池田信夫 blog : 平等主義の遺伝子 - ライブドアブログ


平等主義が適用されるのか、戦うことが適用されるのかはどういう基準できまるのか。それは集団が維持できるのか、ということかもしれない。集団が維持できるとき、すなわち、十分な食料があり、人数もいる場合は”戦う”ことが優先される。

逆に集団がある一定規模維持できなくなるとき、すなわち食料がたらなくなる、集団の母数が減る時には平等主義が優先される。そう考えると、その集団が維持できなくなるという変化が、平等主義か戦いかの潮目になる。

そう考えると、”戦い”が起こっているのは集団を基準に考えれば、比較的集団がいい状態ともいえそう。集団がなくなる不安がない状態でなければ戦いは起こらない。逆に、本当にキツい状況では人はお互いに協力する。

戦いのない平和な状態というのは、集団が維持できる最低限の資源が確保されている状態。その意味では”足るを知る”という言葉は重い。集団にとっての余剰は戦いを生む。戦いが始まれば勝者が生まれ、勝者に余剰が生まれる。そして、その余剰が戦いを生む。

勝者の集団は余剰がある限り、戦いが生まれ、それが続く。逆に敗者には余剰がなくなり、戦いもなくなる。そう考えると、もし戦いたくないのであれば、自分に余剰をなくせばいいのかもしれない。足るを知るとはそういうことなのかもしれない。

ややこしいのは、人によって”余剰”がちがうということ。いろいろな事が必要と思っている人が「もう余剰はない」と思って、平等主義に変えたくても、そんなに必要がないと思っている人にとっては、余剰がある状態なので、戦いは止まらない。少ない資源を巡って戦いは続く。

勝者の中にはその余剰により内部対立が生まれる。内部対立を回避するためには、外に関心を向け闘争を外部で起こすか、集団内の余剰をなくし、平等主義を導入するしかない。面白いのは外部に勝つということが特に重要ではないということ。つまり負けても集団は維持される。

そう考えると集団内で一定の地位を持っている人が”共通の敵”を作るという選択をするのがよくわかる。外部との戦いは勝っても負けても余剰がなくならなければ関係ない。逆に内部の戦いに勝たなくてはいけない。そのため、内部対立をさける事ができ、比較的容易な外部との戦いを選ぶ。

平等主義と闘争の関係でバザールと伽藍の関係を説明すると、伽藍は崩れるまで内部闘争をすることになり、バザールは誰かに余剰が生まれるまでは協力路線で、生まれた余剰が伽藍をつくると言えそう。足るを超えると伽藍ができ闘争がはじまる。

伽藍にとって余剰は組織を維持するための要であり、内部闘争の源泉でもある。足りなくなったら外に取りにいかなくてはならないが、その時には内部の結束が必要で、結束を得るためには平等主義をとる必要がある。内部では闘争、外部に対しては協調、組織内に二つの基準が生まれる。

そう考えると外向けの仕事の方が楽しいと思う人の気持ちがわかる。組織内部にいる間は闘争しかない。外部にでることではじめて協調が生まれる。

外部に出る人組織が支援する時には条件がつく。それは得られた成果を組織のルールで配分するということ。その意味では外部でいくら結果を出しても、内部闘争の勝者でなければその成果にありつけない。

通常は組織の支援はえられないが、組織が維持できる余剰がない時は違う。組織が平等主義モードに変わり外にのぞむ。しかし、その時は組織は事実上崩壊しているので、あまり支援は得られない。そう考えると外に向かう時は、どんな時も組織の支援は得られない。

そう考えると伽藍にいる限りは内部闘争に集中し、もし嫌ならひとりでバザールを目指すのが一番良い振る舞いなのかも。バザールは平等主義なので、余剰が生まれるまでは優しい。

企業がオープンイノベーション的に連携するというのは非常に難しいのではないかと思う。オープンイノベーションが成り立つのは”個人”が連携する場合たけかもしれない。オープンイノベーションでは既存組織を動かせない。

オープンイノベーションに組織が協力しているケースは、組織に属しているある個人が組織の支援を”個人的に”とりつけているケースなのかもしれない。このケースは組織から見ればグレーゾーン。組織にダブルスタンダードを生み出すきっかけになる。そのことは組織の遠心力になる。

戦いモードから平等主義にいかにしてモードを切り替えるのか、また平等主義のモードをどうやって維持し続けるのか、本当に平等主義を維持し続けることが可能なのか、いろいろと考えさせられる記事だった。

twitter 2012/4/2