我が子が不登校になった時、親としての自分を何度も振り返りました。

「親として子育てが間違っていたのではないか」「自分の物事を考える価値観がずれているのではないか」「教員として人様の子を指導する立場なのに我が子さえ指導できないなんて」「自分の性格を引き継いでしまったのか」「親として非難されるのではないか」などなど、

自責の念や自分のプライドや世間体を考えてしまう自分がいて、そのような自分にも腹が立ち、「我が子は自分が守らなければ」ということとの葛藤がとてもありました。


「学校に行けなくても大丈夫」「学校に行かない生き方もある」という言葉も、と当時の私には「慰めの言葉」にしか捉えることができず、

余計に思い通りにない苛立ちがありました。


ただ、これだけは守らないとと自分に課したのは、「我が子を責めない」ということでした。

たった一つの拠り所であり,これは誰がなんと言おうと、「私は間違っていない。それは我が子を愛しているからだ」と言い聞かせました。


「寄り添う」とか「見守る」とか当時読んだ本にも書いてありましたが、私にはしっくりきませんでした。

それほど、自分は我慢強くないとも思いました。

大なり小なりこのようなことを親御さんは考えると思います。


結果、ただ一つの拠り所であった、「我が子を責めないこと」で何が変わってどんな効果があったかは正直わかりません。

ただ、家だけは安心できる場所であってほしいし、そうありたい。と思いました。

まず、それが子どもが自ら歩み出すベース基地になると思ったからです。


告白すると、わたしは「子どもを責めてしまったこと」も何度もあります。

そうした時,何が起こったか。それは、子どもの顔が陰り,元気や食欲がなくなっただけでした。

「責めても効果はない。あっても逆効果」と気づいた時から子どもを責めずに応援することにしました。


「応援」という言葉、私はとても好きです。

応援はその人が元気になったり、頑張れたり、励ましたり、慰めたり、と「その人」の意思や気持ちに沿った関わりだからです。


部活の試合を応援にきた。という方がよく見にこられます。

「応援」とは言いながら、客席から「何を見てるんだ。よく見ろ!」とか、「気合い入れていけ!」という言葉が浴びせられます。

「檄」といえば聞こえはいいですが、その子がその檄で、「顔をあげ、闘志が湧く」とか、「気合が入る」なんてことは30年近く運動部活動の顧問をしましたが、そんな光景は中学生では一度もありません。

「顔は下がり、萎縮して緊張してしまい、ミスを連発」、それにも檄が飛ばされ負けてしまうことが何度もありました。

結果,負けたことに涙を流す子に対し、説教をする方もいました。


やはり、子を応援するになら、次の練習の時に、次の試合に時に、次の日の朝に、「よし、やるぞ。」という関わりが本当の応援だと私は思います。大人が望むように子どもが動くことが大切なのではありません。


学校に行けなくなった我が子も同じです。

大人が好ましくもう結果にするよう責めたり、檄を飛ばしたりしても、やはり、子どもの顔は上がりません。

本当の応援とは「子どもの顔が上がる、笑顔になる、元気になる」大人の関わりです。

これは、不登校に限らず、子どもへの大切な関わり方だと思います。