長文です。

少し気持ちも落ち着いてきて、客観的に考えられる様になって来ました。

母と過ごした最期の時を綴りたいと思います。


12月は母の治療もありますが、私の6日間の入院と手術があり、それに向けていろいろ準備していました。
当初は近くに住んでる兄夫婦に母をお願いしようと思っていました。
しかし、母の病気は思ってた以上に進行しているし、私も母を家に一人残すのは心配でした。
本人も家で兄達のサポートがあるとはいえ不安の様でした。
そこでショートステイという場所に行こうかしら?
と母から提案されました。

しかし介護認定もしてない母は門前払い。
役所にはまず認定をと、念を押されました。
同時進行で介護認定は進めましたが手術の日は決まっているので紹介してくれないのなら自力で探すしかありません。
幸い、サリーさんの家の近くには介護付き老人ホームが多数あります。
その中のわりと近くて新しい施設でショートステイの予約が可能です。
と回答をもらいました。
と言ってもホテルの予約とは違い、診断書、書類提出、面談、内覧と手続きも大変!!
全ての手続きを終え、あとは私の入院前日に母を連れて行く手順まで辿り着きました。

やっぱりショートステイは行きたくない。
と言い出して、そこから心配していることを取り除くために話し合いをして対策を施しクリアにして無事ショートステイにこぎつけたのです。


私は入院手術を無事終えて退院翌日には母を迎えに行きました。

家より病院より食事は美味しかったこと。
スタッフはとても親切だったこと。
体操に参加したり、同年代のお友達と話したり、またスワニー(介護用のコロコロ)が他の階に入居していたお洒落なおばあさん達に評判になり、わざわざ母のところに見に来たと話してくれました。
不安でしたがショートステイで嫌な思いをしないで少し楽しめた様でサリーさんは嬉しかったし安心しました。


退院し、母も戻り、クリスマスには息子が来てくれ、その夜には夫が帰国して…。
病み上がりの私は大掃除は省略してお正月の準備も簡単に済ませて家族で新年を迎えるつもりでした。

クリスマスイブクリスマスベルは息子と私でシクラメンを買い、ケーキも用意して夜はチキンを焼いてファミリークリスマスを開催しましたクリスマスツリー
母は小さいのが良いわ。
と言いながらもショートケーキケーキ1つ、チキンも食べてくれました。
他にコーンスープやサラダも…サラダ

それが良くなかったのか…
母には重過ぎる食事だったのか…。
その夜は早めに母は休みました。
夫も10時頃家に着き、シクラメンの話しなどしながらケーキを食べて私たちも休みましたショートケーキ

朝、主人にお帰りなさい。昨夜は遅かったのね。
と話して一緒に朝食を取るようにしたのですが、昨晩のご馳走がまだお腹に残っているから食べたくないから、あなた達先に食べていて。
と言いながらリビングで横になってました。

25日は年末最後の大安で門松や輪飾りを買ったり、頼まれた振込みなどで午前は大忙しでした。
夫は夫で中国で急性難聴になり、治療はしていたものの日本の耳鼻科に行くことになってました。

昼前にwechatがきて総合病院でおそらくそのまま入院になると連絡が来てびっくりびっくり
家で夫と合流。

母にその旨告げて、私も一緒に付き添ってくると話すと、
行ってらっしゃい。と言ってくれたけど…
朝食のパンも何も手をつけていなかったのです。
その時、母の様子が辛そうだったし心配だったのですがお昼はそのまま朝食でいい?
なんて言ってしまって…。
考えたら具合が悪いのにパンなんて食べさせて本当にかわいそうだったと思います。
急いでお粥でも作って上げれば良かったと。

夫は入院して私は母のことも気になり帰宅。
朝食のパンは食べて食器も片付けてくれてましたが、リビングのソファで辛そうに横になってました。
大丈夫?と声をかけると、うん。
と返事していました。
そんなに辛いなら病院に行く?
と聞いても行かない。と
そうこうしていると夫から足りないものがあるから持ってきてほしい。と連絡があり、母にもう一度病院に行くから夕飯は少し遅くなるよ。
と伝えてタクシーに乗りました。
タクシーの中でも母の辛そうな表情が気になってましたが夫のことも心配でとにかく25日はするべきことをただただこなすような1日でした。

7時過ぎに帰宅して夕食の支度をして食べ始めたのは8時頃だと思います。
母には柔らかい野菜スープとご飯でした。
食事中も逆流性食道炎で母がもどしそうに何度もなるのでいたたまれない気持ちになって、食べれないなら無理しなくていいよ。
と話すとリンゴが食べたい。
と言うので、擦ろうか?
と聞くと何も言わないので擦っていたら…。
なんですっているの?私はそれは食べないわよ。
えっ…びっくり
結局小さめに切ったりんごを母は食べてました。
その後も辛そうで息が荒いので、病院にいこうか?
と聞くと
夜の病院は行きたくない。行くなら朝行くショボーン
と話して、居間のソファに横になってました。

何時もは9時に寝室に入るのですがその日は夕飯が遅かったので10時半までリビングで過ごしてましたが私がもう遅いから寝室で休んだらと促して部屋に入って行きました。

サリーさんも11時過ぎに自分の部屋に入っていたのですが11時半頃、母がトイレに起きた様だったので気になって母のところへ。
やはり息も荒いし辛そうなのでもう一度、病院に行ってもいいんだよ。
と言うと、

大丈夫、おやすみ。









それが最後の言葉でした。





私もはじめ寝付けなかったのですが、疲れもありそのまま寝てしまい朝を迎えましたzzz



たいてい私より先に起きて母が暖房入れたりお湯を沸かしてくれているのですが…
その日は静かでした。
私は下に降りて暖房をつけて、お湯を沸かして…
今日は寝坊したわ。といって普段なら母が起きてくるのですがまるで気配がないので?

私が寝室に起こしに行くと…。
お母さん、起きないの?
朝だよ、ねー。

応答なし





ねー。





布団をはぐと…












すでに母は冷たくなってました。






私は腰が抜けそうになり、
お母さん、お母さん…何度も呼びかけましたが
目の前が真っ暗に一度なり、今度は白くなった様な気がして息が荒くなり…
とにかくスマホを取りに行き夫に連絡して、
お母さんが冷たくなって息をしてない。としどろもどろで説明して、すぐに救急車を呼ぶように言われて、119番へ。
その時もどう何を話したのかわからないけど状況を話して…。
震えが止まらなたくて…





電話を切ってから、今度は兄夫婦に連絡して…
救急車が来る前に身支度をして。
そうこうしていると救急車と兄夫婦が来て、聞かれるままに応えて、その時も震えが止まらなくて。
そして警察がきて説明して…。
警察が来る頃には、少し落ち着いて話しもしっかり出来るようになってました。

前日までしっかり話していたし、具合は悪かったけど食事もしていたので、まさかこんな急に。

なんであの時無理しても母を病院に連れて行ってあげなかったんだろう。
どうして、昨日もっと気遣って上げれなかったんだろう。
母に我慢させてしまったのではないか?
後悔の嵐が押し寄せてきて潰れそうでした。

その後…
自宅で亡くなった場合は手続きが大変で。
警察署→病院→警察署→セレモニーホールという手順になりました。
病院では担当医が死亡診断書を書いて下さり、お会いしましたがお母様は自宅で亡くなりお幸せですよ。
病院で点滴や管がついて亡くなるより家族が暮らす自宅で安らかに逝かれて良かったですね。
と涙ながらに話して下さり心が救われました。

後にお友だちやお寺の住職の大奥様も同じように話してくれて心が軽くなりましたが、それでもその時の後悔は今まで感じたことのない気持ちでした。

出来ることはして上げられたのか、優しく接して上げられたのか…
年齢もありますが抗がん剤治療の後に耳がとても遠くなり、ついつい声を張り上げてしまい自己嫌悪になることが度々ありました。
後悔することはたくさんありますし、悲しみや寂しさは直ぐには癒えません。

しかし母は旅立ちました。
その事実は変えられないことです。


救われたことは末期がんでありながら最後の最後まで食事が出来たので、ガリガリに痩せることなくふっくらした顔で安らかに眠っている表情だったことです。


お母さん、長い闘病生活だったね。
いろいろありがとう。
お疲れ様。


母の冥福を祈ります。