赤い薔薇、赤い椿、赤い梅、赤い百合、赤い桜、赤い秋桜、そして、赤い彼岸花。
視界一面に、赤い花が咲き乱れている。
本来、赤い花を咲かせる事のない筈の花さえも、その場に狂い咲く全ての花が血を思わせる様な真紅の花を咲かせていた。
その中に、ただ一人立つ。
またか、とも思う。同時に、ここは何処だろう、とも思う。
いつも訪れている場所の様な、見馴れた景色。だが同時に、全く訪れた事のない異質な光景。
咽返りそうな甘い花の香りが鼻先を撫でる。何処か嗅いだ事のある臭いだと思うが、何処で嗅いだ香りかは思い出せない。
――………。
ふと、誰かに呼ばれた様な気がした。後ろを振り返る。
そこに居たのは――天使の彫像。
その背に血染めの様な赤黒い鳥の翼を携え、石膏を思わせる青白い体躯を白い襤褸で覆った、女性の様に華奢でだが同時に男性の様な雄雄しさを宿した、天使の彫像だ。
何故こんな所に天使が、と思った。
だが直後。頬に、伸ばされた、天使の冷たい掌の感触がその思考を奪う。
優しく天使が頬を撫でる。何処か母親の手を思わせる様な優しい手付き。温もりの無い、だが酷く温かな感触。
――何故、天使がそうしたのかは分らない。
ただ、その時の天使の顔は――酷く、酷く、悲しげだった。
――何故、そんなに悲しそうなの?
問う。だが天使はただ悲しげに、そして愛しむ様に、頬を撫でる。
だがそれにもやがて終わりは訪れる。
天使の手はゆっくりと頬から離れていった。
――待って。
声を上げた。だが天使はやはり悲しげなまま此方を見下ろし、その背の翼をはためかせて少しずつ離れてゆく。
――もうすぐ………。
――え?
天使が口を開いた。いや正確に言えばその口は動いてはいない。だが響いた声が、天使の物である事は何故か明確に理解できた。
――もうすぐ、アナタの半分が来る。………だから帰りなさい。
――私の………半分?
「………! ………!」
天使の言葉響いた直後、声が聞こえた。また後ろを振り返る。
そこはいつの間にか玄い水面となっていた。赤い花々の咲き誇る湖畔の様な光景。その水面もまた空の色に等しく、深淵を思わせる様な艶やかな色を称えていた。
声が聞こえるのはその奥。黒い湖の真ん中にある、まるで水鏡の満月の様な小さな同時に凄烈な光。
――そこがアナタの居場所………。だから帰りなさい。ここに来ては駄目。
天使が言う。もう一度、その姿を見上げると、いつの間にかその姿は酷く高い所にあった。
――どうして、ここに居ちゃいけないの?
問う。
――私が………私ではないから。
――………え?
――アナタがアナタだけでないのと同じ。私は私ではない。だから………アナタはここに居ちゃ駄目。
――意味、分らない………。
――それならば、やはりここに居ては駄目。
――………じゃあ、どうすればここに居ていいの?
いつの間にか、随分と遠くに離れてしまった天使の姿。それでも声が届くなら、と思い声を上げる。
暫くの沈黙。
――私を見つけて。
――………どういう事?
――本当の、私を………見つけて。そうすれば、アナタは此処に居られる。
――………分った。約束する。私は、必ず、本当のアナタを見付ける。だから………待っててね。
そう言った瞬間。背中の方から光が広がった。
きっと迎えが来たんだろうという確証。その光に呑まれれば、自分が元の場所に戻る事は想像に難くなかった。
だから声を上げた。天使に届くように。
そして見た様な気がした。
天使の無貌が微笑むのを――。