――しゃり、しゃり、しゃり。
そんな何処か小気味の良い様な音が、個室の中に微かに響いている。
手狭だが人が一人生活するには十分な広さの個室だ。ただその部屋には日常では嗅ぎ慣れない消毒液の臭いが染み付いており、どこか潔癖な雰囲気のする白い壁と木目を描いたリノリウムの床が、その場所が病室である事を暗に示している。
そして今その部屋にいるのは、二人の人物だ。
一人は病室の主と思われる窓辺のベッドで眠る一人の少女。一人は見舞い客と思われるベッドの脇にある椅子に足を組んで腰を下ろした少年。
互いに同年代の――15、16歳程の少女と少年だ。眠る少女の表情は年齢よりもやや幼い印象を持ち、それに対して少年の愛想に乏しい表情は年齢よりもやや大人びて見える。
そんな性別も印象も正逆の二人だが、不思議と似た雰囲気を纏っていた。顔立ちも性差こそあれ似通っており、自ずと二人に血縁がある事を感じさせた。
――しゃり、しゃり、しゃり。
何処か心地の良い音はいまだに続いている。
その音を立てているのは、少年の手の中からであった。正確にいえば手の中にある二つの物。
左手にある果物ナイフが赤い果実を――林檎を切る音である。少年は酷く手馴れた手付きで林檎を八つ切りにし、更にその全ての皮へと刃を入れ、綺麗な形の「兎」の形へと切り出していった。
少しすると八羽の赤い耳の白兎が、ベッドの上に橋を渡す様な形のテーブルに出された皿へと置かれた。小さな皿に盛られた兎の様は、何処か仲睦まじい家族の様に映り酷く微笑ましい。
少年はその様子を何処か冷ややかに見詰めつつ、ベッドの脇に置かれている棚の上に出してあったラップを掛け、そのまま棚の上に置いた。
残った赤い皮を足元のゴミ箱へと放り込み、ナイフを鞘へと戻し棚へと仕舞う。その一連の動作を終えると、少年は人心地ついた様に細く息を零し、目の前に横たわる少女の顔へと視線を向けた。
「…………」
その表情はさっきまでと同じ愛想に欠く無表情。だが何処か穏やかな物の様にも見える人には見えるだろう。
もうそろそろ目を覚ます頃だろうか。彼はそんな事を思いつつ彼女の表情を見詰めていたが、不意に何処から異音が聞こえ、視線をその方向へと向けた。
音が下のは正面。窓だった。そこにある光景は鉄の様な重苦しい雲が浮かぶ曇天。異音の正体は、窓を打つ雨の音だった。ガラスに張り付く波紋の残滓は徐々にその数を増し、遂には窓を覆う程の数へと発展する。
「降り出したか………」
天気予報ではもっと遅い時間に降り出すと言っていたが、当てにはならない物だと思う。
ここ暫くずっとこんな天気が続いている。雨が降る日はそんなに多くはないが、陰鬱な気分になる事に違いはない。要はどちらに転んだとしても歓迎しがたい天気であるという事だ。
「………ん」
小さな呻き声が聞こえた。少年が声の方向へと視線を向けると、今まで静かに眠っていた少女がうっすらと瞼を開け虚ろな視線を漂わせていた。彼女は少しだけきょろきょろと視線を彷徨わせると、少しして少年と目線が交錯する。
その少女の何処か呆けた様な表情が妙に可笑しく、少年が初めて相好を崩す。
「おはよう、境花」
「…………」
少年が言う。少女は暫く呆けた様に少年の顔を見詰めていたが、暫くしてその焦点が交わると、何処か納得した様に小さく口を開け、直後、少しだけはにかむ様に微笑んだ。
「おはよう……… 界」
彼女はそう言うと、おもむろに身体を起こした。彼――界と呼ばれた少年はすぐにその背中に手を添え、身を起こすのを手伝う。
上半身だけを起こすと、彼女――境花と呼ばれた少女は、小さく伸びをした。
「ふぅ………。どの位寝てた?」
「3時間位だな。俺が来たのが1時間前」
「おぉ、今回は短かったねぇ………」
寝起きで間延びした口調で彼女がいうと、今度は唐突に界に向かって腕を伸ばした。掌を上に向け無遠慮に物を請う様に。
「ん」
「………なんだ」
「林檎。食べたい」
そう言った彼女のにっこりと笑う。そこには何処か猫の様な小悪魔じみた愛嬌が宿っていた。それに彼は呆れた様に苦笑し、棚の上に置かれていた皿を差し出した。
「おぉ、やっぱり準備が良いねえ。流石、私の弟」
境花はそう言って、嬉々として皿を受け取ると、界が出しっぱなしにしていたテーブルに皿を置き、ラップを剥がして、赤い兎の頭へとぱくついた。
その様から界はさり気なく目を背ける。
が、美味しそうにしゃくしゃくと兎を齧っていた境花が目ざとくそれを察知し、自分の手元にある捕食されるのを今か今かと待つ兎へと向ける。
「ねぇ……… 界」
「ん?」
「やっぱり……… 赤いのは、嫌い?」
明後日の方向を向いていた界が境花の方へと向く。彼女は手に無残にも下半身のみとなってしまった兎を持ったまま、俯いている。腰ほどまでに届く長髪の所為で界に彼女の顔をうかがう事はできなかった。
「………あぁ。嫌いだ」
だから界は少し躊躇った後、正直に言った。その事に少し胸が痛むのを感じる。
界は双子の姉――篠崎境花が赤い色を好む事を知っている。そして彼女が『赤』に対して並々ならぬ感慨を抱いているのもだ。だから姉が自分が赤を拒絶する事で多かれ少なかれ傷つく事も承知していた。
だが、それでも界は『赤』を拒絶する。
彼――篠崎界は赤が嫌いである。何時、何処で、何故、そんな感慨を抱く様になったかは、当人も覚えてない。ただ気が付いた時には既に、『赤』に対して言い様の知れない嫌悪感を抱く様になっていた。今更、それを繕う事も正す事もできない。
さっき目を背けたのも、無意識の内に皿にある林檎の「赤」を拒絶する為だった。
だから、界は『赤』を拒絶する。きっとこれからも。
「………そっか」
境花はそう言うと口に残りの破片だけを放り込み、くしゃくしゃになっていたラップを掛け直した。まだ五羽の兎の残った皿はそのままテーブルの端、界からなるべく遠ざけようという配慮だろうか、窓側へと追いやられた。
「………良いのか?」
「うん。良いの、良いの。せっかく界が来てるのに、界が不快になったらもったいないもんね」
「そう言ってくれるのは嬉しいが……… 実はもうそろそろ時間なんだ」
「え、うっそ! まだ来て一時間なんでしょう!」
そう言って境花は時計へと視線を向ける。
時刻は午後2時を少し過ぎた頃。普通ならまだ病室に留まってもいい時間だが――。
「今日はバイトだよ。折角の冬休みは稼ぎ時なんだ。仕事前に寝顔だけでも見ておこうと思って寄ったんだ」
「ぶぅ……… じゃあ、良いよ。さっさと行っちゃえ」
境花はそう言うと、子供の様に頬を膨らませ、そっぽを向いた。
「また、明日来るよ」
それに界は思わず苦笑を零し、おもむろに椅子から立ち上がり、足元に置いてあった鞄とコートを手に取った。
「………界」
「ん?」
横開きの扉の取っ手に手を掛けた時、声が届いて境が振り返る。
「傘、差して行ってね。子供の頃から界は、雨に打たれるとすぐに風邪ひちゃうんだから」
「あぁ、解ってるよ。………ありがとう、姉さん」
「うん、行ってらっしゃい」
その言葉を酷く心地よく思いながら、界はゆっくりと扉を開き、病室から立ち去った。