あらためて、いろいろと考えさせられた記事がこの記事です。

宮台真司氏の小沢一郎氏に関するアゴーン?(菅直人首相マル激出演後)

この記事は宮台真司氏が菅直人首相が出演したビデオニュースドットコムの「マル激トークオンデマンド」終了2日後にTwitterでTweetされた内容のまとめです。その内容はいろいろな人の意見に対して返答する形でtweetされています。


この一連のtweetの中で自分として興味深かったのは以下のtweetです。

小沢問題のアレかコレか的な頭の悪い空騒ぎの背後に、政治思想史ならびに政策史の知識不足がある。小沢氏の罪は対米追従という抽象問題ではない。牛肉オレンジ協議→大店法緩和&430兆円公共事業(への米企業参入)という具体だ。中間集団の、市場依存と国家依存の両方を加速させる大選択だった。

同時期先進国は(1)スローフード運動(ブラ@北イタリア発)(2)メディアリテラシ運動(オンタリオ@カナダ発)(3)アンチ巨大マーケット運動(各地@米国)に代表される如く、「市場か国家か」という70年代的図式を超克、市場や国家が傾いても中間集団が個人を支えることを大目標とする方向。

これを欧州で「補完性の原則」、米国で「共和政の原則」と言う。中間集団の市場依存と国家依存に警鐘を鳴らす点、機能的等価。だが前者は共同体を、後者は宗教的アソシエーションを軸と見做す点が違う。この機能的等価性を前提に、中間集団主義の自覚的復興を企図するのがコミュニタリアンである。

つまり家族でも国家でもない「我々」への「コミットメント」を推奨(日本の難点)。そうした「我々」のための「命の投げ出し」を推奨する思考。背負いかつ帰還できる中間集団を持たない者を信じない思考。そのために命をかけられるホームベースを持たぬ者が国家を持ち出しても一切信じない思考。


今の日本の大きな課題はこの「中間集団主義の自覚的復興」だと思います。
宮台氏も指摘するように、「中間集団の紐帯がここまで弛緩した国はない」。その回復、もしくは再構築の動きが今一番求められているわけで、その動きの一環として、今私が注目している、「対話」、「場」、「ソーシャル・イノベーション」、「新しい公共」が位置づけられると思います。

そして、この記事をみて思い出したのが自分で書いたこの記事です。
【読書記録】 ネット社会の未来像 (神保・宮台激トーク・オン・デマンド (3))
(ブログの日付をみてびっくり、3年以上も前!)

3年前から何が自分で何をしてきたのか振り返ってみると、記事にも書いた通り、まず仕事の時間をできるだけ減らし、その分家族の時間にあてるようにする、自分の家族/親戚との関係性を良くする(具体的には、年賀状を書く、実家に帰る機会を増やす、弟夫妻とご飯をご飯を食べるなど)ことをしてきました。最近は自宅に友達を呼んで(または友達の家にいったり)、家族での付き合いを増やすことにもチャレンジしています。振り返ると自分は、「血縁主義的紐帯」を中心に自分の紐帯を再構成してきたのだなと思いました。

今後を考えるときに、「中間集団の紐帯」を個人レベルでどのように考え、再構築するのかが大きな課題なんだと今回の記事を読んで改めて思いました。

自分も含めて、なかなかこの中間集団の紐帯を自分で戦略的に構築することは難しい。本音をいえば自分の属する共同体/社会に自然と組み込んでほしいというのが「潜在的な」本音なのかもしれない。そして、その時に、「誰か」にその構築を期待することが起こってしまう。そしてそのことは結構危険な要素を含んでいる。なぜなら、その構築に国家が全面的に関与しても、市場に委ねても結果は悲惨なことになりそうだから。

かといって、全部自分でというのもしんどいし、非常に大変。じゃあどうすればいいのか?と考えた時に、やはり上手くバランスをとりながら自分で主体的に行動することが大切なのかなと思います。そして、同時にできればそのような行動がとりやすい環境を国が整えてくれると助かるなということもあるなと(感覚的ではありますが、個人レベルでも上手くバランスをとれば上手くいきそうな感じはしています。イメージ的にはこの記事に近いです。【Chikirinの日記:人生の意義を支える、ふたつの構造】)。

そして、そのバランスをふまえ日本の「ポストモダン」の構築に向けて一歩踏み出したのが前回の総選挙での民主党だったのではなかったのでしょうか。いまから考えると自分はそんな認識であり期待(当時は明確ではなかったですが)を持っていたように思います。だから、今の現状には非常に不満であり、かつ危機感、というより恐怖、があります(このあたりについては、今後の動きを注意深く見ていく必要があると思います)。

あと、この記事を読んで思ったのは、今自分が注目している「対話」についても2つの意味があるのかなということです。ひとつは「共同体の構築」、もうひとつは「共同体単体ではできないより大きな課題の解決」です。

今回の記事を読んで、今「対話」が日本で注目されている理由の一つに、この「中間集団主義の自覚的復興」があることを改めて思いました。また、対話により「共同体の構築」をしたいのか、またはその共同体がある中でのより大きな課題の解決したいのか、またはその両方なのかを明確にしていなかったとも思いました。

海外では日本より共同体が維持できているのであれば、その焦点は後者(より大きな課題の解決)にあたっている可能性がある一方で、日本では「共同体の構築」の方が大きな課題になっている。そのことを考えると、より「日本型の対話」(その手法、適用シーン)を考える必要があるのではないかと思いました(これは今後の課題)。今後この「場の目的」を意識して取り組みを進めていきたいと考えています。

今回のこの一連のtweetは現在感じているいろいろなことがつながるきっかけになり、ある意味ではスッキリとした部分もあった、私にとっては大変意味のあるtweetでした。

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