自分の身のまわりにある出来事や、思いつく心の問題などを静かに考え、自分自身と語り、見つめていこうと思います。
共感して下さる方がいらっしゃいましたら幸いです。
シンクロナイズ
この世界の本格的な勉強を始めて2年ちょっと。最近、いろんな先人の理論とかを勉強してこれを現実のクライアントに適用していく過程において、自分なりの理論の「融合」が度々出てくるようになって、とても不思議です。一番大切に想っていることは、前にも書きましたが、理論・手法的には「日本人に合致した方策」が必ずあるはず、先人の考えを大切にしながらも、「日本人」であること、古くは「普遍的無意識(ユング)」に通ずるところの「日本人」があるはず・・・ということです。
カウンセラーとしてはまだまだ青二才の分際ですし、本業は全く異なり、 副業(というよりは収入を求めていないのでボランティアですな!?)の分野での主張のようなものですが、逐次掲載していきたいと思います。
なぜ自分だけ・・・
今日、というか、ここのところ仕事に目一杯打ち込んでいたのはいいのですが、ふと今夜になって「なぜ自分だけ・・・」という想いが久しぶりにわき上がり、「お~、こういうのが無意識に自分を暗黒に引き込むサインなんだろうな」と自覚したところです。この自覚できたということは、まさにカウンセラーになったおかげで、早いうちに自己分析したりすることが習慣となったから、冷静に分析しているのでしょう。カウンセリングや心理学を勉強していなければ、ひょっとしたら「うつ」に入っているかも知れません。
人間は不思議です、今月の私の仕事も、そこまでしなくても大勢に影響はない、とは思いつつも、自分で納得できるまで仕上げないと気が済まない性分が影響し、周りの皆さんが帰宅しても、1人で夜中までチマチマやってしまうのです。こういう人は要注意(*_*)。一般的には、周囲から「できる(放っておいてもやってる)」といわれる人ほど、自殺が多いのです。
平常の心理では、誰でも自殺なんてとんでもない!いくらなんでも死ぬことはないやろ!死ぬ気でやるなら、なんでもできるやろ!・・・と言いますが、「うつ」のケが出てくると、そういった判別自体が出来なくなるのでしょう。
私は同級生でなおかつ同じ職域の人を自殺で無くしました。後輩で、とても人間性がよく、先輩である私の言うことも素直に受け止めてくれていた、これも同じ職域の後輩を、2名、自殺で亡くしました、原因は定かではありませんが。
なんとかこの、人間社会において、「うつ」というような心の風邪や、周囲の配慮があれば難なくもとのその人に戻れるような術があると思っています。『今の時代は、わざわざ意識して気を遣う時代』です、なぜなら、個人保護・個人主義(プライベートという言葉で接触を避ける悪習)が悪い面に作用し、個人の心も孤立化し、昔では考えられないような軽い落ち込みでも、自分で自分を殺めてしまう・・・そんな時代なんです。どうかこのブログを見て頂いてる皆さんには、疎ましく思われるかもしれないという葛藤をはねのけて、皆さんにとって大切な人のことを想い、気遣い、そしてそのような日本人ならではの対人関係における心の置き方を、子供達に残していって頂きたいと強く想うところです。
ジャンル変更のお知らせ
これまでボランティアの方で投稿させて頂いておりましたが、この「日記・ブログ」ジャンルに変更致しました。内容的に日記調なものなので、こちらの方が適した場所なのかなと(^_^;)・・・これまで読んで頂いている方々には引き続きお付き合いをお願い致します。また、新しく見て頂いた方々、今後よろしくお願い致します。 salvo
構 え
幼少の頃から成人する頃まで、剣道を習っておりまして、その修行の過程において「構え」というのがありました。この『構え』については殆どの武道が有するものかと思います。
現代の剣道は、武士の習わしとしての様々な剣術があった中でも、幕末に千葉周作氏が築きあげた北辰一刀流とその求めるところが受け継がれていると学びました。特にその色合いの濃いのは、各流派の構えは似たようなものではあるものの、神秘性を有しない教え(例えば、「この構えは神に通ずる構えであり、神力が備わり・・・云々」のようなものが一切ない)のもと、竹刀と防具を使ってひたすら『技』の向上のための効率性を追求したということです。よくTVの時代劇の道場で、「お手合わせ願おう!」などと言って木刀で打ち合い、倒れるというシーンがありますが、怪我をしては次の稽古が出来ませんし、稽古の「頻度」にもかなり影響するわけです、千葉先生はそのあたりの「何が大切か」について、精神論ではなく具現・実現していった方なのだろうと思います。そしてその剣道の世界では、『正眼の構え』、『上段の構え』、『下段の構え』、『八艘の構え』などがありました。
二刀流の有名人の宮本武蔵氏は皆さんご存じかと思います。
特によく憶えているのが、正眼の構えにおいて、竹刀の先を細かくふるわせる『鶺鴒(セキレイ)の尾』と言われる動きでした。先生方からは、「このように振るわせるのだよ」と教わりましたが、高校1年生くらいまでは真似事に終わり、倒れるくらいの稽古を乗り越えて臨んだ選手権などで、やっと無意識に出るようになったかな、というところです。
『構え』とは、「敵に対する備え」とも受け取れます。心の持ち方を含めた構えが整っていないと、敵のあたゆる攻撃に翻弄されるだけで、いわゆる『受け手』だけで終始し、最終的には敵にしてやられるということは理解できると思います。
人生においても似たようなことが考えられるのではないでしょうか。武士の世界でいう『敵』を、今の自分に対して作用する、『マイナスの事象』と置き換えができるとすれば、やはり『マイナスの事象は何か』を知識的に知らないといけませんし、ではそれが『いつ作用してくるか』を想定しなければならないわけです。これらがある程度、自分の納得できる理論として全体像が把握できるならば、きっと自分の人生における、重要局面の前の「構え」は、ある程度できるのではないか、「備え」になるのではないかと思うのです。
常に構えている必要はありません、それは疲れます。従って、緊要な時期というものを考え、ある程度先行的に構えの概要を考え、あとは『敵』の強さに応じて逐次準備していけば、人生がわからなくなったり、自暴自棄になったりせずに済むように思うのです。
また、突発的な出来事で「はっ!」としたような時にも、この構えと対処法の経験があれば解決の糸口や、大きな方向性というものを比較的冷静に考えていけるのではないかと、思うのです・・・。
「らしさ」を味方に
ふと思いつきなのですが、「~らしさ」とは、とても便利な言葉だなと想います。
男らしさ、女らしさ、大人らしさ、子供らしさ、政治家らしさ、指導者らしさ、初心者らしさ、科学者・研究者らしさ、年寄らしさ、若者らしさ・・・、思いつくだけでも5万とありそうです。その意味合いを考えて一例を書いてみると、男らしさ=力強さ、女らしさ=優しさ・・・等々となるんでしょうが、かたや、これを二律背反で考えると、男らしさ=力強さ=(?)強引、女らしさ=優しさ=(?)厳格性の欠落・・・となります、おもしろいものです。従って、「~らしさ」を使う際には、第一義的に褒め言葉なのでしょう、尚かつ、一定方向のみに期待していると見ることができると思います。科学者・研究者=専門性ある知識=(?)オタク?(^_^;)ということです(私も一応、今は研究畑で仕事をもらっていますので、これは批判ではありません)。
後輩指導などでよく「自分らしさを発揮しなさい」というのも、あなたの良い面を伸ばしていきなさいという気持ちなのだろうと、この意味合いには決して自己中心的な行いは含まれず、概ね周囲のものが許してくれる範囲での個性の発揮、ということなのだろうと、先程考えていました。
何か悩み事のある人、というよりは、世の中、何某かの悩みはあるものです、ですから皆様(と訂正)!この「~らしさ」を味方につけて生きてゆけばいいように思います。周囲の評価を気にしすぎるよりも、自分はこういうところがいいのだ、これでいいのだ!(天才○○○○の歌ではありませんが(^_-))と早く見つけて、心の中の本当の自分とイメージを一致させ、共にその道を歩むんです。そうすれば、普段周囲との比較の中で苦しんでいる表層の自分と本当の心の中の自分が接近し、心が楽になるのではないでしょうか・・・。ジコチュウは嫌われますが・・・。
傾聴10年③
私が協会資格を取って、自称「ボランティア・心理カウンセラー」として活動を始めて、約1年が経過しました。計算からいくとあと9年の聴き方修行の道程となります。1年間を振り返ってみますと、様々な方とお話をする機会があり、自分自身とても勉強になりました。百万人の心は、百万通りなり。
友人・知人関係を通じての相談が多いためか、カウンセリングというよりは法規的な面での不安であるとか、職場の人間関係のうち、職場の同僚を気遣ってどうしたもんかというような内容のものもありましたが、いずれにしても相談に来てくれるということは、ある程度認められているということでしょうから、人としてありがたいことだと感じます。たとえ、正統派のカウンセリングという行程を経ることがなくとも、本人が生き生きとしていければいいわけですから。
もうひとつは、メール・カウンセリングです。これも一長一短あってまだまだ試行段階ですが、なかなか直ぐにはレスポンスを返すことができず、見れる時に見て接するというやり方でいい人でなければ、本職に専念しなければならない面もあって、うまく行かないような時もあります。ただ、思いついた時にメールしてもらう、それを後刻真剣に答えるという点においては、クライアントが働いている方であれば、都合が良いかもしれません。
あと9年、というよりは、時代も変化してゆきますから、この道はどこまでも続く道なのでしょう。
二律背反
人は、何かをしようとするときに、するかどうか迷ったり、何かが終わった時などに失敗して落ち込んだりするものです。感情の動物ですからそれが人間らしいとも思います。
そこで、少し考えてみたいことは、我々の生活の行いの中には、2面性を有するものが多いということです。例えば、何かに失敗したとする、そうすると失敗した自分の身の上ばかりが気になりがちで、自分で自分を更に落とし込ませている場合が多くありますが、これは失敗という一方向だけしか見ることが出来ない状態、本人にとっては衝撃であったのでしょう。しかしながら、「失敗したということは次の機会を与えられた」と考えることはできないでしょうか。失敗して命を落としてしまったらどうしようもありませんが、この世の中、命ある限り必ず再出発できるわけです、自分でフタをしない限りは。失敗という一方向だけ見ているのではなく、次の成功の方向をできるだけ早く見てみることです、成功するにはどうすればいいか。一般的によく「プラス思考」とか「失敗は成功のもと」というような言葉で言われることとほぼ同じかと思います。 同じく、成功した時にもこの2面性は考えた方がいいわけです、次は落ちるぞと。一般的には「勝って兜の緒を締めよ」というような意味合いです。
このように我々の行いの中には、2つの相反することが存在し、ある時点での決心(これは大げさなことではなく、日々、その時々に2者択一によって生活しているのが人間でありますから:例:飯を食う、食わない)どちらに行くかは本人の意志によるものだということです。そして、成功に進もうとする中でも少し後ろを振り返りながら(意識しながら)進まざるを得ない訳で、その前進を止めようとする引力が強ければ強いほど、心的に強さを持たなければ進めない訳です。
特に自分を見失うほどの出来事があった時には、是非この2面性:「二律背反」の原則を思い出し、心の健全性を保って頂けたらいいなと思います。
しばらく書き込みを「さぼっていた」とするか、「エネルギーを蓄えていた」とするか・・・、これは言い訳かな(*^_^*)
謹賀新年
「一年の計(?)は元旦にあり」、元旦は地元に帰省して両親・家族とともに、いい時間を過ごさせて頂きました。これも皆様から頂いている「生きていくエネルギー」のお陰でなし得た行いである、と深謝申し上げます。
正月に特段何をしたということもありませんでしたが、大晦日の暴飲・暴食・好きな時に寝る、紅白はいつ終わったの?おせち料理は少しはサバけたかなぁ、24時まわる前にソバ食え~!あ~今年も「来る年」になっちゃったぁ~、という、九州弁でいうところの「どげんでんよか」状態から、元日早朝に直近のご先祖様である義母の墓参りをした後(今年は残念ながら初日の出は拝めず)、自宅の神前において祖霊神と義母に接し、心を正した次第です。昨年に同じく、元日から墓参りをしているのは我が家だけでしたが、俗世間の流れに惑わされず、何が大切かを子供達とともに考えて行動する、この元日墓参りは、我が家のオリジナル教義として家族皆が理解していることから、とても清々しいものとなっています。
1年を振り返るとだめな自分、不能な自分ばかりを思い出してしまうわけです、しかしながら、心を真っ白にして墓前や神前においてご先祖様を想う時、全ては「想定内だよ、まぁこれから励め」と激励されているかのように想うのは、私だけでしょうか。カミに接する瞬間という考えと、その際の心持ちのあり方というのも、大変大切なものだと思っています。
「お願い」は短節に。正式参拝(昇殿しての参拝)においては、玉串奉奠の際に神職から玉串を受け、これを右回しで縦にし、次いで御玉串の根本を両手で掴み一礼する瞬間・・・だけなのでしょう。
本年もどうか、皆様ご本人とご家族皆様が、人間らしく、生き生きと過ごされることを祈っております。本年もどうぞよろしくお願い致します。
心の構造
心の構造について、ジークムント・フロイトの説に始まり、表に出ている部分が「氷山の一角」に例えられ、深層心理の部分が氷山の水面下にある、氷山のほとんどの部分であるということで私も学びましたし、良く知られているところです。また、深層心理の中には「普遍的無意識」が存在し、これは個々人単位ではなく、民族なり、人間という種なり、そういうグルーピングで繋がっている意識が存在すると説いたのはカールグスタフ・ユングでした。
もちろん、心は形があるものではありませんから、「例え」で解りやすくその構造を説明しているということです。形といえば、ハートマークがありますし、悲しみや喜びは心臓の鼓動や胸が締め付けられるような痛みに感じますので、心が胸のあたりにあるような感じにもなり、「胸に手を当てる」のもその感覚から来ているのだと思っています。
私は冒頭の理論を大切にしながらも、心は海のようなものだと捉えています。赤道付近は暖流を起こし、両極付近は寒流を起こす、遠浅の部分もあれば深海もある、外乱(海に対しては太陽熱、大気の変動:気圧・風の風圧・気温、月の引力(潮汐)、地震、地殻変動(海底火山なども)、人的かかわりとして工事や船舶往来など)によって様々な潮の流れや様相を変化させるものです。これまで私の記事を読み続けて頂いている方は既に理解されているかと思いますが、心も外乱によって変化するものなのでしょう。しかし、それは海面付近の些細な出来事であって、深いところでは急激な変化というものはなく、何万年もの状況が継続し、気づかないほどゆっくりと時が過ぎているわけです。「重心」には変化がないわけです。
もうひとつは、昔、水面付近の嵐によって辛い想いをしたある船が、沈没船となって何隻か深海の方に眠っており、水面付近の状況が目に入りすぎて、この沈没船のことを忘れてしまっているかもしれない、そして、実はその沈没船の中は、宝の山かもしれないということです。
ですから、目の前で今起きている事象は水面付近のササクレであって、本当の自分の心はもっと深いところに重心をもっていけるのではないかということです。外乱があって心に影響している(波が立っている)事象に対処する心がけとして、水面付近でバタバタして溺れそうになるか、あるいは深海部から第3者的に、又は客観的に「あ~、表面は荒れとるんやな」と捉えることができるかどうかということなんではないかと想います。
自分の心だから自分が一番良く知っている・・・はず・・・だけど・・・!?客観的に分析してみると、水面に囚われすぎている自分がいるのかもしれませんね。
百年兵を養うは・・・・・
(今日は全く別の観点から)
『百年兵を養うは、平和を求めるためである。』・・・連合艦隊司令長官であった山本五十六公が、開戦前に述べられた言葉です(今NHKでやってます、パクリですみません)。山本長官は、現場の指揮官であったわけですが、戦争回避を願い、ギリギリまで政治の力に願いを込めながら、これまでの海軍艦隊戦闘という戦い方では強大な米国には勝ることはできないと考えて航空作戦による奇襲を周到に準備しつつ、ワシントンでの外交交渉の結果を待ったのですが、定められた日時期限に連絡なく、開戦の火蓋を切らざるを得ないのでありました。
しかしながら、日本から米国への開戦通告は、攻撃開始から55分後という結果となってしまい、奇襲によってアメリカ国民の戦意を喪失させるどころか、日本がだまし討ちをしたという認識となり、アメリカ国民は日本憎しとなったわけです。
その裏話はNHKでは放映されませんでしたが、通告が遅れるような工作がなされた、奇襲の情報を事前に入手し戦艦アリゾナなどのボロ船を並べておいた、米英首脳会談の段階で既に日本を潰してやるという話があった、それに基づくような日本からの外交努力の無視、実行不可能な要求などなど、周到な米英の戦略に翻弄され、開戦に追い込まれたという側面もあったようです。
『百年兵を養う』、これは、百年間にわたって兵隊を保持して鍛えるとの意味ですが、まさにこの世界では一朝一夕で軍などできるわけもなく、それを戦力化する(装備を完璧に使いこなす、あらゆる能力を結集する、適切な時期・場所にこれらを指向するなど)には愚直に、ひたすら訓練を繰り返すなどの積み上げなどによることが必須という意味と捉えています。そしてそれらの努力は、国家の平和を維持するためであると述べられたのでした。
この言葉を述べられたのは、たしか、やったことのない航空作戦を提示し、これまでやったことがない超低空飛行(水面10m)により魚雷を発射するという困難かつ相当の技量を要する戦法に対し、生きて帰れないと航空部隊の者が言った際の教示であったと思います。生きて帰らずして平和を守れるか、とも受け取れます。
私達も平和を願いつつ、自分個人に科せられた使命については、自分の腕を最高の技量にまで磨いて備えなければ、国の礎石となった先輩方に申し訳ない気がします。
