「ラッシー、オニオンブレッドは?」
「それ昨日も一昨日も食べたじゃないですか…というか、犬扱いやめてください!」
俺は彼女が好きだ。
曲がったことが嫌いなところも、身分にとらわれることなく臆せずものを言うところも、さり気ない気配りができるところも、拗ねたように怒ったところも、笑った顔も。
フィリップ国という大きな国の王子として、次期国王として、一身に期待を背負ってきた自分は昔から比較的なんでもそつなくこなしてしまう性格だった。
だから人から褒められるなんて、できてしまうことが当たり前な自分にはそうしてくれる人なんていなかった。
返ってくるのは、期待に、要望に応えられなかった時だけの非難や罵倒。
「ああごめんね。ぴんと張った耳やら尻尾が見えたから、つい」
「そんなものありませんから…!」
いつでも祖父と比較されきた自分は王子という立場にほとほと嫌気がさしていた。
けれど、彼女だけは、フィリップ王国の次期国王ヘンリー・A・スペンサーとしてではなく、ひとりの人間としてのヘンリー・A・スペンサーを見てくれる人だから。
「ねえラッシー、明日はオニオンブレッドね」
「…また食べるんですか」
よく飽きませんね…と呆れたようにこぼしながらも少しだけ嬉しそうに口角を上げる彼女に、俺の眉尻もふっと下がる。
「キミが焼いたもの限定、だからね」
「ふふ…はいはいわかりました。責任持って焼かせていただきます!」
最後には満面の笑みを浮かべる彼女は、まぶしいぐらいに輝いていて。
ああ、俺はやっぱり、彼女が好きだ。
「ねえラッシー、このベジパンはなに?」
「それはトマトとバジルです。こっちはブラックペッパーとじゃがいもと…」
わたしは彼が好きだ。
なんでも知ってる博識なところも、天邪鬼なところも、笑った顔が少しだけ幼いところも、触れる指先の冷たさに反してその手つきがとても優しいところも。
「人参は入ってないよね」
「さあ…どうでしょう」
「……ラッシー?」
瞳を細めてわたしをジトッと見つめるその視線に肩をすくめながらもなんだかおかしくなってきてしまって。
クスクスとゆっくり笑うと、彼もつられたようにクツクツと笑いだす。
「大丈夫です。今日は入ってませんよ」
「今日は、ね」
少しだけ納得いかない顔をしながらもパンを口に運んで、そうしてそのあとにみせるほんの少しの笑みが、今のわたしへの密かなご褒美になっている。
冷たい印象を持たれがちだけれど、誰よりも陽だまりのように優しい人だから。
だから、そんな彼が、わたしは好きだ。
「そういえば、もうすぐで新作がでるんです」
「へえ~それは食べに行かなきゃだね!」
「ふふ、はい!ぜひ」
けど、この想いは伝えられない。
だってこの気持ちは、彼女を困らせるだけだから。
心地いいまでのこの距離感を壊す勇気が、俺にはない。
情けないほどに、臆病者だ。
「ねえリュオも食べに行こうよ~」
「んな暇ねーよ。ここに配達してもらえばいいだろ」
「わかってないな~パン屋で食べるからいいんじゃん」
この想いは伝えない。
だってたぶん、きっと、彼を好きなのはわたしだけだから。
吸い込まれそうなほど綺麗な瞳に魅せられたのも、挑発的に弧を描く唇に触れたくなるのも。
全部、ぜんぶ、わたしだけだから。
「あ、やばいコーヒーこぼした!」
「なにやってんだよ、シオン」
「ちょ、誰かタオルとって~」
彼女と初めて会った日のことは、あまりよく覚えていない。
けれど、その瞳に宿す意志の強さと、屈託ない笑顔だけはずっと、ずっと、忘れられない。
「イヴァン、フォカッチャならまだあるぞ」
「ああ、貰おう」
彼と初めて会った日のことは、正直言うとよく覚えていない。
けれど物事を静観する透き通るような横顔と、去り際に残した小さな微笑だけは、ずっと、ずっと、忘れられない。
「じゃあ、そろそろお店に戻りますね」
いっそ言えたら、どんなに楽だっただろうか。
キミの腕を引いて、抱きしめて、閉じ込めてしまえたら。
どんなに、よかったかな。
「気をつけてね、ラッシー」
いっそ言えたら、どんなに楽だったか。
あなたと笑いあって、手を握って、その震えるほど繊細な背中を抱き締められたら。
どんなに、よかったかな。
好きだよーー
ーー好きです
言えない世界は、少しだけ霞みがかっていた。
背中合わせの恋
(キミに、あなたに、片想い)
16.4.23