街道の旅に戻ります

 

柏原宿は建物の保存状態も、自然な感じがしました

いぶし銀のような輝きがいいですね

 

さて、次は今須宿を目指して走ります

 

今須宿って”いわく付き”とコメントをいただき

何のことかわからずに調べてみたところ

今須は、元々 異升からきていると

 

意味が分からんかもしれないので説明しよう

 

今須の領主は

年貢を徴収する際は、大きな升

コメの貸し付けの際には、小さな升で計ったことから

異升・・・います・・・・今須になったとか

 

ほんとうかどうかは分かりませんが

領主が死後、地獄で鬼にいたぶられるのを目撃した僧侶が、息子である長江重景に告げたところ、善業としてお寺を建て供養したと・・・

 

これが、いわくなのかと思いましたが

どうも違うようです

 

ちょっと話はそれましたが、今須へ行きます

貨物列車が通過していきます

 

 

踏切を渡り、線路の反対側へ

 

線路沿いを走っていくと

分水嶺がありました

ここに降った雨は、進行方向に流れると伊勢湾へ

手前へ流れると、琵琶湖を通り大阪湾へ

流れていくのです

 

 

こういう所へ来ると

なんだか浪漫を感じてしまいます

 

 

よぉ~し

 

立ションベンしてどっちに流れるか試してみましょうか・・・

 

 

 

冗談ですよ

 

 

さて、やって来たのは

 

ちょっと宿場チックな所

 

ここは、滋賀県米原市長久寺

またの名を

寝物語の里

なぜ寝物語のか・・・

 

それは、次回!

 

 

 

 

なんてことはしません

 

若干妄想が入っていますが

たぶん こうだったんじゃね?と

自分なりの解釈で書かせていただきます

 

 

遡ること遥か昔

 

一人の女性が

この地で宿をとりました

その女性の名は 静

 

静御前と呼ばれ、源義経の妾さんでした

 

当時

源義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした最大の功労者であったものの、頼朝と対立し朝敵として追われてしまいます。

源義経は途中まで行動を共にしていた静御前と吉野の地で別れ、奥州へのがれます。←ほったらかしかい・・・

 

一方、源頼朝に捕らえられた静御前は

義経への愛を貫き

頼朝に命じられ、舞を踊るときでさえ

義経を慕う思いを詩にするのです

 

たとえ、自分の命が危険に晒されても

その思いは変わりません。

 

あ~ なんかキュンキュンしてきました

 

 

後に京に戻った静御前は

義経が奥州に逃れたこと知り、後を追ってきたのです

 

 

当時

国境に並ぶ二軒の旅籠があり、その片方に静御前が泊っておりました。

 

ほんと、偶然だとは思うのですが

 

(この辺りに宿が並んで立っていたようです)

 

 

泊った部屋の隣の宿から

なにやら男の声で

武勇伝 武勇伝でんでん武勇伝

が聞えてくるのです

 

どうやら、話の内容から源義経の家来たちが泊っているようなのです

 

それに気がついた、静御前

自分の部屋から 

「どうか私を一緒に連れて行ってくださいと」

家来の江田源蔵に懇願するのです・・・

 

その後、静御前は源義経に会えたかどうかは分かりませんが

 

そんな言い伝えが残っている

「寝物語の里」

 

一度訪れてみてはいかがでしょうか

 

ふぅ

長かった

 

ちなみに、ここを走っているときは

そんなこと、まったく知る由もなく

 

国境があるなぁ・・・位の認識でした

 

さ、

続いてやって来たのは

車返坂

 

もう、色んな坂がありますよね

欅坂とか乃木坂とか

 

 

車返し坂 新しいユニットでしょうか・・・

 

 

 

くるまかえし坂というぐらいだから

 

車が上れないような坂なんじゃね?と思ったそこの貴方

 

違いますぞ~~~

 

この坂は何と

 

歌人で公家の二条良基大臣が乗った牛車を引き返したことが由来なのです

 

え。。。

それだけ・・・

 

 

とおもうでしょう

 

それだけです

 

 

この歌人で公家の二条良基大臣は

歌や連歌の大成者なのです

 

いわゆる、今でいうトップYoutuberみたいなものでしょうか

 

 

ある日の事

不破関屋という ここから数キロ先にある関所の建物が壊れ、板庇(いたびさし)から漏れる月の明かりが風流だという話を聞き、どんなものか見たくなったようです。

さすがトップ歌人、のネタ集めでしょうか・・・

 

京から牛車を飛ばし←遅いけど

ここまでやって来たのです

 

一方、関所の建物の主は、

「やっべ! そんな偉い人が来るなんて・・・直さなくっちゃ」と思ったらしく、板庇を綺麗に直しちゃったんですよ

 

その話が、丁度この車返し坂辺りで二条良基大臣に話が伝わって

 

な~んだ

行っても仕方がないな・・・と引き返したのだとか

 

 

偉いさんがくると

そんな話も地名になるんですね

 

スゲ

 

・・・・

 

というのが、車返し坂の由来でして

けっして坂が急だったとか

48人いたとか

不協和音だとかはありませんので

お間違いなく

 

今須宿に到着しました

左手に見えるのが

物流を支えた、問屋場の跡です

今も建物が残っていて

当時は九里半街道の継次をしていました

 

今須宿は

本陣が1軒、脇本陣が2軒、旅籠が13軒と

宿泊施設としてはそれほど大きくありませんが、問屋場は7軒あり、いかに物資輸送が多かったかわかります

 

本陣の跡にやって来ました

 

今は看板だけになっています

 

というのも、明治時代の凶作で本陣や問屋場は農民に襲われ焼き払われたみたいなのです

 

これが ”いわく付き”とコメントをくださった しも像さんのお話(何のことか分からない方は、Youtubeの方を見てください)

 

 

そして、本陣の前にあるのが

異升の悪行を償う為に建てた

妙応寺・・・

徳川家康が腰かけたという、石が残されています

 

ですが、

 

こんな感じだったので

な~にも写真を撮っておりません

 

すまぬ・・・

 

ここまでの道中は

動画でどうぞ!

 

 

 

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