私には入院中、弟みたいな存在がいた。
そして母さん、と呼んでいた女性がいて、パパと呼んでいた車椅子の男性もいた。
側から見たら「ナンチャッテ家族」。
実際看護師の間でも「即席家族」だとか「キズの舐め合いをしてる4人組」とも言われていたのを私は知っている。
だけど私たち4人はそんなの気にしないで、ほぼ毎日楽しい時間を過ごしていた。
だけど現実世界というのは残酷で。
あんなに仲良くしていた「家族」は、皆それぞれ違う方向へと進んでいくことになる。
退院1番手は私だった。
私は松戸の本宅に帰り、ダンナの支えのもと、少しずつ外の世界へと戻っていった。
余った入院保険を使って医療事務の資格を取って、今の医療機関で3月から働いている。
医療事務の資格を取りたいという人はどうも多いらしい。
実際私も「いいね!」と周囲から言われていた。
でも、私にはどうしても譲れない部分があった。
それは、昔のカースト制の如くそびえ立つピラミッド型の職務格差。
頂点にドクターがいて、その下にナース、さらに下にメディカルクラーク(医療事務)、底辺が清掃員。
私は自分なりに頑張って社会復帰したつもりだ。だけどこんな身分制度を痛感する度に、国立医系を目指していた頃のプライドが頭を擡げる。
(チクショー!私だって獣医目指してたのに!)
そしてそう思うと、私は意識して今の家族の顔を無理やりにでも思い出すようにしている。
…私があの頃違う選択をしていれば、今の家族はなかったから。
カムイはもちろんのこと、ダンナとも別れを選んでいたと思う。
だから、私は(これで良かったんだ)と自分に言い聞かせている現状だ。
私が退院した翌日には弟が退院した。
彼は作業所で働くために、まずはデイケアに通うことが決まった。
でも私から見ての彼は、統失を13歳という若さで発症している為か、他の人より繊細で、傷つきやすい。
それ故、生き方は不器用そのものだった。
生まれついてのお節介な私は、たかだか2.3年早く生まれただけで、弟に対しかなり横柄な態度をとることもあった。
ケンカになったことも当然ながらある。
それでも彼は社会復帰を目指して頑張っていた。
毎週火曜日はオフの日と決めて、ちょくちょく我が家へ遊びに来た。
その時の会話の流れで、私たちはダイエットをするぞ!と決意し、互いに創意工夫して体型改造化計画を遂行。
しかし、そのプレッシャーからか、それとも我が家へ来るまでの「外の世界」の喧騒に飲み込まれたか、幻聴と被害関係妄想の症状が悪化し、3ヶ月後再入院してしまった。
母さんとパパに関しては実はよくわからない。
ただ、母さんの退院日がわかったので、顔を出す為だけに病院のロビーで待っていた。
仲の良い若い看護師と看護助手に付き添われ、母さんは現れた。
母さんと2人きりになって、
「なんかもう、会えないような気がして」と私が言うと、母さんは「そう?私はそんなことないと思うけど」とだけ言って、迎えの車の中へと乗り込み、去って行った。
母さんらしいな、と思いながら、私は1人帰路についた。
パパは、年越し後も病棟で過ごしたらしい。
うちら3人が去って、パパはどんな気持ちだったのだろう。
私は、パパに実父の影を重ねていた。
博識で、穏やかで、ちょっとぬけているとこ。
昔昔の父親像が自然と重なっていた。
「ねえ、パパ。これってどういう意味?」
ニュース等で難解なワードを見聞きすると、私は決まってパパに聞いた。
「んー?ああ、それはねぇ…」
私の父親も、小さい頃『ナンデナンデ星人』だった私に対し、答えられないことはなかった。
そんなところがとてもリンクしていた。
だから、また4人で「外の世界」に戻っても、また会いたい、会って笑いあいたい、切にそう思っていた。
きっかけは私が「どんなに頑張ってもお山の大将にしかなれないなら、実力勝負の世界で生きぬいてやる!」と決意した頃からだ。
先述した通り、医療業界には身分格差がある。
かといって今から獣医を目指す?
いや、それはあまりにも現実離れし過ぎてる。
だったら、保護施設や愛護団体で獣医の次に優遇されるトリマーを目指そう!
その決意が仇になることも知らず、私はあくせくと情報収集をした。
だが…問題が一つある。
これ↓
彫り物を体に入れている人間には、この国では社会権はないようなもんだ。
当然、半袖の制服の大手サロンでは雇ってはもらえない。
だから私はあらゆる手をつけても、最初から「独立開業」の道を選んだ。
ある日母さんと話をしていた時、こう切り出された。
「Angelaちゃん、あのね、『あれもやりたい、これもやりたい!』てのは何も身にならないのよ。それにあなた、医療事務してるじゃない?ご主人は何て言ってるの?」
はい?!て、鳩が豆鉄砲を食ったような顔を私はその時していたと思う。
実際ダンナには、使っていない駐車スペースと、客間を使って自宅で開業する許可を得ていた。
だから正直、母さんの言葉は心外だった。
私は躁転してると勘違いされていた。
でも私のフラットというのは、一般的な人の軽躁状態なので、そこが理解してもらえなかった。
私の頭には弟の顔がすぐ浮かんだ。
「ああ、そういう事ね」
弟が母さんに、私に対しての不平不満を話していたんだな。直感的にすぐわかった。
私はその頃、眠剤が強く、午前中の記憶が飛んでいた。その様な状態の時にかかってきてた弟からの電話。
私は働かない頭で、何を話したのか覚えていない。だが、かなり失礼なことを言ってたみたいでだったのは明白。
そしてサロン開業に関しても、彼は上手くいかないだろうと踏んでたみたいだ。
(理解してくれないなら、いいよ。別に。私は絶対成功してみせるから!)
そうして、仲のよかった私たち4人家族はみんな別の方向へと進むことになる。
寂しい。
理解してもらえなくて悲しい。
ただ一つ言えるのは、
「素敵な思い出をありがとね!」
という感謝と、いつまでも3人の健康と幸せを祈り続けるばかりだ。
ただ単に、みんなシアワセの形が違うだけなんだから。だから、
縁があれば、また会いたい。
私はそう、思い続けている。
Smile AlwaysAngela