福岡市中央区の心療内科・精神科  「メンタルクリニック桜坂」       (福岡県内で唯一、 日曜も診療を行っている心療内科です)




■ランチの皮算用

 飯島が、声を震わせながら話すと、男は静かに、そして落ち着いた声で言葉を返してきた。
「それが、さっきおまえが言っていた、『嫁さんに、お店の経営が苦しい話ができない』っていう理由なのか?」
「はい。うちの嫁さん、当時、凄いお金持ちの婚約者と縁談が進んでいたのに、そこに私が強引に入り込んで、駆け落ちして嫁を実家から連れ出したんです。だから、最初に苦労をたくさんかけたときは、胸が締め付けられる思いでした。そういう理由があって、お金では苦労させたくないと誓ったんです。銀座にお店を出してからは、そういう経営の相談は、一切していません」
 男は目を細めながら、話を聞き続けた。そして、飯島の話が終わると、目の前で腰を下ろして「ふーっ」と大きく息を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
「話はわかった。だがな、あんたの苦労話と売上は、残念ながら関係しないんだよ」
「なんと言われても、私はこの店を続けますよ! 実は、自分なりに対策も考えていたんです」
「対策?」
「はい。今は朝11時から夜8時までしか営業していませんが、これからは、もっとお客さんを取り込むために、営業時間を朝7時から夜11時まで、延長するつもりです」
「そんなことしたら、おまえ、体を壊すぞ」
「壊れたって、構いません! 嫁さんに苦労をかけるよりは、マシです!」
 飯島は、目に涙をためながら男に食ってかかった。しかし、男は眉ひとつ動かさず、無表情な顔で、静かに話し始めた。
「その意気込みだけは、買ってやるよ。だが残念ながら、その営業時間延長の作戦は、高い確率で失敗する」
「でも、営業時間を延ばせば、それだけ売上だって……」

「営業時間を延ばして、その時間帯の貢献利益がプラスになれば、確かにいいよ。でもな、何が変動費なのか、もう一度、よく考えてみろよ。固定費だって思っていたものが、変動費ってこともあるんだ」
「うちのお店で、材料費以外で、変動費なんて、あるんですか?」
「周りの居酒屋って、みんながランチをやっているわけじゃないだろ? 材料費以外が、すべて固定費ならば、それを回収するために、ランチはやるべきだって思わないか?」
「それは、純粋に店長のやる気の問題ですよ。居酒屋ならば、ランチで余った材料を夜に使い回せるから……ランチをやれば、お店の貢献利益を大きくできるはずです」
「もっと、よく考えてみろ。水道光熱費や店長以外のアルバイトの給料は、ランチをやらなければかからないから、変動費になるだろ」
「……言われてみたら、そうですね」
「『ランチの売上-ランチの材料費-水道光熱費-アルバイトの給料=ランチの貢献利益』がマイナスだから、その居酒屋は、ランチをやっていないんだ。そこで、売上を伸ばして、賃料や最初の設備投資のお金を回収したいと焦ってしまう経営者は、貢献利益が赤字であることを無視して、ランチをやり続けてしまうんだ」
「つまり……貢献利益を計算できていない私の場合、営業時間を延ばしても、それで、どれだけ儲かるのか、わからないってことなんですね」
 飯島は、蚊の鳴くような小さな声で言った。
「早朝と深夜の営業の場合、アルバイトの人数が少ないとしても、昼間よりも時給は高くなる。それに、夜はすべての電気をつけておくから、水道光熱費も高くなるだろ。もともと、銀座のサラリーマンが、出勤前に食べるとは思えないし、夜中に年齢層が高い顧客が、胃がもたれるのに、そんなに菓子を買わないだろう。貢献利益がマイナスになる確率は高いと考えるのが、自然だよ」
 男はそう言うと、飯島を縛っていた手と足のロープを、ナイフで切り始めた。


■お店は撤退すべきか

「これで、俺の講義は終わりだ。あとの判断は、経営者であるおまえに任せる」
「……ありがとうございました」
「おいおい、強盗に『ありがとう』はないだろ」
 男は、初めて飯島に優しそうな笑顔を見せた。
「いえ、おかげで会計の重要性がよくわかりました。この銀座のお店は、今月末で撤退して、また地方の小さなお店から出直そうと思います」
「嫁さんには、なんて言うんだ?」
 男が心配そうに話しかけると、飯島は、縛られていた手首と足首を撫でながら、ゆっくりと答えた。
「嫁さんには……今日、家に帰ってから、面と向かってじっくり話してみます。考えてみたら、ここまで苦労はたくさんかけてきたんで、今さら、こんな相談をしても、夫婦の今までの人生の評価が、変わるわけないですよ」
「信頼しているんだな」
「どうのこうの言いながら、連れ添って長いんです。それに、今回、また田舎に逆戻りですけど、今度は会計をしっかり勉強してから、この銀座に戻ってきます。そのくらいの根性でやらないと、男としてカッコ悪いですからね」
「ふん、また見栄っ張りなことを言ってるな」
 男が投げやりな口調でそう言うと、飯島は、少し顔を赤らめながら答えた。
「たぶん、見栄っ張りなところは治らないと思います。嫁さんに……俺と駆け落ちしたことだけは、後悔してほしくないですからね。死ぬ前に『この男と結婚してよかった』って、一度は思ってもらわないと気が済みませんよ」
「まぁ、そういう意気込みがあるんだったら、閉店のあとは、裏口の施錠をちゃんと確認してから作業に入ることだな。お店が儲かる前に、強盗に殺されちまうぞ」
 男はそう言うと、裏口の扉に向かって、ゆっくりと歩き出した。飯島が頭を下げて、もう一度「ありがとうございました」と大きな声で叫ぶと、男は「会計を教えてやったんだから、警察には通報するなよ」と言って、後ろを振り向かず、片手を左右に大きく振って、裏口から出て行った。

 男が店の外に出ると、東の空が、薄ら明るくなっていた。そのとき、ポケットの携帯電話が鳴った。
「ああ、今、終わったよ。旦那には、会計をじっくり教えてやったよ。あんたの依頼どおり、銀座のお店は撤退して、いちから出直すってさ。それにしても、頑固な旦那だったな。説得するのも、ひと苦労だったよ。強盗の格好でもしながら乗り込まなければ、たぶん、話すら聞かなかっただろうな。まぁ、俺があんたの『大金持ちの元婚約者』だって知ったら、なおさら話は聞かないだろうけどね。あっ、お礼はいらないぞ。元婚約者として、どんな奴と駆け落ちしたのか、一度は見てみたかっただけだからさ。悔しいけど、あんた、たぶんあの男と駆け落ちして正解だよ。えっ、なんでだって? そりゃあ、今日、帰ってきた旦那と話をすれば、わかるはずだよ」
 男はそう言うと、携帯電話を片手に、もう一度、タバコの煙を大きく吸い込んで、空に向かって煙を吹き出した。


(完)


○財務会計と管理会計
 財務会計とは、決算書を中心とする会計情報を、会社外部の利害関係者(債権者、株主、税務署など)に提出することを目的とする会計のこと。一方、管理会計とは、会社内部の管理者(取締役、部長、工場長など)に提出することで、経営の意思決定や業績の評価に役立てることを目的とする会計のこと。経費を変動費と固定費に分けて、貢献利益を計算し、それによって経営を分析することは、管理会計でよく行われる手法である。