人は信頼に値しない。
そうメッセージを残したのは、二年前に亡くなった父だった。
「人が人を信じなくてどうする」
昔から熱いと言われる私は、そんな言葉を呟きながら執筆中の作品を睨む。
何年も前から温めていた作品だ。応募したら佳作にくらいはなるんじゃないかと勝手に思っている。
(なんといったって、沢木くんが応援してくれてるんだから)
私には大学時代から付き合っている彼氏がいて、作品についてはよく相談に乗ってもらっていた。お互い就職して27歳になる今、いよいよこの先の人生を真剣に考えるようになっていた。
(そろそろデビューしたいなあ)
今の温めている作品も彼の助言で随分いい感じに仕上がってきていると思う。もしデビューできるとしたら、この作品でしたい。
悩めるのはどの企画に応募するかだ。
作風に合っていないものは当然読む前に弾かれるだろうし、タイトルや出だしの掴みはとても大切だ。
「よし、これに出してみよう」
決めたのは、無謀とも思える大きな小説大賞だった。
せっかく長くかけて書いてきたものなのだから、応募するのも思い切って大きなものにしてもいいだろう。
小心者な私は小説を書くということで、自分の心を発信する手段を得た。SNSなどで自分の言葉を発言するのは正直怖い。反論されたり、否定されたりするダメージに耐える自信がないのだ。
こんな私に沢木くんはいつも喝を入れる。
「自分と違う意見の人もいるでしょうよ。人を信頼しすぎなんじゃない?」
(やっぱり私は甘いんだろうか)
疑ったり嫌いになるのはエネルギーが必要だ。そういう部分に力を注ぐのはあまり好きじゃない。お人好しとか、いいかっこしいと言われることもあるが、それが私の素の姿なのだ。
「へえ、これ応募することにしたんだ」
「うん。どう思う?」
ついに完成した小説を見せると、沢木くんはうんと頷きながらも、応募はもう少し待ったほうがいいかもなあと言った。
「どうして」
「この作風は前回の大賞に似てるし、連続で似たような作品は選ばない気がするんだよね」
「……なるほど」
私はそういう戦略を練るのも不得意で、逐一彼氏に相談しているのだ。
沢木くんは自分でも小説を書いていて、今までにいくつか小さな賞も取っているが、作家として活動するにはまだ知名度がない。
そういう状態が続いて、彼は最近自分の作品作りにはあまり積極的じゃない。
(沢木くんには大きく当てて欲しいんだけどな。そうしたら、また一緒に書いていこうって意欲が湧くのに)
沢木くんは私に原稿を返すと、不思議そうな表情で私を見た。
「何?」
「いや、美雨って作家に向いてないような気がするよ」
「……どうして?」
「なんとなく。本屋に行って、売れてる作家の本を嬉しそうに読むだろ。あの感覚、俺にはわからない」
私には沢木くんの気持ちの方がわからなかった。
売れている人と自分は別の思考だ。だからこそ面白いし、参考になる。でも、彼は自分を差し置いて売れている人がにくくなるみたいだ。それに焦りもあるという。だから彼と一緒に本屋に行くことは滅多にない。
「まあ、私はちょっと変わってるのかもね」
原稿をしまいながら、私はそう言って喧嘩にならないよう話題を収束させる。
うっかり私が反論しようものなら、きっと彼はムキになって持論が通るまで私を説得しようとするだろう。
頼りになる彼ではあるが、そういう自我の強さは時々困るなあと思う。
しばらくして季節が二つほど移り変わった頃、私は公募雑誌で信じられないものを見た。沢木くんが使っているペンネームが大賞をとった人の名前として出ていたのだ。かなり大きな賞だから世間の注目も浴びているようで、インタビューにも答えている。
(え、こんなのいつ書いたの?全然聞いてないよ)
胸騒ぎがしながら掲載されている作品を見ると、私が彼に応募を待つように言われた話とそっくりのあらすじだった。
(嘘……)
驚きと絶望。
彼は私のアイディアを盗み、自分なりにアレンジして作品に仕上げていたのだ。これからあの作品を私が出しても、彼を真似したのだろうと言われるのがオチだ。
「どういうこと?」
それ以外言う言葉も見当たらず、私は沢木くんに雑誌を広げてみせる。
すると彼はそれを無表情に見下ろし、そのまま真っ直ぐ私を見た。
「俺がどれだけ作家になりたいか知ってるなら、自分の自信ある作品を見せたりするなんて自殺行為だってなんで気づかないの。今回のは美雨にとっていい勉強になったでしょ。才能はあるんだし、次の作品頑張れば?」
「ひ、酷くない?私は沢木くんを信頼して……だって、彼氏でしょう?」
「俺にとっては美雨と付き合うことより、作家として大成することの方が大事なんだ。この賞を一つ取れば、次からのステップが踏みやすくなる。無名の作家より受賞歴のある作家の方が出版社も信頼するしね」
「……」
もう彼に何も言う気持ちになれず、私はただ別れの言葉だけを告げてその場を去った。
私が作家に向いてないと言ったのは、プロになりたいという野心や警戒心が足りないということだったのだろう。そしてまた思い出したのだ、父が言っていた“人は信頼に値しない”という言葉を。
それはその通りだった。
ただ、父は次の言葉も添えて残していた。
「だから見る目を養わなきゃ駄目だ。温室の中で綺麗に咲く花のままでは、強い生命力には繋がらない」
この二番目の言葉の意味を、私はようやく理解した。
人の中には親切な仮面を被って、容易く信じる愚かな人間を騙す者が一定数いる。そういう人間と、そうでない人間を見極める目。それを私は持っていなかった。
沢木くんもそのことを伝えようと、いくつかシグナルをくれていたように思う。それを考えると彼が私を利用しようと思っていたとは思えない。
彼も温めていたアイディアと、私の作品が重なった部分もあったのかもしれないし……。
私を好きだと言ってくれた彼は嘘じゃなかったと思いたいのが正直な気持ちだ。
「なんて……まだ分かってないって言われるかな」
苦笑しながら、私は夕日が沈む景色を見ながら河原を歩く。
遠くに聞こえる野球少年たちの掛け声が、小鳥のさえずりのように心地いい。
人を疑って生きるくらいなら、次の作品を自力で書き上げる方が早い。
やはり私はそういう人間みたいだ。
傷は無数につくかもしれないが、その傷がいずれ大きな経験値となって私を支えるだろう。
END