――にー。
「ん?」
不意に聞こえた鳴き声に、一人の警官が振り返った。
「おい、どうした?」
「あ、いや………何でもない」
同僚の声。それに答え、その警官は再び視線を元の場所へと戻した。
そこにあるのは――男の遺体。
胸元の肉が大きく抉る様に削がれ、血塗れになった男――ほんの数十分前に駅前で少年を襲い、噛み、殺そうとした男の死体だった。
場所は以前にも男の不審死体が発見されたビルある、オフィス街の路地裏。何を思って男がこんな所に逃げ込んだかは定かではないが、ともかく男はそこで自身の胸を掻き毟りながら、死んでいた。
「おい………。これってやっぱり………」
「あぁ、多分………十一人目だ………」
男を追ってここまで来た二人の制服警官は、その遺体を見下ろしながらそんな言葉を交わし、現状を荒らさない様にそっと遺体へと近寄った。
――にー。
と、また鳴き声が聞こえた。それと同時に、二人の警官はビルの谷間が生み出す闇の中から現れた姿を認める。
「………猫?」
――にー。
警官が呟くと、それに応える様にその猫は男の遺体を挟んで向こう側から一鳴きした。
艶やかな黒い毛並みの美しい、深い青色の双眸が酷く印象的な猫だ。首には白に銀色のメダルの様な物の付いた首輪を付けている事から飼い猫と分る。
「あ、ちょ」
と、その猫は遺体へと近寄り、その腹の上に飛び乗った。そのまま胸元の大きな傷痕へと近寄ると、そこを嗅ぎ始める。
「ちょ、駄目だって。ほら、しっ!」
警官の一人がそう言って近付き、猫にそこを退けと手振りで示す。その手が煩わしかったのか、猫は直にその場から飛び退くと、ふーっ、と短く威嚇し、再び闇の中へと駆け去った。
「何だったんだ? あの猫?」
「わかんねぇよ。それより本部に連絡しなきゃだろう」
警官二人はそんな遣り取りをし、肩に着いた無線に手を掛け、状況の連絡を始めた。
そんな様を――今し方消えたばかりの黒猫が頭上から見下ろしている事にも気付かずに。
――深夜の待合室は想いの外、静かだ。
篠崎界はそんな事を考えながら、何処か呆然とその光景を眺めていた。
肩の傷は存外浅かった。着ていたコートが幸いし、それが邪魔をした為に肩に食い込んだ歯は特に鋭い数本だけ。だがそれでも人の歯でコートの生地を貫き、服ごと肩口を食い千切ろうとした力は人のそれとは思えない怪力で、肩の筋肉が剥離しかけ、僅かに傷口を縫う怪我を界の肩に残している。
現在は肩に負担をかけない様、医療用の三角巾で骨が折れた時の様に腕を固定している。
救急外来で処置を受け終え、既に一時間程。界は連絡を受け、自分を迎えにこちらへと向かっている母を待っていた。
ここまで界に付き添い同行した朱乃は、今、両親に連絡を取る為に席を外している。この病院は待合室でも携帯の電波が届かない為、二階の談話室に設置されている公衆電話を利用しに行っているのだ。
「っ………」
何気ない身じろぎの度に肩に痛苦が走り、界は思わず顔を顰めた。肩を動かせないというのは予想以上に動きが制限され、どうにも動き難い。
思わず天井を仰ぎ、大きく溜息を零した。
――どうして、俺が襲われたんだ………?
思考してみるが、思い当たる節はない。そもそもあの時の男の様子は尋常ではなかった。そして、それ以上に気になる事は――。
「エンジェル、ブラッド………だったか?」
男の叫んでいた言葉。エンジェルブラッド――『Angel blood』。 ――天使の血。
それは何なのだろう。思考するが、答えなど出る筈もない。だが知っていそうな人物の目星だけはつく。その人物なら、或いは――。
「さーかーいーきゅーんっ!」
「っ!!」
思考は唐突に聞こえた声と肩口に走った激痛に掻き消された。首元に回されたほっそりとした腕の感覚と何処か懐かしく思える様な淡く甘い香り。だがそれを明確に感じる余裕もなく、界は立ち上がり後ろを振り返る。
「境花!」
「こんばんわー、界。災難だったねー」
そう言って、約半日振りに再会した双子の姉は、酷く上機嫌そうに微笑んでいた。
「お前………もう病室の方は消灯だろ? どうして此処に?」
「愛の力」
「答えになってない」
「なってるよー。私の、界に対する、愛の力が、界が院内に居る事をおせーてくれたんだおー」
「お前にそんな特殊能力があるとは驚きだよ」
「界にもあるよ。だって私達、双子だもん。双子の特殊パワー!」
「それは一卵性双生児だけの能力だと俺は思っていた。………で、何で此処にいる?」
「………ジュース買いに来ただけだったり」
「素直でよろしい」
界はそう言って、肩を庇いつつ再びベンチに腰を下ろした。境花も回り込み、その隣に腰を下ろす。
「………で、どうしてまだ起きている?」
「太陽が昇ってる時間にあんだけ寝てるんだもん。夜位、起きてたいよ」
「………そうか」
境花の言葉を聞き、界はそう返した。自分の姉の症状を知っていると同時、自分の身に降り掛かっていない現実の産む後ろめたさが、言葉を淡白にさせる。
「まぁ、そんな事より、災難だったねー。肩。さっきの痛かった?」
そう言って、境花は界の膝に手を突き、わざわざ界の前を跨ぐ様に身を乗り出して肩を覗き込む。
「別に………」
「痛かったんだ? ………ごめんね」
胸元から上目に見上げる境花の視線に思わず口ごもる。そっと肩口を撫でながら、境花はそう言った。界が何か言おうと考えていると、そっと境花の身体が離れる。
「ま、大した怪我じゃなくて良かったよ。うんうん。健康一番。早く直しなよー」
そう言って境花は明るく笑う。
まるで太陽の様だと界はいつも思う。朗らかで、安心できる笑みだと。それに界も、あぁ、と返して微笑を浮かべた。
――ウーン。
と、その時。暗く静かな待合室に自動ドアの駆動音が僅かに響いた。界と境花は同時にそっちを振り返ると、自動ドアの所に入って来る二人の人影を認める。
一人は草臥れたコート姿に深い皺を顔に刻んだ壮年の男性。もう一人は二十代から三十代程と思われるしっかりと折り目の付いたコート姿の若い男性の姿。
緊急外来がある事もあって、この病院の正門は警備員が常駐しつつも二十四時間動き続けている。二人とも警備員から通行を許可された正規の来客の様だ。彼等は暫く入り口付近で周囲を見回していたが、壮年の男性の方がこちらの姿を認めると、肘で隣の男性を突付きこちらへと歩み寄る。
何となく、だが嫌な予感を界は得ていた。
「こんばんわ、悪いけど、一つ聞かせて貰えるかな?」
二人の前まで来たその二人の男性の若い方が、そう声を掛けてきた。
「は? 何アンタ達? 何の用? 明確に用件がないなら速攻で消えて欲しいんだけど? それで用件は? さっさと私達個人に用がないなら奥に行って、看護士にでも声を掛ければ? 見ての通りこっちは怪我人だからお様も無い相手と話す余裕なんてないよ。理解した? 理解できた? ならさっさと目の前から消えて」
「ちょ………!」
「な………っ」
界が口を開く前に、隣の境花が口を開いた。
境花は基本的に初対面の相手には酷く攻撃的だ。今回も例に洩れず、その帰来の攻撃性を露骨に発揮し、界が静止する間もなく、男性へと食って掛かった。
その反応は予想外だったのだろう。男性は思わず絶句している。その一歩後ろでは壮年の男性が何処か面白そうに口元をゆがめていた。
「おい、ちょっと退いとけ」
壮年の男性が絶句して何を言うべきが迷っている男性を押しのけ、前に出た。
そして懐から黒い長方形の物を前に出し、それを開いてみせる。
「………刑事?」
境花が問う。それに壮年の男性は口元をゆがめる笑みを浮かべたまま、
「そう。天津崎署の七瀬ってもんだ。こっちのは笹木………。ちょっと話を聞かせて貰えないか?」
そう言って刑事、七瀬康一郎は、界と境花に向かって思考の読めない笑みを向けた。