エピローグ「風のあとで」
霧峯家を離れたのは、満月の翌朝だった。
バス停までの道を、キッドはひとりで歩いた。
スマートフォンの電波は途中から戻ってきていたが、何も調べる気にはなれなかった。
後部座席に揺られながら、彼は封筒の中から一枚の写真を取り出した。
祖母・澄江が笑っている、古い白黒写真。その隣には、白無垢姿の女性が並んでいる。
あれが「誰」だったのか、いまはもう確かめようがない。でも、その視線の温度だけは、はっきりと覚えている。
——花嫁は、“継がれていた”。
名前も、顔も、誰かの手で塗り替えられ、“役”に組み込まれていく。
その繰り返しの中で、幾度か、誰かが“拒んだ”。
昭和二十三年、花嫁が姿を消したあの日。
白無垢の袖だけが残されたこと。
その刺繍が“桜”だった理由。
──「衣装も、顔も、花嫁として次に渡されるものだった」
そして、継がれていく名前。“澄香”という名前さえ、役割の一部だったのだ。
仏間で見た家紋のズレ。
他の家紋とは違う意匠。それは、最初の“拒絶者”を葬った部屋のしるしだった。
婚礼写真に何度も現れた同じ顔。
それらをまとめて記録した「水無月婚礼記録」。
澄香が差し出したあの日記帳には、こうも記されていた。
> 令和元年 芦原ノ末裔ヨリ招状承認。継再。 > 役ノ終焉近シ。
つまり—— 「キッドの帰郷」自体が、物語の円環を閉じるために用意された最後の儀式だった。
東京に戻ったあと、キッドはもう一度だけ、祖母の遺品箱を開いた。
そこで見つけたのは、一通の手紙だった。
> 「あの家のことは、あなたには伝えないつもりでした。 けれど、やはりいつか、記憶は回帰します。 どうか、“終わらせる”人になってください」
手紙の差出人の欄には、こうあった。
「霧峯 澄香」
その名前が“誰のもの”だったのか、いまはもうどうでもよかった。
霧峯家というひとつの舞台は幕を下ろし、そこにいた“花嫁たち”は、ようやく月の下で本当の顔を取り戻せたのだ。
キッドは、手紙の文を見つめた。墨で丁寧に記されたその文字列の中に、見慣れた形があった。
「……“澄”の、この角度……」
祖母がよく書いていた、“澄”の字の右上がり。まるで水面に浮かぶ波紋のように、わずかに反り返っている。
それは、学校のノートに記された祖母の手紙にも、仏壇に添えられた短歌の一首にも、いつも同じように現れていた癖だ。
さらに、“香”の字の最後の払い。ほとんど平仮名にしか見えない、独特な流し方。
それを見た瞬間、キッドの背中に冷たいものが走った。
完璧に一致している。
筆跡は、癖を隠せない。それは、記憶よりも正直で、言葉よりも強い証拠だ。
これは、祖母が書いたものだ。澄香の手で記されたそれは、祖母の“息づかい”そのものだった。
キッドは震える指で紙をそっと伏せた。真実が、目の前に残されていた。
そしてその筆跡が、祖母が遺した最後の記録と完全に重なった瞬間、キッドは静かにすべてを悟った。
もう、疑う余地はなかった ―澄香は“あの人”だった。
──ある探偵の日記より──完。
それが現実だったのか、幻だったのか──その境界は、語られた記憶の奥で静かに滲んでいた。