香港のとあるホテルのバーで一人グラスを傾けていた。そこへ初老の男が隣のスツールに腰掛け私に英語で話しかけてきた。フランクな男で、話が弾んだ。やがてその男は「今日は楽しい、一杯奢ってくれ」と言い出した。「今日は楽しい、一杯ご馳走しよう」ならわかるが、奢ってくれとは図々しい野郎だ!と思いながらも楽しい雰囲気を壊したくなかったので一杯ご馳走してやった。そのグラスが空になる頃には、奴は私とは反対のスツールの客と話し込み、やがて私にしたようにその客にもビールをせがんだ。
男はグラスが空になると席を立ち、様々な客に声をかけ、何杯ものタダ酒をせしめていた。やがて元いた私の隣のスツールに戻ってくると、急に大声で何かを叫び出した。そして私を指差してバーテンダーに何か喚いている。どうやらカウンターに置いておいた財布がなくなったらしい。そしてその原因は私…つまり私が盗んだのだと主張しているらしかった。
とんだ濡れ衣だが、私は冷静だった。バーテンダーが私に向かって目配せした。その目は ”大丈夫心配するな、おまえが犯人でないことはわかっている” と言っていた。やがて警備員か警察かわからないが制服姿の男2人がやってきて、ビールで酩酊したその男を店の外に連れ出していった。バーテンダーによればあの男はタダ酒常習犯で、財布が盗まれたと騒ぐのも今回が初めてではないらしい。しかし、一杯とはいえ酒をご馳走してくれた相手を盗人呼ばわりするとはどういう神経をしているのだろう。可哀想な男だ。
この話は香港が中国に返還される以前のことで、私が最初に香港を訪れた時のことだ。香港人の拝金主義ぶりに辟易していたところ、現地に住む日本人に、香港には年金制度がないことを教わった。香港人は皆老いてからの生活に困らないよう稼げるうちに稼ぐ。あるいは起業して定年後も収入があるよう人生設計をする。老後を年金で暮らすことが保証されている日本人とは、お金に対する向き合い方が最初から違うのだ。
そうは言っても香港人みんなが貯えを持てるわけではないし、起業できるわけでもない。差し当たって先ほどの初老の男などは、そんな生活に困っている代表的な人物なのかもしれない。
私はバーを後にすると、酔い覚ましに深夜の香港を歩き回った。そして歩きながら考えた。我が日本も将来年金が払えなくなるような話が囁かれている。もし本当にそうなったら…。私は自分のサラリーの低さと会社の将来性に思いを馳せていくうちに不安が広がり、このままではまずいぞと思い始めた。自分が先ほどの初老の男と同じ境遇にならないとは限らない。
そしてホテルに帰りベッドに横になるころには、私はサラリーマンを辞めることを決心していた。
あの日がなかったら、私は今もサラリーマンを続けていたかもしれない。リスクをとって挑戦する人生を歩ませてくれた街…香港。多謝。