神話というのは、基本的に「いかにして世界はかくのごとくなりしか」という「世界の由来と説明」を記したものだと思います。
日本の神話だと、だいたい天孫降臨によって、暴力の代わりに天皇陛下を合意の認定者とし、「話し合い」とその「合意による拘束」によって平和な社会の構築が可能となった事をもって世界が完成した事になっています。
天孫降臨自体が、地上に平和をもたらすために、神々が話し合った結果を太陽神が受け入れることではじまっています。
これは神話が作られた当時の人々が理想的と考えたな社会の在り方が反映したエピソードであると思います。
なにはともあれ、皇室を尊崇する日本人にとって世界創造の「予定」は既に満たされており、それ以来、神話の時代は終わり、人間の歴史が始まったことになっているのです。
一方、キリスト教では、世界は未完成であるか、もしくは修復を必要とする損なわれた状態であると考えられているようです。
世界は最後の審判で完成する「予定」に導かれている訳です。
もしも、人々に定められた予定が唯一つであるのならば、予定された「その時」に至るまで、人間に観測可能な神の姿も、また唯一つであると考えるのはとても自然であるように思います。
既にすべての予定を満たしている日本人にとって、今日なお未完成な世界の中で創世の予定に従って生きる人々は神話の霧の中を生きている古代社会以前の人々でもあると言えるでしょう。
政治と宗教は一本の大樹の根本付近で分かれた二本の枝です、政祭一致とまで行ってしまうと現代社会が機能できる冗長性が不足してしまうので、相互に影響しあう程度の距離があるのが自然な事だと私は思っています。
神々に願いを届ける全人民の代理人として「拒否権」を持ちえない天皇陛下に統治された日本は、日本語さえ話せれば「至誠天に通ず」と素朴に信じられる社会です。そういった社会では人々は天が落ちてくるかのような杞憂を感じることなく、のほほんと暮らしていけるものです。
されど、世界を見ればそう簡単な場所は少ない事も確かです。多言語社会を前提とした政治とは、容易に少数派の政治や宗教への参画を阻害します。そのような場所では世界は完成した状態とは考えにくい事でしょう。
もしも、人類の科学技術がより一層進歩し、異言語との完璧な対話が容易に可能となれば、唯一神への信仰はどのように変容するのか・・・等と想像してみるのも楽しいかもしれませんね。
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尚、中国は古い神話を人間の歴史に組み変えてしまったので神話が残っていない国です。つまり皇帝の政治が神々の創世に取って代わった社会です。
結果として、皇帝に報告される事だけが現実であり、世界の正しい姿を示すという、ある種「事件は会議室で起こっている」かのような魔術的な世界観が現在も生き続けています。
中国というのは皇帝一人を観客にした劇場国家であり、皇帝に仕える官僚はその演出家です。
だから中国では偉い人ほど嘘をつかなければならないのです。つまらない現実を、より美しく華美なものとして演出するのはそのような人々の義務と言ってよいでしょう。
中国政府が国外に向かって発表する不整合の堆積物のような発言は、あくまでもたった一人の独裁者に向けた発言でしかなく、責任ある立場にある人間は嘘をつかない事を前提にしている民主的な国々にとっては何の価値も生まない物なのだという認識は、広く共有されるべきであろうと思います。
