その宿をネットで知ったのは、軽井沢で過ごした二日目の朝だった。
先にも書いた通り、本来なら静岡へと向かう予定だったオレは、体調不良が理由でルートの変更を余儀無くされていた。
最悪の場合、どこか大きい駅にバイクを置いて電車で帰阪し、完全に回復したらバイクを取りに行く。
そんな事まで考えていた。
白馬村の宿に到着したのは19時。
写真は翌朝に撮った物。
「すみません、途中で通行止めとか色々あって……遅くなりました」
到着する20分ほど前から辺りは真っ暗になっていて、街灯の少ない宿の近辺はハイビームにしても位置確認が難しかった。
加えて、土砂降りを通り越した強烈な豪雨。
『バケツをひっくり返した様な雨』というのはよく聞くが、ここで体験したのは『ダムを決壊させた様な雨』だ。走るというより、泳いでいると言った方がいい。
そんな雨のせいもあり、峠を越える406号線は危険と判断したオレは別のルートから白馬村入りしようと思ったのだが、あと少しという所で土砂崩れによる通行止めに遭った。
心が折れた瞬間だった。
座る間も無く浴槽に湯を張った。
「あ、御予約の!?あらー……どうぞそのまま入ってもらって構いませんので。大変だったでしょう?道も一本通れなくなってて……」
「はい。本当ならもっと早く着けたんですけど、結局倍近く遠回りする事になっちゃって……とりあえず合羽だけ脱ぎますんで、ちょっと待って下さい」
これで宿の対応が横柄だったら、オレはもうこの場で灯油をかぶっていただろう。それくらい疲弊していた。
「ライダールームの予約でもらってましたけど、空いてるんで3階のシングル使って下さい。お風呂も部屋に付いてますから、すぐ温まった方がいいですよ」
一瞬、宿の女将さんが何を言っているのか理解出来なかった。
確かにオレはライダールームという一泊二千円の部屋を予約したが、それがどんな部屋かも良く知らずに来たからである。
宿のホームページを見て、『まあ、これなら大丈夫だろ』くらいにしか思っていなかった。
が………
(何これ………めっちゃエエやん!)
3階へと続く絨毯敷きの階段もさる事ながら、そこに吊るされたシャンデリアや壁の絵画に思わずロッテンマイヤー化するオレ。
それは決して好みのジャンルではないが、さっきまでの地獄から解放された嬉しさも相まって、何だか知らないが一生ここで働いてやろうという気にさえなってくる。
一生が無理なら、ゼーゼマンさんが帰って来るまででも構わない。それまでクララはオレが守る………って何言ってんだ?オレ。
風呂の準備をしている間に暖房で暖まるオレ。
繰り返すが7月の話である。
(え??………これが本当に二千円?)
決して豪華という訳ではないが、オレみたいなオッサンが格安で泊まるにはあまりにも贅沢なその造りに戸惑っていた。
どう考えてもここは良い意味でオレ向きじゃない。
どっちかと言えば、食後にお茶じゃなくて紅茶。食後にミカンじゃなくてブルボン・ルマンドな洋館である。
(アメニティも全部揃ってるし、どう考えても二千円の部…………あ、そっか!それでさっき『ライダールームの予約でいただいてましたけど』って言うてたんか。普段はもっと高い部屋を使わせてくれたんや……)
やっと事情が飲み込めて来たオレだが、それより今はとにかく風呂だ。
手足の指先も雨でふやけきっている。
この靴、通気性が良すぎる分だけ雨には弱いが、すぐに乾くのは有難い。
ワークマン万歳。
「うっ………くああああ~~~っ!天国やあ~~っ!」
温泉でさえ滅多に有難がらないオレだが、この時ばかりは普通の風呂でさえパラダイスと思えた。
今なら目の前で大塚家具の親子がやり合ったって優しく歌えるだろう、河合奈保子の『けんかをやめて』を。しかも河村隆一風に。
熱々の優しさに感謝したい。
「アーアー、エヘン!アーアーアーアー」
ガッツリ温まってホッと一息な風呂上がりだが、やっぱり喉の調子は悪化している様に感じる。
そらそうなるわな、あんだけ寒い中をずぶ濡れで走れば歌手の小金沢君だって風邪引くっつーの。
(アカンな、とにかく今日は漢方飲んでさっさと寝ちゃおう)
ま、とにかく良かった。
こんな状態で、もし満床のドミトリーとかだったら居場所無かったわ、本当に。
………が、ベルばら調のキラキラ家具が目に付くと、オッサンはどうもソワソワするな。
次回はネグリジェ持参で泊まりに来よう。
寝る前の乳液も忘れずに。