ブログを書こうと思ってから一年、ほとんど書いてません。

 自分が15年前に「うつ」で通院を開始してから、何十種類もの薬を処方され、診断名が「双極2型」になり入院、二度の長期休職、回復、結婚、通院終了までの経緯を書こうと思っていました。

 

 書きたいことは沢山あります。一方、書きたいけど肝心なことを覚えていなかったりということも沢山あります。

 どんな切り口で書こうか、書くたびに心変わりします。むやみに精神科に駆け込んで薬なんか飲まされてはいけません、ということを書きたいと思うこともあれば、無責任に個人的な体験だけで精神医療を批判してはいけないと思うこともあります。

 

 私が薬物治療から抜け出した、というより薬物治療だけでなく精神科への通院そのものから抜け出すきっかけを作ったのは、ある本でした。

 あえてその本のタイトルは書きませんが、その本を鵜呑みにして薬をやめて悪化するのか、主治医の言うことを鵜呑みにして通院し続けるのか、一度は自分で決めてみようと思いました。

 主治医はなかなか薬を減らしてくれませんでした。ラミクタールも必要、エビリファイも必要、やめてはダメです、ということで、延々と薬物治療は続きました。

 平成14年の通院開始時に最初に出された薬はルボックスでした。SSRIが日本に認可されてまもない頃だったと思います。飲み始めに出た焦燥感を訴えても、「ルボックスはパニック障害にも効く薬ですからそんなことありません」と、まるで相手にもされませんでした。

 その後ルボックスのせいか体調は良くなりかけたのですが、途中急に体調が悪くなると、そこから三環系の抗うつ薬を次々と処方されました。アモキサン、プロチアデン、アナフラニール、三環系以外でもルジオミール、抗うつ薬以外にもデパケン、ジプレキサ、コントミン、デパス、書くときりがありませんが、通院開始から6年後、ついに休職となり、入院となりました。

 よく「休職した」という言い回しを散見しますが、「休職」とは、少なくとも私の職場では、自ら休むのが休職ではなく、「病気のため働かせられない」という管理者からの処分です。病気休暇が長くなったものではありません。

 その時の体調は最悪でした。朝起きれない、一日中倦怠感と疲労感に悩まされ、焦燥感と絶望感の入り混じった精神状態に悩まされました。何度も辞職を申し入れたり、焦って残業したり、勤怠は悪化し、管理者からは罵倒されました。

 入院したいと主治医に申し出ても、「どこの病院に入院するかですね」というだけで、まともにとりあってくれません。休職前に、一度入院の話があり、関東の東京の近くにある某有名病院に紹介状を書いてくれましたが、「単なる疲労じゃないですか?」とまともに取り合ってももらえませんでした。この医師の態度は、嫌がらせに等しいものです。「千葉県(当時の私のアパート)からうちに通うんですか?」と露骨にバカにした態度を取られたことは忘れられません。私の話は全く聞いてもらえませんでした。「入院の必要はないですね」ということで追い返されました。

 休職が決まり仕方なく再度郊外の病院に行きましたが、別の医師が出てきて、「うちは手が回らないんだよ。休職した人の支援なら、なんとか病院が有名だったような」ということで、その話を主治医にしたところ、ある大病院への紹介状を書いてくれ、入院となりました。主治医は、その郊外の病院の医師が自分の名前を知らなかったことが不愉快だったようです。その有名大病院の精神科部長は日本で最も有名なんじゃないかとう精神科医ですが、その部長の同門で一年下で親しい自分を知らないのか、ということらしいです。

 その年の12月に入院、翌年の2月に再入院して5月あたりに退院しました。肝心な話なのですが、何ヶ月入院して何月に退院したか、覚えていないのです。

 退院後、リワークプログラムに通いました。もう捨ててしまいましたが、数年前、その時の写真が掃除中に出てきました。不気味なほど生気を失った笑顔、焦点が合ってるんだか合ってないんだかわかんないような目、とても大事にとっておくような写真ではありません。

 リワークが終わり復職、再度体調を崩し、また長期入院となりました。人事からはまたも罵倒されました。

 南アフリカでW杯が開催されていた頃の話です。日中はずっとテレビを観るか、デイルーム(兼食堂)で漫画を読むかして過ごしました。退屈には感じませんでした。むしろ、本来ならこんな生活も許されない身分だとも思っていました。

 退院してまたリワークプログラムに通い、復職しました。正式に復職が発令されてまもなく、大震災がありました。職場は忙しいを通り越して、とにかく皆昼夜ぶっ続けで働きました。残業制限がかかった上震災復興とは関係ない仕事をしている自分は毎日定時で帰っていました。

 気位だけは高いので、病気を盾にしたくない、と思いながら、仕事に打ち込める体調ではなく、毎日残業もしてないのに、疲労困憊で帰宅していました。通院していた表参道に近いクリニックで処方された薬は、入院先の主治医から「あまりにも多すぎる」ということで見直されましたが、結局毎食後と寝る前の一日四回の服薬が就寝前一回に変わり、薬の内容も見直されたものの、一袋に何種類入ってるんだか数えるのもうんざりするような量の薬を寝る前に飲んでいました。デパケンの大粒を6錠、ジプレキサ、リボトリール、コントミン、ロゼレム、マイスリーも一袋の中に入っていました。一包で処方してもらっていたので、何か飲み忘れることはありませんでしたが、よくあんな量の服薬に耐えていたものです。

 毎晩そんなに飲まされて一向に回復しない体調、月に一度の5分診療で「細く長く」と助言だか気休めだかわからないことを言われていました。入院以来、退院後も前のクリニックではなく大病院に通院していました。

 6月だったか、ある晩、ほぼ一ヶ月分の薬をいっぺんに飲みました。途中目が覚めたような記憶があったようなないような、父と兄がアパートに駆けつけ、救急車に乗せられて近くの市民病院に運ばれました。職場に連絡がないので、職場から実家に連絡したらしいです。

 職場には迷惑な話です。助かったからまだいいものの、死んでいたら、課長はとんだ責任を負わされます。課長だけでなく、直属の上司の班長も。アパートで自殺となれば損害賠償を父親に請求されます。

 正直父親には申し訳なく思う一方、父親への恨みは消えていません。小さい頃から両親は諍いが絶えず、小柄な母に異常なほどの暴力を振るい、離婚後に入り込んだ後妻とその連れ子に何度嫌な思いをさせられたことか。実母は実母で、悲劇のヒロインのように昔のことを話しますが、「お前のことは死んでも守る」というようなことを言われたこともありません。子供を置いて家を出て、再婚相手に恵まれて幸せにはなりましたが、「あんたが俺を引き取ったら、そうはならなかったね」といつも心の中で思っていました。

 私には欠落している部分がたくさんありすぎる、というか、何をやらせてもダメな人間です。紐を結べるようになったのもかなり遅かったし、綺麗に食事ができない、箸がまともに使えない、学校の机の中はぐちゃぐちゃ、いじめにも遭い、冗談で言っていいことと悪いことの区別ができない、部屋を綺麗に整頓できない、忘れ物が多い、と、今だったら、「発達障害じゃない?」と無理やり病院行きでしょう。

 親にしつけられた記憶がありません。母親自体まともに箸が使えない人間です。ご飯粒は茶碗にびっしり残す人です。そんな母でさえ、出来の悪いを超越した私に嫌悪感を覚えることが多々あったようで、「精薄児」とことあることに私を罵り、ひっぱたきました。

 昔から人から怒られることに必要以上に恐怖を覚えていました。普通の親が子を叱るような叱り方をする両親ではなく、「精薄児」と罵りひっぱたく母親、血走った目で髪の毛を引き摺り回して投げ飛ばす父親の顔がトラウマ、といえばもっともらしいのですが、教師が私を怒る時も、「こんな子供は存在自体許せない」というような、「なんなんだこいつは」というような、怒りを抑えきれない顔で私の顔を叩いていました。

 

 毎日残業もしていないのに疲労困憊、楽しいことは何もなく、職場でも後ろ指、再び自殺を考えるようになりました。

 入院していた大病院への通院をやめ、また元の有名繁華街からちょっとだけ外れた一角にあるクリニックへの通院を再開しました。どうせどこの病院も薬を出すだけ、そのために休暇を使うのは馬鹿らしいので、仕事が終わってから通院できる元のクリニックに戻りました。

 主治医に処方薬の変更を申し出て、デパケンをやめてラミクタールに変更しました。薬疹がどうとか言ってられない、とにかくなんとかしたかったのですが、まずラミクタールを処方する前に、デパケンの血中濃度をゼロにする必要がありました。

 デパケンを徐々に減らし、最終的にゼロにするのですが、その間、体調はさらに悪化しました。目玉が左右バラバラに勝手に動くような感覚、体に鉛が埋め込まれているような疲労感はさらに酷くなり、「入院した方が」ということで、入院していた大病院に。そこの主治医がいない日で、一番偉い先生が、「明日(主治医の)先生が来るから、予約しておく」ということで、翌日また行くことに。その日になって、やはりどうしても入院はもう嫌だ、と思い、仕事の都合とか言い訳にキャンセルしました。

 もう少しラミクタールを増やしましょう、と増やして数日後、霧が晴れたように、というか、嘘のように体調が良くなっていました。

 デパケンを飲まされていた時は、仕事になりませんでした。文章数行書くのも数時間かかり、少し仕事が立て込むと体調を崩し、その度に病気休暇となってました。ラミクタールに変わってから、嘘のように普通に仕事ができるようになりました。

 

 回復して数週間後、妻と知り合い、数ヶ月の交際の後結婚、念願の人事異動、あとは周囲と同じように頑張って働こうと張り切っていましたが、少し残業が続くと体調は悪化しました。相変わらず寝る前に何種類もの薬を飲まされ、その中には当然睡眠薬も入っていますが、夜12時半にそんなもの飲んで翌朝スッキリ起きられるわけもありません。ちょくちょく休暇を取りながらなんとか忙しい時期を乗り切れたと思ったら、また体調を崩して2週間の病気休暇。結局七ヶ月でまた異動。

 異動先でも二度の病気休暇。一時期妻とも険悪になりました。結局周囲の配慮に甘えながら仕事をする毎日。そんなある日、一冊の本の存在を知ることに。有名な本ですが、あえてタイトルも隠します。その本を読んで早速主治医に減薬を申し出ましたが、「ダメです」「必要です」とけんもほろろ。

 並行して、人事に、地方異動を申し入れていました。人事からは、服薬していることを非難されました。「薬が必要、薬が必要、って、医者に操られれてどうする」と罵られました。罵った、というのは私の受け取り方の問題で、その人事担当者は、あえて厳しく言ったのでしょうが、自分だって薬はやめたい、主治医は相手にしてくれない、という日が続きました。

 昨年転勤となり、関西に転居となりました。減薬の申し出は割とすんなり聞いてくれました。睡眠薬をゼロにするのは大変でした。アモバンを飲まないと眠れない体になっていましたが、7.5mgをさらに半分に割り、転勤前に中止していたロゼレムを追加で処方してもらい、徐々にロゼレムだけで眠れるようになってから、睡眠薬をやめました。

 転勤する前に、すでに睡眠薬以外の薬は、ラミクタールとエビリファイだけになっていましたが、エビリファイもやめてもらいました。

 ラミクタールも徐々に減らし、最終的にゼロにする時は、さすがに主治医からも「うーん」と言われましたが、「体調が悪化したらすぐ来ます」と約束してゼロになりました。

 昨年11月、「薬がなくなっても、体調に変化は全くありません」と申し出ると、「ひとまず、治療は終了としましょう」となり、14年間の通院は終わりました。

 

 14年間の通院はなんだったのか。薬漬けにした医師が憎い、と言いたいところですが、実際恨んでいますが、初めて精神科クリニックのドアを開けた時のことを思い返せば、元々は自分の弱さ、性格の未熟さが原因です。

 私には精神医療の問題とか精神医療はどうあるべきかとかなど、わかりません。ただ、自分の経験だけを言えば、弱くて未熟で葛藤や苦痛を他者に解決してもらおうとしていた30過ぎの私の男の話を聞いてくれて医療措置が必要と判断して病院を紹介してくれた産業医、いきなり抗うつ薬しかもSSRIを処方しその後何種類もの薬を処方した医師、こんな処方は多すぎると薬を見直し私を双極2型障害と診断し入院させ気分安定薬他何種類も寝る前に飲ませた医師、私の申し出を聞いてくれた最後の医師、他にもいろんな先生方との出会いがありました。リワークの時にお世話になった作業療法士の先生、臨床心理士の先生、主治医不在の時に対応してくださった医師の先生と、皆患者のことを真剣に考えてくださる先生です。(郊外の病院の医師は別として)

 

 私に診断名をつけようと思えばいくらでもつけられます。発達障害の傾向もあります。仕事は時折ケアレスミスがあります。仕事に必要な知識をじっくり調べるのは苦手です。張り切って仕事しても馬脚を露わにします。自分の思うようにならないとすぐ落ち込みます。嫌いな人と折り合いをつけることができません。嫌いな人には嫌いだということを示さないと気が済みません。女性と仲良くなっても、好意を持つとやたらしつこくなります。そのうち相手は当然避けるようになります。友人はかなり少ないです。高校時代の友人はかなり少なく、中学生までの時の友人で今でも付き合いが続いているのは数人だけ、職場で飲み会があってもほとんど誘われません。度を過ぎた冗談を言うので、よく嫌われます。中学生までは忘れ物が多く、先生に怒られ、クラスではいじめられていました。私と対照的に、不良だった兄が、友人の弟さんに頼んで、いじめていたクラスメートをひどい目に合わせてから、いじめられなくなりましたが、調子に乗った私を「思い切り殴りたい」と何人かの生徒から思われていたようです。人の言うことは真に受けます。地道な努力はできないくせに人からどう思われるかを気にします。異動先の業務内容について「いいなー楽で」とか「そんな仕事じゃなくて企画立案とかじゃないとダメなんだよ」と人から言われてずっと悩みました。一般事務職なんだから会計事務をやらされるのは当然の話なのに不当な人事と受け取っていました。

 

 精神科の先生は優しい人が多いです。揶揄でも皮肉でもありません。「そんなことでいちいち」とか言いません。悩みは聞いてくれます。病院も紹介してくれます。薬もくれました。悩みと病気の線引きは医師次第です。元々の性格か後から病気になったのかも大事でしょうけど、まず実際に苦しんで生活に支障が出ていれば治療の対象になります。「俺は弱いわけじゃない。病気で苦しんでいるんだ」と私は妙に安心しました。通院開始の翌年、念願の人事異動がありました。張り切って仕事したものの、覚えることも業務内容も高度で、ついていけませんでした。ついには一ヶ月病気休暇となりました。それからも体調は一進一退、ついに入院、休職となりました。

 「双極性障害は内因性の障害。やっぱり俺は病気、弱さじゃない」と自分を慰めつつ、飲みに誘ってくれる人もいなくなり、そもそも飲酒禁止、休みの日はぐったりで日曜の朝10時になると「もう休日が終わりに近づいている」と不安になり、産業医からは「いくら頑張っても手は生えてこない足は生えてこないのと一緒です」と助言され、ラミクタールで回復したことで「やはり病気を受けれることは大切だ」と達観した気分になり、結局薬がなくなっても体調に変化はなく、むしろ毎晩ぐっすり眠れ、元気に生活ができるようになりました。

 

 軽躁エピソードは確かにありました。極め付けは、車の異様な買い替えです。通院開始翌年、買って一年少し経ったばかりのレガシイを売り、独り者なのにミニバンのウィッシュを買い、半年後にアテンザスポーツワゴン、半年後にレガシイ、一年半後にミニバンのアルファード、一年後にMPV、一年後にフォレスター、一年半後にレガシイ、二年後車を売却してからまたアウトバック、一年数ヶ月後にフォレスター、それを売って車のある生活を諦めたはずなのにまたアテンザワゴンを購入と、まあいくら精神疾患でもこんな人他に日本中探してもいないでしょう。

 

 私と結婚してくれた妻には感謝しきれません。病気になってから知り合った女性は、ほとんどの方が黙って去るか、なんて断っていいかわからないようなメールで交際を断りました。妻だけは、「病気にならない保証のある人はいない」と言ってくれました。

 ただ、私が、せめて異様な車の買い替えをしなければ、妻にもっと安心できる生活をさせられたはずです。毎月とボーナスからごっそり引かれるローンがなかったらと毎月思います。それでも私が働いているから楽しく暮らせると言って私にいつもお礼を言ってくれる妻には頭が上がりません。

 

 書き募ってみて、やはり私は幸運です。リワークで知り合った人たちで、無事に復職した人もいますが、失職された方もいらっしゃいます。なかなか回復せず休職を繰り返されている人もいます。

 私は結婚までしています。昇進が相当遅れて年下にどんどん抜かされてることを未だに気にしていますが、やはり幸せなのです。

 自分の経験から精神医療の問題を抜き出すことは私にはできません。このブログを始めた時、うつ病や双極性障害の過剰診断や過剰処方への批判を盛り込もうとしたのですが、私の頭では無理なようです。

 

 読んでくださった方が何かの参考にしてくだされば幸いです。