ねればコーヒー牛乳はこのどこかにあるのだろう。しかし、今はそれどころではないのだ。一刻も早くこの状況から脱却したいのだ。もはやコーヒー牛乳でもバターでもどちらでもいいのだ。私はただ今まで追い続けてきたあのパッケージの商品が欲しかったのだ。ジャケ買いするしか道は無いのだ。それにしても、無理をして販売車を止め、孫が祖父にバターをねだるという状況は、今思い浮かべても極めてシュールな光景である…。こうして私と北海道直送牛乳の戦いは幕を下ろした。

あれから27年、私は北海道直送牛乳のメロディーが聞こえてくると、

とりあえず逃げ隠れてしまう体になってしまったのである。



ミツオは空気を読まない。読めないのではない。読まない。彼の鬼畜伝説の一つに「ヤマグチくん事件」がある。ある日、兄の友人であるヤマグチくん(当時10才)が家に遊びに来た。そこへミツオが登場。玄関先でミツオはヤマグチくんの前に仁王立ちしてこう言い放った。

「ヤマグチ、お前はケツが臭いから帰れ!」

これほどインパクトのあるセリフはなかなか聞けるもんじゃない。ヤマグチくんだって好きでケツが臭いわけじゃない。それにしてもものすごい理由。それ以上に、なんと揺るがない自信なのだろうか。以来、ヤマグチくんがうちに訪れる事はなかった。たしかにヤマグチくんのケツは臭かったけど、それにしても鬼畜の所業である。そんな非情なミツオは、あろう事か私に溺愛していたのだった。私の命令には決して逆らわない。小1の時に、本屋の最上段の棚にあったエロ漫画も文句一つ言わずに買ってくれた。味方にすればなんて事はない。忠実な飼い犬である。物心つく前から耳たぶにかじりついて母性をくすぐった甲斐があった。そんなミツオを要した私は、とうとう北海道直送牛乳と対峙するのである。今こそ開けてみせようぞ!パンドラの箱(冷蔵庫)!!(続く)