「………うん。私も界くんも大丈夫だよ。だから心配しないで………うん。それじゃあ、また後でね………お母さん」

 鳥居朱乃は電話口から聞こえる母の声にそう返し、久しく持ち慣れない公衆電話の受話器を置いた。

 がちゃん、と独特の音を手応えを得ながら、返却口から期せずに戻ってきた十円玉を拾いつつ、朱乃は思う。

 ――また私は、欺瞞を重ねている………。

 また鎌首を擡げるように、罪悪を咎める自戒の意識がその姿を現す。

 自ら解決のできないその罪悪を責め立てる自戒。それは後ろめたさとなって茨を纏った蔓の如く朱乃の良心を苛んでいた。

「………っ」

 それと同時に、疼く物を得た。

 胸の奥、心臓の芯、それよりも深い位置にある小さな、灯火の疼き。

 思わず胸元に伸ばした手でうずく場所に近い所を握り締めた。それと同時に湧き上がってくる自己嫌悪。何より肥大化しようとするその疼きに耐える様に、奥歯を噛む。

 ――私は………最低の人間だ………。

 かつて自身の犯し、侵した過ちを思う。

 そして今日、界を襲った男の事を思う。

 結局同じなのだと、痛感する。

 かつての自分は――所詮、あの男と同じ存在であったのだろう。と。

 あの男が何者であるかは分らない。何故、ああなったのか等は知るよしもない。

 だが同じなのだと、分った。

 そして彼が同類である事をわかっていながら、あの場で何もできなかった自分自身が――何よりも酷くおぞましかった。

 その罪悪に呼応する様に、更なる疼きが朱乃の中で芽吹いた。

「………駄目。お願い………もう、止めて………!」

 囁く様な絶叫。いつの間にかピンク色の公衆電話に寄り掛る様に、朱乃は身を屈めていた。

 疼きが消えるまで続く責め苦。

 その疼きの根源を知っているからこそ、その疼きは消える事はなく、朱乃を苛み続ける。

 それからどれ程そうしていただろう。疼きを感じられなくなる頃、朱乃はゆっくりと身を起こし、胸元を掴んだまま細く小さい深呼吸を繰り返す。

 そう。自分はこの疼きに負けてはいけない。

 ――私は………嘘を吐き通すと、決めたのだから。

 自身の心中を見抜かれない様に平静を取り繕う。演じる事も隠す事も慣れている。それをやり直せば良い。

 少なくとも彼の――界の前だけでも、自分の真相を隠し抜こうと思うから。

 思わず苦笑する。

 傍にいたい人の傍にいる為に、自分の全てを隠す。そんな自分自身が朱乃には酷く――滑稽に映った。

 一つ大きく息を吐く。

 いつもの自分を取り繕った。嘘を吐く事が得意となっている自身が少しだけ疎ましい。だがそれで良い。

 朱乃はゆっくりと元来た道を引き返す。

 入院していた経緯や、今も心療内科に通っている都合もあり、院内は歩きなれている。多少の薄暗さは特に問題にもならない。

 待合室に着く。

 界の姿を探し、目線を巡らせ――思わず息を詰めた。

 ――どうして………っ。

 病院の奥から待合室に入る位置で思わず立ち竦んだ。 

「そうか………他に、何か気付いた事はねえか? 何かを言っていた、とか」

「………そういえば」

 待合室のベンチ。見慣れた界の後ろ姿と、いつの間にやって来たのかそれに寄り添う境花の姿。その二人に相対しているのは、しきりに界の言葉をメモしている青年の姿と――忘れもしない、壮年の男性の姿。

 ――七瀬、康一郎。

 どうして、何故、と形を変えて同じ自問を繰り返す。

 何故、ここにいるのか、と。

 その同様の所為だろうか。仕舞わずに手に持ち続けていた財布が、手元から零れ落ちた。




「?」

 その場にいる人間が、硬貨の飛び散る音を聴いたのは当然、同時だった。

 康一郎も思わずそちらに視線をやり、その場で立ち竦んでいる少女の姿を認め、思わず絶句する。

「朱乃」

 それと同時に、目の前にいる被害者の少年――篠崎界がその少女の名前を呼び、彼女の元へ移動した事に露骨に眉根を顰めた。

「………知り合いか?」

 それと同時に康一郎は界の双子の姉と名乗った少女――篠崎境花へと問い掛けつつ視線を向け、思わず息を飲んだ。

 篠崎境花の酷く暗いその無貌に――。

「そうだよ………。多分、私にとっては………親友だと思える唯一の相手」

「………そうか」

 感情や抑揚に乏しい――そんな表現が酷く陳腐に思える様な、何も宿らない口調。だからその彼女の言葉の真意こそ分らない。だから康一郎は空寒い物を覚えつつ、そう返し、小銭を拾い集める二人の下へと歩み寄った。

 さり気無く足元に転がっている十円玉の一枚を拾い上げる。

「ほらよ」

「あ、ありがとう………ござい、ます」

 明らかに動揺しきった彼女の反応。そんな彼女と界の傍に自身も屈み、拾った褐色の硬貨を彼女の元へと差し出した。

「初めまして………。天津崎署の、七瀬だ」

 そして目線を伏せようとする彼女にそう言った。

 はっ、と弾かれた様に朱乃は顔を上げる。その彼女に向かって七瀬は言葉を続ける。

「君は、確か界くんと一緒に居たんだよな? なら何か気付いた事はなかったか?」

「あ、あぁ、えと………いえ、特に、は………」

「………そうか」

 七瀬はそうとだけ言って、ゆっくりと立ち上がった。

「おぉい、笹木! 署に戻るぞ!」

「………な、ちょ、ちょっと、七瀬さん!」

 そう言って七瀬は相棒の言葉を物ともせず、病院の表へと出た。

 しとしと、と音を立てて小雨が降り続いている。来た直後くらいには一時的に止んでいた様に見えたが、それでも直に見るまで降っているかは分らない。

 そんな空を見詰めながら、康一郎は煙草を口に咥え火を灯した。肺一杯に紫煙を吸い込み、吐き出す。

「………全く、妙な事になって来やがった」

 直に追い付いた相方の文句など聞く耳も持たず、康一郎は酷く感慨深くそんな呟きを零していた。