「………ちっ、全く頭の硬い連中だ」

 七瀬康一郎はそう低いだが荒々しい声で悪態を吐いて、吸っていた煙草の吸殻を灰皿に押し付けた。

「仕方ないですよ。うちは刑事課の強行犯係で、薬………『Angel blood』は生活安全課の管轄です。確かに例の中毒死のガイシャを見付けたのは七瀬さんですけど、その程度じゃ捜査に加えて貰える筈無いですよ」

 そんな彼を嗜める声。それは雑多に紙資料が積み上げられ、どれがどれかも解からない様なデスクのがいくつも並べられた一角にある、康一郎自身の席の隣からだった。そこにいるのは彼のよれよれに草臥れたスーツとは違い、きちんと糊の効き折り目の付いたスーツ姿に、誠実そうな印象の精悍な面立ちの青年の姿。

 歳は二十歳の後半ほどだろう。彼は慣れた調子で手元の白紙にボールペンの先を走らせながら、七瀬の愚痴を聞き流している。

 彼の名前を、笹木貴彦。七瀬康一郎の同僚の一人で、隣席という事もあってか何かと彼と組む事の多い若輩の刑事だ。

「………ところで、七瀬さん。早く報告書書かないと、また課長が煩いですよ。愚痴ばっかり言ってないで手を動かして下さい」

「ちっ………。若いのに手前も頭の硬い奴だなぁ。もっと憤れよ若者」

「人には出来る事と出来ない事があります。自分は自分の出来る事をやるだけです」

「けっ………。ご立派なこって」

 七瀬はそう言うと、胸元から新しい煙草を一本取り出し火を点けた。

 肺一杯に煙を吸い込み、吐き出す。自らが吐き出した紫煙を見詰めながら、どうにも煙く場合によっては息苦しいだけなのに、どうにも止められないのだからこれも立派なドラッグなのだと思い知らされる。

 そして自身の手にある煙草の先の火を見詰める。

 思うのはただ一つ。

「………何なんだろうな、『Angel blood』ってのは」

「ただの麻薬でしょ。大方、何処かのヤクザが小遣い稼ぎに撒いてるんですよ」

「………そうだと、良いんだがな」

「………え?」

 適当に康一郎の言葉を聞き流していた貴彦だったが、唐突にトーンの変わった康一郎の方へと視線を向けた。

 康一郎は手の中で立てられた、まだ新しい煙草の火をじっと見詰めている。

「おい笹木。お前、『Angel blood』の成分調査結果………知ってるか」

「………いえ。知りません」

 貴彦は眉根を顰め、再び煙草を口に咥えた康一郎を見る。彼は天井を仰ぎ、大きく紫煙を吐き出すと、言葉を続けた。

「血液、なんだとよ。………『Angel Blood』の主成分は、九〇%以上、人の、血液と同じ成分だそうだ。違うのはただ一点。遺伝情報なんかの収まった染色体ってのだけが、存在して無い。それ以外はほぼ人の血液の成分と同じそうだ。いや、正確に言えば固形化しているから、かさぶた、と同じらしいけどな」

「え? そんなこと………」

「ありえない、か? そうだよな。本来、そんな物は麻薬になりえない………。どころか、そんな物を精製する技術そのものが、公には、存在してないんだ………。だとすれば、一体何処の誰が、そんな妖しげな物を撒いてやがる?」

「………七瀬さんは、何かあると思ってるんですか?」

「逆に言うが、こんだけ意味の解からない物証が揃って、何もないと思う方がどうかしてる。………なのに捜査は所轄署の生安に立った特別班だけで、県警はだんまり。まぁ、カルトめいた事件である事は否定しねぇが、どうにも気味の悪い物を感じずにはいられねぇんだよ」

「………でも、僕等に出来る事なんてたかが知れています」

「かもな。だがな………人が死んでるんだよ。意味のわからねぇ薬で、意味もわからねぇまま、ただ死んで行く奴がいる………。それだけで、誰かが動こうとするのには、十分すぎる理由だ」

「…………」

 そう言って康一郎は大きく紫煙を吸い込んだ。肺に満ちる不味い煙を吐き出す彼の姿を見つめ、貴彦も複雑そうに考え込む。

 と不意に、けたたましいブザーが室内に木霊した。

『緊急入電、緊急入電。芦乃宮駅前交差点にて傷害事件が発生。成人男性が少年に暴行した模様、被疑者は交番警官の拘束を振り切り逃走中。被害者は近隣の病院に搬送された模様。関係各員は直ちに現場に急行してください。繰り返します――』

 それが聞こえるや否や、康一郎達、強行犯係の面々が急に慌しく動き始める。

「と、七瀬さん。事件です、早く行きましょう」

 貴彦も立ち上がる。――が、康一郎は煙草を揉み消しながら、眉根を厳しく顰めていた。

「………解せねぇなぁ」

「何がです?」

 貴彦が問う。だが康一郎は何かを考えている様で、執拗に煙草の火を揉み消していた。

「………よし。笹木付き合え」

 他の面子が既に現場に向かった頃、康一郎はそう言って席を立った。

「付き合えって、何処に?」

「決まってるガイシャの所だよ。収容された病院調べろ」

「え、ちょ、七瀬さん! ぁあ、もう!」

 何が決まっているのか今一分らなかったが、康一郎を一人に出来ず、貴彦はそう忌々しげに零してから、さっさと駐車場の方へと移動する彼の背中を追いかけた。