そういえば、2日前はJury Fourth(現地日付)だった。

そう、アメリカの独立記念日である。


日本の建国記念日に馬鹿騒ぎする連中は皆無だが、常に世界中の何処かで戦争に関与しているアホ大国では街中の至るところで花火が打ち上げられ、お祭りムード一色となる。


オレはそんなアホ大国に過去に二度住んでいた事がある物好きなのだが、そこら辺の話はまた別の機会までとっておく事にして、今日は初めてアメリカを旅した時の話を3話くらいに分けてアップしようと思う(佐世保からの続きはその後で)。


前以て言っておくが、田舎モンのガキが初めて海外一人旅をした記録である。

若さ故の無知により、とんでもなく恥ずかしい思いをした事も包み隠さず書くが、もしこれからアメリカを一人で旅しようと思ってる若者がいたら絶対に真似しないでほしい(←そんな奴いない)。






時は1989年の夏。


オレは福岡市にある某ナイトレジャー関係の会社で働いていた。


その会社は当時、居酒屋・ナイトクラブ・ファッションヘルス・バー・焼肉店・イタリアンレストラン・カラオケパブ、そして日本一大きなディスコ(死語)など、飛ぶ鳥を落とす勢いで店舗展開を行っていた。

特にディスコ(死語)の大ブレイクにより、福岡以外の地方からJRとタイアップしたツアーが組まれる等、かなりの社会現象を引き起こしていた。





天神・親不孝通りを一躍メジャーにしたのがコレ。1日2000人近い来客があった(画像はお借りしました)。





そのうち記事にするとは思うから繊細は書かないが、オレはこの会社が経営するカラオケパブで働いていた。

当時はまだカラオケボックスというシステムが出来る直前の話で、そもそも今みたいな通信カラオケ自体が無かった時代。

カラオケを歌いたい時はメモ用紙に曲番を書き、オレ達スタッフにそれを渡してレーザーディスクの番号を打ち込むという、今から考えると原始的とも言えるシステムだった(←もっと古い8トラってヤツの頃から働いてたが)。


1989年と言えば、WINKの【淋しい熱帯魚】がヒットし、呑み屋の姉ちゃんと言えば、店が掃き溜めみたいな場末でもW浅野化していた時代だ(←分からん人ゴメン)。


大手企業に採用されればクソガキだって付け上がり、それに付随する中小企業の役員だって湯水の如く経費を使えた時代。


当時、オレが働いてた会社にあった高級クラブに勤めてた姉ちゃん達は、確かバイトでも時給8000円くらいだったと記憶している。






興味がある人はココで検索してくれ(無いとは思うが)。



で、その会社でオレが働いていたカラオケパブはショーパブとしての一面も持っていた為、勤務中は常にメイクする事を義務付けられていた(男性用化粧品のCMとかあったな。by資生堂)。


サテンの生地で出来た繋ぎっぽい衣装がユニフォームで、それにアホみたいなキンキラキンのアクセサリーを着けた当時を思い出すと死ぬほど恥ずかしいのだが、言ってみりゃそれは今のローカルアイドルの走りというか、所謂(←いわゆる、ね)若い姉ちゃん達を色恋気分で常連にするダメなホストだったと今では思う(水商売あるある)。


ステージメイクなどしたことが無いオレ達を助けてくれたのは同じグループで働いていたナイトクラブの姉ちゃん達で、夕方6時頃になると、甘~い香水の匂いを漂わせながらオレ達がスタンバってる楽屋裏へとやって来る。


当時はまだクソガキだったオレには刺激が強すぎた記憶があるが、今考えてみりゃ姉ちゃん達も20代半ばの子供だったんだよな。
仕事は金持ちのオジサン相手でも、恋愛だけは若い男にのめり込む姉ちゃん達には、オレ達も例外では無く夢中になった。





この繁栄は永遠に続くと思っていたが、ブームになれば終わりが早いのは何でも同じ。
それにしても変な時代だった。




そんな中、ちょっといい感じになりかけていた姉ちゃんの一人から、

『今度二人だけで海外旅行しちゃおっか♥️』

と耳元で囁かれたオレはすっかりその気になってしまい、貯金も無いのにあれやこれやと行き先を調べ始める毎日を送っていた。


勿論当時はネットなど無かったし、それどころか、ABロード(←知らん人ゴメン)等の格安旅行専門誌さえ刊行されてない時代。
調べると言っても、本屋で旅行本を立読みするくらいしかガキンチョには出来なかった頃である。


姉ちゃんの希望は王道のハワイ。
が、オレはその頃ビーチリゾートというものに全く興味が無く、慰安旅行で行ったプーケットでさえ同僚と二日酔いで寝てたレベル。
しかも、そんなありきたりな場所へ行くのに、まず会社側から一週間も休みを貰える訳が無い。
ここは上司を説得出来、尚且つオレが行きたい場所を選ばなければならないと考えた。



(オレが行きたい場所…オレが行きたい場所………あ!)



当時、オレが勤めていた会社のディスコは2階がエントランスになっており、1階は直営の本屋とダンキンドーナツが入っていた。

オレはそこの本屋から勝手に本を持ち出し、隣のダンキンでコーヒーを飲みながらタダ読みするのが習慣だったのだが、その時流れていたBGMを耳にした時、ずっと求めていた場所がどこであるかがハッキリした。



♪people say i'm crazy…   doing what i'm doing…



流れていた曲はジョン・レノンの『Watching The Wheels』。

実は小学校4年生の頃からビートルズファンだったオレは、その中でも特にジョンが好きでたまらなかった。

そんなジョンの作品の中でも、とりわけ特別な想いが詰まったこの曲が流れたのは単なる偶然だろうか?(←偶然です)




よし、決めた!
行き先はニューヨーク!!
というより、ダコタハウス!!
ジョン・レノンが住んでたアパート。殺害された場所でもある。


タイミングの良い事に、会社の社長以下役員4名が【研修】の名の下、その3ヶ月程前にニューヨークへと行っており、僕も世界が見てみたいですという口先だけの圧倒的演技力によって一週間の連休をGET。
こうして事はトントン拍子に進んだ様に思えたのだが、よくよく考えてみればオレには殆んど貯金が無い。
因みに旅行費は航空券とホテルを合わせて22万円。それくらいなら持ってはいたのだが、当時アメリカへ行くには30万円の預金額が証明出来る通帳のコピーが必用だったのだ(←VISA)。




いつかは必ずこの目で見ると小学生の頃から決めていたダコタハウス。エンパイアステートなんかどうでも良かった。




「ああ、おはよう○○君(←オレ)。アンタ、今度ニューヨークに行くらしいね?」

「あ、社長!おはようございます。はい、社長が会議で話されたニューヨークの話を聞いて、どうしても行ってみたくなりました!」



会社にはガラス張りになった社長室の真横にタイムカードが置いてあり、遅番出勤のオレを見付けた社長が声を掛けて来た。



「ああ、若いうちにそういう気持ちを持つ事は大事やけんね。で、どれくらい滞在するとね?」

「はい、一番安いツアーが一週間だったんで、5泊7日ので行こうと思います」

「そうね、本当なら10日くらいは滞在してほしいんやけどね。それで、予算は大丈夫なんね?」






チャンス(○_○)!!




「あ、いや……まあ、何とかなると思います」

「何とかなると思うっていうのはどういう事ね?ツアー代金が足らんとね?」

「あ、いえ、旅行費はギリギリ足りるんですけど………何か通帳に30万円以上の預金額が無いといけないらしくて」

「あー、VISAやね。それやったらどうにでもなるけんさ。店の店長にでも頼んで、もしダメやったら会社から一時金として出すけん心配せんでもよかよ」







( ̄▽ ̄)







なんというタイミングの良さ。
そして、恐るべきオレのゴマスリ能力。




こうして、オレ自身初のアメリカ行きは現実の物となるのであった。















が……