――篠崎界が家に辿り着いたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。

 酷い疲労感を伴い、電気も点けずに自室のベッドの上に倒れ込む。

 刑事――七瀬、といったか。彼と言葉を交わした後、朱乃とは結局二、三言の言葉を交わしただけで、一体何があったのかを聴く事もままならなかった。同時、境花もいつの間にかその姿を消しており、界は何が何だかも分らず、帰途に着く事になった。

 帰途といっても、朱乃を迎えに来た彼女の両親の好意で家の前まで乗せて貰った為、実質の自前での移動距離はマンションの四階分の階段のみだったのだが、界は酷い疲労感を覚えていた。

 カーテンも閉め切ったまま、一切の光の入り込まない自室で、界はベッドにうつ伏せで寝転んだまま、酷く動きの鈍い頭で思考する。

 ――エンジェル・ブラッド。

 否、《Angel blood》か、と思う。

 刑事に向かって男の叫んでいたこの言葉を告げた時の、その二人の意外そうな顔を思い出す。

 明らかにその言葉について知っている顔だったと思う。だが結局、それが何だかは教えて貰えなかった。

 そしてその言葉に思う物がもう一つ。

 ――天使に気を付けなさい………。もし、天使に思い当たる様な物や者にであったら、全力で逃げる事………良い?

 《宵の黒猫》の店主、蒼井夜名の言っていた言葉。

 彼女の言葉は言っていたのは、この事だったのだろうか。思考するが、界に夜名の思考を理解する事が出来る筈もない。

 彼女の思考はいつでもそうだ。常人には計り知れない何かをもって、まるで未来でも見る事ができるのか、と思ってしまう様な、そんな人である。そんな思考をどう理解すれば良いのか、界には知る由もなかった。

 それでも思考を繰り返すが、疲労感とそれに釣られる様に湧き上がる眠気が、その思考を空回りさせる。

 そんな眠気を打ち消そうとするかの様に寝返りをうち、仰向けで天井を見詰める。

 その際に肩に力が入ったのか、鈍くも鋭い痛みに思わず顔を顰めた。

 一瞬の痛みだが、不便だと思いつつ、今度は自分を襲った男の事を思い出す。

「………っ」

 脳裏に浮かんだイメージに思わず、舌打ちを零す。

 男に対して浮かんだイメージ。それは、赤、だった。

 まるで流れ出た直後の、瑞々しくも凄烈で凄惨な血を思わせる、赤、の偶像。

 自らの思ったイメージの持つ印象に、気分が悪くなってくる。

 虫酸の走る感覚――。

 思わず身体を横に倒し、口元に手を沿え、涌き上がりそうになる熱い物を押さえ込む。

 咽頭の焼ける痛覚。食道の爛れる感覚――。

 気分がこれ以上悪く前に、その、赤、のイメージを消し去ろうとするが、凄烈に思い出されたそれが簡単に消える筈もなく、まるで血染みの様にこびり付いて離れない。

 そして徐々に脳裏に残っていた男の影がその形を変えて行く――。

 それが何なのか。知覚する事は叶わない。ただ界は酷く明確に、その事を覚えていた。

 ――俺はあの時………その手を、執ったんだ。

 男から変質して現われた、正体も覚えていない誰か――否、何かが伸ばした掌。

 覚えている。自分はその手を確かに――握り返したんだと。

 そこまでを思い出して、また、いつもと同じ様に、頭が僅かに痛んだ。まるで頭の中にある何かが身じろぎしている様な、そんな小さな痛みだ。

「………なぁ、俺は………一体何を忘れているんだ………」

 その問いが言葉になったかは分らない。自身でももしかしたら無意識の内に浮かんだ、問い掛けだったのかも知れない。

 酷く懐かしい掌の姿を思い描きながら、界はいつの間にか眠りへと落ちていた。