結局は優越感を抱かないと生きていけないのだ。他者を小馬鹿にし、自分のほうが優れていると思わなければ満足できないのだ。




そしてそれが、嫉妬につながり憎しみになり嫌悪となる。


六畳間が色とりどりのクリスタルで埋め尽くされているのを想像した。部屋の左右の棚には大小の結晶、窓の桟には小さくて可愛らしい結晶を隙間なく並べる。昼間は明るい太陽の光がクリスタルの中や外に反射して、きらきらと眩しい。夜は窓から差し込む月の光が青や紫に反射する。月のでない夜はすこし寂しい。朝、陽の光を受けて輝くなかで目を覚ます。きっと毎日が輝くだろう。

だが、綺麗なものは飽きる。きらきらと輝く光が鬱陶しくなるだろう。心がくすんでいるとき、わたしは数々の結晶を床に投げつけ飛び散る欠片を見て、言い知れない暗い喜びで唇を歪めるだろう。










自分の家でクリスタルが栽培できるらしい。綺麗なもので部屋を埋め尽くせたらどんなにいいか、と思った。クリスタルに囲まれた自分を思い浮かべてすぐ、それに飽きる自分が想像できて、自分の人間としての感性の貧しさに失望した。
自分が物に執着しないのは性質だと思って付き合ってきたが、たまにそんな自分がひどく空虚にみえる。人から貰ったものも、使えるうちは使うが壊れて飽きたらなんの躊躇もなく捨てるだろう。たぶんわたしの持っているもので、捨てられないものはない。それが物でも人でも、きっとわたしは情もなく捨てる瞬間が来るのだろう。そうしてわたしは中身のない人間にしかなれないのだ。そう思うと絶望(というのは少々言い過ぎだが)して、 身投げしたくなる。どうしてわたしはこんな人間になってしまったのだろう、20を目前にして、そんな自分の未来にはきっとなにもないのだろうと虚無感に襲われたりするのだ。


一説には、人間の性格は20歳をもって一時完成される。その一時完成期の手前をとぼとぼと歩いているわけだが、20歳で完成されるというのはあくまでも一説でしかない。人の人生は約80年、わたしはそのたった4分の1に立っているのである。残りの4分の3でわたしは大きく変わる機会に巡り会うかもしれない。
そう思っても、いまのわたしの内情が大きく変わる出来事など、起きるのだろうか。わたしはこのまま生を終えるのかもしれない。
所詮わたしは齢20であり、今の自分も未来の自分も20歳の目線でしか見ることができないのだ。


山手線内まで来ると、家に着いている自分が自然と想像される。想像した家の様子を思って、わたしは喉の奥が詰まるような息苦しさを感じる。正確には、わたしの家と共に連動して思い起こされる、隣人を含めた人間関係に息のしにくさを感じる。


わたしの家は学生ばかりが住む小さな二階建てのアパートで、わたしはその二階に住んでいる。アパートの一階にはひとつ上の男の先輩が住んでいて、その人の家は同学年と友人や後輩の女の子たちの溜まり場になっている。同じアパートに住んでいるわたしも、集まる面子に加わることが多かった。そこで構成された人間関係は昼間人間関係にも密接に関係していた。集まることになんの苦も感じていなかった頃はよかった。なんの思惑もなく暇潰しのために毎日集まってただ話してお酒を飲んで寝ることがなんだかんだ楽しかった。周りが歳上ばかりだったのも、自分が選ばれてその場にいるようで気分がよかった(たまたま同じアパートだっただけだとしても)。だがそこは同年代の男女の集まりだ。たとえただ雑魚寝しているだけでも、何事も起きないはずがなかった。

かくいうわたしもその当事者となったわけで。

男と女がいて、なんの思惑も生まれないはずがなかった。男女の思惑が交錯するなか、初めはわりと分け隔てなく呼び集めてられていた面子に、提案者とその友人による選択が加わるようになった。選択される理由に同じアパートという項目はなかった。わたしも場を荒らしたことから、強く出なくなった。
しかし、変わらず同じアパートが会場となっていて、帰り際のわたしが気が付かないわけがない(わたしのアパートは玄関も広くなく、2、3人が集まると玄関の外に靴が並べられる)。誘われない寂しさと不満を積むうちに、わたしは今の状況をおもしろくないと思うようになった。それが家のことを思うと息苦しくなる要因である。




よってわたしは嫌気が差すほど僻みな人間となっているのだった。そんな些末なことに惑わされている自分がいちばん嫌なんだけどね。