中東のシャーイ(紅茶)はとっても甘い。
ティースプーンにこんもり盛った砂糖を3杯入れて飲むのが普通だ。
それと同じように「平和」という言葉もまた―。
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18日間の旅はイスラエルから始まった。
イスラエルには「エルサレム」という平和な街がある。
三大宗教の聖地だ。
この街では、アラブ人もユダヤ人もアルメニア人もエチオピア人も一緒に生活を送っている。
たくさんの人種があって、たくさんの宗教があって、たくさんの価値観がそこにはある。
しかし、そんな平和な街には、私たちと同年代の男の子と女の子が軍服を着てたたずんでいる。
イスラエルの国から徴兵をされた青年たちは、銃を抱え、平和な街を警備しているのだ。
今日も明日も、彼らは平和な街を守っている。
場所は変わりパレスチナへゆく。
パレスチナはラマッラ―という街でメディア学を専攻している大学生と出会い話をした。
ユダヤ人との共存はできるのか、平和はこの国に訪れるのかと、「平和」についての話を持ちかけた。
―「僕はイスラエル兵に突然逮捕されて7年間拘束されていたんだ。」
―「イスラエルの人々は空から降ってきたようなものじゃないか。」
―「危害を加えるのならば共存はしたくない。」
このような返答だった。
狭く追いやられたパレスチナという場所で、彼らの怒りは心の奥底に詰め込まれたままだ。
旅の最後はヨルダンだ。
国民の6割がパレスチナ難民で構成されているこの国は、ただ一つ、「資源不足」という問題を除けば国民一人ひとりが笑顔に暮らすことができる、そのような国だ。
自分の仕事を誇りに思い、友人とのおしゃべりの時間を楽しみ、家族と過ごす時間を何よりもの幸せだと首都アンマンに住む人々は語る。
そんなアンマンの人々に、「世界の平和度」について質問をして歩いた。
「世界は平和だと思うか?」という質問に、街ゆく人々は答えくれた。
「NO.」 「0%」 「ラー(いいえ)」
多くの人がネガティブだと答えた。
―「世界では争いが絶えない。」
―「毎日何かしら人が死んでいる。」
―「食べ物が足らずに過ごす人々がいる。」
毎日の生活は幸せだと語るヨルダンの人々も世界を見る目は悲しそうで、厳しかった。
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人災にて運命が定められた中東の人々から教わったことは、「平和」という言葉が何とも「甘い」言葉であるかということだ。無責任で曖昧、そのように感じた。
「平和」な世界を想う私たちは「和解」や「共生」、「武器のない社会」を口にする。
しかし、イスラエルの国に徴兵をされ「ユダヤ人」の役割を担う彼らや、「戦う」ことに苦味を感じているパレスチナ人たち、隣国の争いに悔しさを覚えるヨルダンの人々は、世界を「平和」とは見ていない。
だが、誰よりも「平和」については考えている。
「人々の間でなら和解はできると思っている」と語るユダヤ人もいれば、「侵略や一方的なことをしない限り一緒に住もうと思う」と考えるパレスチナ人もいる。「自分の大切な人のことを、争う前にまずは考えろ」と熱弁したヨルダン人もいて、彼らの「平和」には「条件」が備わっている。より具体的に「平和」への方法を示してくれているのだ。
中東の「平和」への道のりは困難だろが、人々は光へと一歩ずつ踏み出している。
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中東の紅茶はとてつもなく甘い。
「うわ。甘い。」という顔をした時に、お店のおじさんはナーナー(ミントの葉)をそっと入れてくれた。
紅茶の苦味も一瞬だが感じ、さわやかなミントの香りが口いっぱいに広がった。
シャーイ・ナーナー(ミントの紅茶)は、なんともおいしい「甘さ」だった。
日本では知らなかった中東の味を、
私はこれから一生、忘れることができないだろう。
【文責: 渉外局 2年 大木千加】
(中東スタディツアーは9月8日に帰国しました。中東スタツアのブログは以上です!ありがとうございました。)