結局、アユタヤー(←アユタヤじゃないよ、アユタヤー)での滞在歴は、足掛け2年くらいにはなったと思う。

何故かと言うと、観光ビザでアメリカに入国した場合の滞在可能日数は90日。

かといって、丸々3ヶ月滞在した場合、それなりのスパンを置かないと、9.11以降の再入国は特に厳しくなっていた為、タイでの滞在時間をギリギリまでフル活用する必要があったのだ(タイの観光ビザも90日)。


そんなこんなで、アメリカの職場では良い様に騙されてきたと言ってもいいのだが、ポジティブに捉えれば、最終的にはアメリカ定住を諦めて正解だったと今は思う。


・めし不味い

・車無かったら軟禁状態(カリフォルニア)

・差別社会の存在


他にも理由は山ほどあるが、一番デカイのは『メシの不味さ』。これには本当に耐えられなかった。

勿論、慣れれば旨いものもあるのだが、日経スーパーに行って納豆とうまかっちゃんを仕入れては感激しているようじゃ人生無駄にしてるよなーと考える日々が多くなっていた。


それに比べてタイの楽な事楽な事。


・メシ旨い

・交通費激安

・差別された事無い


滞在日数が延びれば延びるほど好きになって行く東南アジア。

いつの間にか多少の会話も出来る様になり、そうなると現地の人とのコミュニケーションも格段に上がり、ぼったくられるどころか色んなシーンで値引きしてくれる様になる。



(よし、これでもうアメリカ止めた!)



元々憧れでも何でもなかったアメリカ。

オレと同じ様な人って沢山いるとは思うが、アメリカに住んでた時って、『アメリカが好き』なんじゃなくて、『アメリカに住んでる自分が好き』なだけだったんだろうな。

ホント、タイでの生活に慣れた時にそう思った。







いつの間にかというか、自然な流れでそのゲストハウスのインフォメーションとなったオレ。


当時はもう30歳を越えていて、それまでにもタイでは何度か旅をしていた。


旅の履歴は大したもんじゃないが、アメリカ・ヨーロッパ・東アジア・東南アジア・オーストラリア……ま、ハッキリ言って、その時はただの無職であり、自分が飲食業じゃなかったらフラフラしてる暇なんか無いのが一般的な社会人というものだ。

近い将来独立するという計画があり、独立するからこそ色んな店で働いてみるのが個人商売の飲食店。

自分がもし一般企業のサラリーマンだったら、そりゃフラフラと旅なんかしてないわな。

定年まで働いて、それからノンビリ世界を回っていたと思う。

今となれば、本当はそっちが理想だったんだけどね。



で、アユタヤーでの生活の中で、宿のオーナーは結構な盛況振りに色気を出したのか、食事や飲み物なんかのメニューを置いた方がいいなと言い始めた。

一応はやってみたものの、一週間もしないうちに『やっぱりやめよう』というオレの意見で中止。


何故か?


そこで佐伯のゲストハウスに繋がるのだが、小さい箱で仲良しこよしでやっていても、周りの住民からすれば、そこに住んでいるタイ人家族が妬まれるだけで、終いには旅行者である『オレ』という存在さえ鬱陶しがられて来たからである。



《あそこに最近ずっと泊まってる日本人、アレ何なの?》


《急に旅行者が来る様になって来たけど、夜中まで話し声はうるさいし》



国は変われど、田舎の世間など大差無い。

あ、これは家族に迷惑掛けるな、と思ったオレは方針を変える事にした。



【夕食はなるべく近所の激安屋台で食べてもらう様にし、そこの日本語メニューはオレが作る】


【朝食は宿の前に出る屋台のラーメン一択にし、宿の看板にメニューを加える】


【遺跡巡りをチャリで周って熱中症になるガキンチョどもに、格安でトゥクトゥクに乗れる様にする】


【タイでの贅沢は涼しさ。朝早く起きて夜は早く寝て、近所に迷惑を掛けない】


【夜間のアユタヤーは野犬が危ないから、絶対に徒歩で出歩くな】(←あ、これかな?ネットでオレに頭が上がらないってやつは)



等々、なるべく旅行者が現地の人に迷惑をかけがちなリスクを無くしつつ、近所には多少のお金が落ちる様にしてた訳だが(←その方が安いしね)、そうする事によって、急に近所の住民から話しかけられる様になってきた。

地域興しって、単純なんだけどそういう事なんだと思う。



『オレが!私が!』



じゃダメなんだな。

先に、本当の意味で地域の一員にならなきゃダメ。



『何か興そう!』



じゃなくて、



『ゆっくり溶け込もう』



が大事。

興すのはそれからの話で、興すなら地元の人を捲き込みながらノンビリと。














ま、それが一番難しい事ではあるんだけどね(笑)