今日一日、無理に意識して『普通の一日』を過ごそうとしてきたような気がします。
ですが、やはり一区切りとして『私のあの日のこと』を書き留めておこうと思います。
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1月17日。
大震災から、もう十年以上が経った事を、各報道が伝えていた。
もう、そんなになるのか…と、ぼんやりと思った。
私にとっては、まだ鮮明な記憶なのに。
当時の私は広島の、まだ実家にいた。
早朝…
ドン
もの凄い大きく、変な鈍い音とともに、ありえない方向の揺れを感じて、文字通り飛び起きた。
寝起きが超絶に悪い私が、ありえないほどの勢いだった。
その後も、高波の中の船のように嫌な揺れを感じつつ、手探りでダイニングへ行き、テレビをつけた。
この酷い揺れだと、絶対にうちの近所が震源だろうと思ったので。(後に、3強くらいだったと知る)
だが、まだ直後であったためか、まだ調査中…と伝えていた。
不安の中で待っていると、どうやら関西付近が震源らしい、と徐々に状況が明らかになっていく。
え?!
広島で、こんな酷い揺れなのに、震源は関西って… じゃあ、震源付近の状況は?!
関西には、親戚や知人が大勢いる。
イライラと情報を待っていると、画面が信じられない映像を映し出した。
…神戸? これが??
うそでしょう?
呆然とした。
あまりにショックな事に直面すると、思考が停止する…ということを、初めて経験した。
テレビの声が、私の意識の外を、上滑りしながら流れていく。
そうやって、どのくらい時間が過ぎたのだろうか。
そうだ、ニケ。
オカメインコは、大変臆病で繊細な神経をしている。
ささいな事でも驚いてパニックになり、飛び回って大怪我をしたりする。
これをオカメ飼いの間では、『オカメパニック』などと呼ぶ。
こんなに時間が経つまで、気づかないなんて…私が相当動揺している証拠だ。
だけど、それだけではなく、いつもなら怖い事があれば、「キャーッ! ピャーッ!!」と大騒ぎして鳴いて暴れるのに、全く声がしないのだ。
嫌な胸騒ぎがした。
「…ニケちゃん?」
ニケの部屋の電気をつけて、そうっと、声をかける。
…
返事がない。
おそるおそる、ケージにかけていた布カバーをめくると、一面に無数の羽と羽毛が飛び散っており、防寒用に張ってあったビニールカバーに、ベットリと赤褐色の血が一面についていた。
ニケは?!
定位置の止まり木に、いない。
動揺で泳ぐ視線を、無理やり凝らして探す。
いた。
床に置いた、ティッシュケースで作った小さな休憩用の皿巣の中に、目を固く閉じ、小さく小さくちぢこまっていた。
「ニケちゃん?」
もう一度、そっと声をかけると、おそるおそる…という感じで目をあけた。
よかった。 意識はある。
そっと手を差し入れると、すがるように乗ってきた。
外へ出して、外傷の元を探す。
足は、力は弱弱しいが、しっかりしている。
頭も顔も、背中も尾羽も大丈夫。
残るは、翼…
私から避けるようにしていた片側の風切羽が、全て折れ抜けて、半身が血だらけになっていた。
(風切羽とは、翼を広げた時、一番外側になる羽)
私の体中から、血の気がひいた。
気絶しそうになったけれど、ニケに動揺を悟られてはならない。
「もう大丈夫よ、えらかったね」
と声をかけながら、他の外傷がないかを急いで点検する。
どうやら翼だけらしい。 血も止まっている。
そっと両手で包み込んでやると、いつもなら嫌がって怒るのに、身をすりよせてくる。
よほど不安なのだろう…かわいそうに。
しばらくそっと撫でてやっていると、小さな小さな声で、
「ニケちゃん」 と喋った。
少し、落ちついてきたようだ。
また余震でパニックになって部屋中を飛んだら危険だと判断し、ケージに戻す。
夜があけるまでは、傍にいよう。
部屋の明かりをつけたまま、部屋のヒーターの温度を上げる。
鳥が怪我や病気をしたり、弱っている時は、とにかくまずは暖める事が基本だから。
時折話しかけながら、目はダイニングのテレビを時々見ていた。
1時間くらい過ぎた頃だろうか。
家の電話が鳴った。
職場からの呼び出し? …いや、今の配属先では、まず私には来ないはず。
出てみると、同じ市内に住む叔父からだった。
今までにない、嫌な胸騒ぎがした。
叔父の娘、私の従妹が、神戸の大学へ行っているのだ。
「向こう(神戸)と全く連絡する手段がない、あんた(私)の職場のネットワークで何とかならんか?」
私の職場は、そういう非常時に活動する所なので、非常ラインがあるかも…という思いからだろう。
個人のことをいちいち取り上げるのは不可能だ、と理性がささやく。
「…わかりませんけれど、聞いてみます」
とても叔父には即答できず、一旦電話を切った。
深呼吸して、職場へ電話する。
まずは、職場状況と、私の出勤は必要がないことを確認した後、事情を説明し、「…でも、無理ですよね?」と一応問う。
「気持ちは分かるけど、無理じゃねぇ…」
流石に気の毒そうな答え。 それはそうだろう。仕方がない。
叔父に電話をし、役に立てない事を詫びた。
いつの間にか、両親も起きてきて、テレビを見ていた。
今まで把握できた経緯を話す。
叔父や、他に兵庫にいる親戚の殆どは、母方の親戚が多い。
その、他の親戚と連絡を取ろうとしても、当然通じない。
母は、広島県内や他府県に住む親族と、慌しく電話をはじめた。
夜が明けるにしたがって、どんどん悲惨な状況が明らかになっていく。
本来は、朝一番で出勤するところを、私は午前休みをとって、ニケを獣医さんへ連れて行った。
血も止まっており、ショックが和らげば大丈夫そうだ、ということを確認して、出勤する。
こちらの地方は、大きな被害はなさそうだったため、そのまま通常勤務。
事情を話し、定時にあがらせてもらった。
父母とも、関西在住の他の親戚の無事は確認できたが、従妹の消息だけ、相変わらず不明。
叔父は、自分の車で神戸に行く事を決めた。
当時、うちにはもう一匹、拾ったハムスターがペットとしていたのだけれど、そのハムスターの顔が翌日から突然大きく腫れはじめた。
弟が慌てて獣医に連れて行ったが、大した処方箋はできないようだった。
そうして、翌日だったか…(以下、ショックで記憶があいまいです)
叔父から、従妹を倒壊した下宿先で、発見した…と連絡が入った。
うそでしょう?
と、思った。
覚悟はしていたはずなのに。
あんなに、元気だったのに。 なんで。
2日後だったか…神戸の市役所で、なんとか埋葬許可をとってから、叔父と従妹が帰ってきた。
葬儀では、あまりの事に、みんな呆然として、疲れきっていた。
叔父の家は、うちと違い裕福で、下宿もマンションも与えてやれたのに、若い頃に贅沢をせず苦労をして人生勉強もすべきだ…という方針で、ごく普通のアパートを与えていたのがアダになった…と、何度も何度も悔やんでいた。
それは、結果論でしかないのだけれど。
いくらそれを言ってあげても、頭で理解していても、感情は納得しないだろう。
私も、明るくて可愛らしかった従妹との想い出をいくつも思い返し、涙がとまらなかった。
ハムスターは、家族が交代で投薬や流動食を与えて看護していたけれど、従妹の葬儀の日、彼女が寂しがらないようにとでもいう感じで、そっと虹の橋の向こうへ旅立っていった。
また、涙が流れた。
うちの外の、雛菊のそばに、お気に入りの紙箱の家に、好きだったオヤツと一緒に埋葬した。
あれから10年が過ぎたらしい…
でも、失った人たちへの思い、当時のショックや虚無感は、まだ、人々の胸には昨日の現実として残っている。
きっと、これからも、神戸を、1月17日を思うたび、その痛みは、当時の鮮明さを失わないまま、胸を締め付けるのだろう…
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