maiのブログ

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主に映画や小説、ゲームの感想などを語るブログです。

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とうとう、横山三国志60巻、読破いたしました。


読み終わって、つくづく思うことは、南蛮編が辛かった、ということですね。


あの、もう、同じことの繰り返しなんですよ。蜀が南方を平定しようとして、孟獲という王様を捕らえては、逃がしてやる。また戦争しては、孟獲を捕らえる。また逃がしてやる・・・の繰り返し。


これは、孔明の目的が、軍事制圧ではなく、彼らの恭順を得るための戦いだったようなので、王様を殺して終わり、じゃ済まないのは、わかるんですよ。

しかし、あまりに同じことの繰り返しが続くので、いつまでやるんだ、これ・・・と、かなり辛い気持ちになりました。


同じ展開が5回繰り返されたあたりで、「南蛮編が辛い」と、旦那にこぼしましたところ、「ああ、7回おなじことやるからね」という返事が返ってきて、耳を疑いました。

え?7回?・・・まだ2回もあるの!?


しかし、この「南方征伐編」、ネットで探ると、けっこうファンも多いみたいです。

関羽、張飛、劉備という、主人公チームが次々に命を落として、お通夜ムードが続いた後での、やっとの勝ち戦ですし、「やっぱり蜀スゲー!!」を味わえるのもうれしい。


また、同じことの繰り返しといっても、戦いのバリエーションはけっこう豊富ですし、魅力的なキャラが次々出てきたり、すごい仕掛けメカのようなものも出てきたりして、読者を飽きさせない工夫もされているんですが・・・個人的には、ここはほんと辛かったです。



さて、私が心配していた司馬懿の件なんですが。


これは、意外に大丈夫でしたね。

なんだ、けっこう司馬懿、カッコよく描かれているじゃないか!というのが、私の感想です。


以前の記事では、「どうせ、孔明スゲー!を強調する為の、やられ役に描かれてるんでしょ!」と勝手に決めつけ、騒いでたんですが、どうやら杞憂のようでした。


いや、孔明の天才的な策に翻弄され、「ひーっ!」と逃げ回る、情けない司馬懿なんてものも、バッチリ描かれてはいるんですけど、かなり優遇して描かれている部分もあるように思いました。



横山司馬懿のカッコよさは、「敵の力量を正確に読み、正しく評価している」という、その点につきると思います。


司馬懿は、早い段階で孔明の才能を見抜き、「自分には勝てない」とまで言っています。


しかし、彼のスゴイ所は、そこでガッカリして卑屈になったりせずに、冷静に戦い続けた点にあると思うんですよ。


どうしても孔明を出し抜くことができない司馬懿は、蜀より大きな戦力を持っていたのにもかかわらず、主に防衛することに専念します。


戦い方としては、ハッキリ言ってかなり爽快感に欠ける戦いです。

味方である魏の兵士たちも、だんだん焦れて不満を言ってきますし、敵を煽ることにかけては天下一品の孔明には、「臆病者」とバカにされたりもして、かなり辛い立ち位置です。


しかし司馬懿は、このストレスフルな仕事を、体調も崩さず、最後までやりとげます。

これ、地味にスゴイことですよ!だいたい、孔明に関わった者たちの多くは憤死してるわけですから。


孔明の渾身の煽りを、見事にスルーし続けた司馬懿の、スルースキルの高さは、我々現代人も学ぶものが多そうです。



ところで、三国志には、優れた武将がたくさん出てくるんですけど、横山三国志では、その多くが、「慢心」で、死亡フラグを立てている描写が多くあります。

 

事実、人離れした才能ある者たちばかりなわけですから、やっぱりプライドも、常人よりは高いわけです。そのプライドが、己の才能を高く見積もらせたり、相手を侮ることにつながり、思わぬ敗北を招いてしまうわけです。


孔明の敵ではありませんが、同じ蜀の軍師だった「ホウ統」も、孔明の才能に嫉妬したことがきっかけになって、死亡ルートに進んでしまう描写があります。


それまで、あんまり欲のなさそうな、ヒョウヒョウとした人物に描かれていたホウ統が、「嫉妬」という、きわめて人間的な感情を持ってしまったが故に、まるで仙人が神通力を失ったかのように、不運を招いてしまうという、印象的なエピソードです。


どんなに才能ある人でも、「プライド」をコントロールするのは難しいんだな・・・と、横山三国志を読んで思いました。


司馬懿も、別にプライドが低いわけではなかったはずなんですが、たぶん、この漫画の中では、そこのコントロール能力が優れている設定になっていて、だからこそ最後に勝ちをつかんだ・・・という、筋書きになっているのかなと、思いました。

【てぶくろ】という、童話があります。


森にてぶくろが落ちていて、そこにねずみとリスが住むんですけど、次々に動物がやってきて、「寒いからそこに入れて」と頼みます。

二人は「てぶくろが破けちゃうよ」と断るのですが、動物達は強引に中に入ります。

やってくる動物はだんだん大型になり、最終的にクマが入るんですけど、なぜかてぶくろは破けることなく、全員が温かく冬を過ごせました、というお話です。


不思議な話ですね。どうして、てぶくろは破れなかったのか?

物理的には、かならずてぶくろは破けてしまうわけですから、この場合のてぶくろとは、なんらかの精神的なモノの象徴か、なにかの概念的なものを指しているのではないかと推測します。



話は、横道にそれますが・・

最近、「結婚したがらない若者が増えている」という記事を、ネットや雑誌で目にしました。

そして、「どうして結婚したくないのか?」の理由として、


・結婚によるメリットを見出せない

・自分の時間が減ってしまう

・自由に使えるお金が減ってしまう


こんな感じのアンケート結果が挙げられていたと思います。



この記事を読んだ時、あたかも最近の若者が、自己中心的で、精神的に成熟していない者が多いかのような印象を、私は受けてしまいました。


しかし、これはちょっと若者にとって、不公平な書き方だと感じます。

そもそも、少子化の原因を、若者の精神的傾向だけのせいにしようだなんて、無理があります。


もしも、そのような精神的な傾向があるんだとして、「じゃあその原因は何か?」となったら、私は「不景気のせい」としか、思えないんですよ。



長い長い不景気で、一番シワ寄せをくらってるのは、若者だと思うのです。

少なくとも、自分が若者だった時に比べて、就職口は格段に減ってますし、給料だって減らされてます。

こんな状態で、将来にユメを持てと言われても、そりゃ難しいですよ。


若者の○○離れ

みたいな言葉で、なんでも悪いことを若者のせいにする傾向には、正直ウンザリです。

(もっとも、ヒエログリフにも「最近の若者は・・・」なんてグチが書かれてるらしいので、人間の傾向は大昔からそんなに変わってないのかもしれません)(←※ヒエログリフはガセで、シュメール文明の粘土板に書かれていた、というのが有力な説だそうです)



さて、話を【てぶくろ】に戻しますが・・・

物語の「てぶくろ」は、他者を迎え入れるほどに広がり、破れることはありません。


うまく言えませんが、「てぶくろ」とは何かを、他者と分かち合った時に、生まれる何か・・・なのではないかと思うのです。


何かを他者と分かち合った時、確実に自分の取り分は、いったん減ります。

しかし、何かを与えた分、何かが返ってくることもある。結果的に、幸せになる人が増え、一人頭の取り分は減らない・・・


そういうモノも、この世にはあるよと、この物語は語っているように思います。


しかし、現実に心の余裕を奪われている人に、それを信じろと言ったって、難しい話だということはわかります。


自分の時間やお金を、他者のために減らしたくない

そう答える人の、「てぶくろ」は、すでにいっぱいいっぱいで、何かを迎え入れる隙間などない・・・

これ以上何かが入るなんて、とても信じられない。・・・

これは、そういう話なのではないでしょうか。





横山光輝著の「三国志」、40巻まで読みました。

37巻目くらいだったと思うんですけど、曹操が「左慈」という名の仙人に翻弄されるエピソードが出てきます。


この仙人、妖術?のようなものをバンバン使いますので、かなりファンタジー色の強いエピソードになっていて、個人的には作品全体の雰囲気の中で、ちょっと浮いてるような印象がある部分でもあります。


この左慈仙人ですが、中国古典を題材にした物語、「杜子春」にも出てくるようです。

というか、原作の「杜子春伝」を物語化した芥川龍之介が、原作に出てくるナゾの老人を、左慈仙人と結びつけたのだそうです。


私が知ってる、というか、この記事を書くために、あわてて読み返したのが、芥川の「杜子春」ですので、これから語るのは、芥川龍之介バージョンの「杜子春」の方です。ご了承ください。



!以下、「杜子春」のネタバレがあります!



「杜子春」の話は、ぶっちゃけて言うと、壮大な夢オチストーリーです。


杜子春という名の、虚無的な青年が、不思議な老人の導きで人生の栄枯盛衰を味わいつくし、果ては仙人修行のために地獄で壮絶な苦しみを味わうも、すべては一瞬の夢の中の出来事だった・・・


というのが、ストーリーの大筋です。


普通、夢オチというのは、「結局夢かよ!」的なガッカリ感を読者にもたらすので、嫌われがちな手法ではないかと思いますが、この話は、その夢部分の荒唐無稽さが非常に面白く、これだけの壮絶な人生体験が、ほんの一瞬の夢にすぎないということにも、なんらかの哲学が隠されているような感じもして、逆にいい味になっているように思います。



・杜子春の抱えた虚無

物語は、杜子春が門に寄りかかり、ボーっと空を見上げていることから始まります。

杜子春は、裕福な家庭の子として生まれたのですが、両親に死に別れ、その遺産も使い果たしてしまって、一文無しになり、空きっ腹を抱え、明日をどう生きていいかもわからない状態です。


もう、死んじゃおうっかなぁ・・・

もはや杜子春の頭にあるのは、そんなボンヤリとした虚無感だけです。


物語スタート時点の杜子春は、生活力ゼロの、ハッキリ言ってしょうもない青年です。お金があれば考え無しにあるだけ使い、無くなれば「どうしよう・・・」と途方にくれるだけのボンクラです。


そんな杜子春の前に、謎の老人(左慈仙人)登場です。老人は、何故かこのボンクラの若者に、大金の在り処を教えてくれるのです。


杜子春はあっという間に大金持ちになりますが、また放蕩の限りを尽くして、結局一文無しに逆戻り。

あきれたことに、杜子春はこの流れを二回繰り返します。ったく、学ばないにも程があります。



三度目にまた門の所で途方にくれてると、また老人が現れ、金の在り処を教えようとするのですが(甘やかすなよ!)、杜子春は遮って、「もう金はいらない」と言います。


金持ちになると大勢の人間が近づいてきたが、金がなくなると皆離れていった。俺は人間というものに絶望した


杜子春はそんなことを言い、「人間辞めて、仙人になりたい」などと言い出します。老人はここでも、素直に杜子春の望みを聞き入れ、彼を仙人修行の場へと運んでくれます。

ここから、「杜子春仙人修行編」の始まりです。


まぁ、率直な感想を言わせてもらえば、杜子春何言ってんだって感じですよね。

ただ与えられた金を遣いまくるだけで、なんの努力もせず、金でしか他人を釣れなかったお前も悪いんじゃないのか。何虚無感にひたって、人類全体に絶望してるんだ。中二病か!


この辺は、読んでて非常にフラストレーションがたまる部分でありました。個人的に。



・杜子春仙人修行編

そんな私のイライラを解消してくれるように、この章では、杜子春がこっぴどい目にあいます。

仙人になるための修行というのは、簡単に言うと「何をされても、声を出しちゃダメ」ってやつです。

この辺、MOTHER2の、プーの「ムの修行」を思い出します。もしかして、これが元ネタだったのかな?


MOTHER2の「ムの修行」も、トラウマ級に怖かったですけど、こちらもかなり凄惨です。なんやかんやあって、杜子春は地獄行きとなり、そこで文字通りの地獄の責め苦を受けるのですが、その拷問の内容たるや、かなりすさまじく、恐ろしいです。


しかし、意外にも杜子春、この責め苦にも声を出さず、耐え抜いてみせます。

今まで彼をボンクラと見下してしまっていただけに、この根性には驚きです。杜子春の絶望は、それほどまでに深かったということなのでしょうか・・・

中二病などと揶揄してしまった前言は、撤回しなければならないようです。


どんな責め苦にも音をあげない杜子春に業を煮やした閻魔大王は、畜生道に落ちて馬の姿にされていた、杜子春の両親を連れてきて、彼の目の前で打ち据えてみせます。


ああ、これはキツイですね。自分が痛いのも辛いけど、身内が目の前で痛めつけられる様を見せられる事ほど、辛い拷問はないんじゃないでしょうか・・・


これには、杜子春も動揺しますが、歯を食いしばって耐えます。しかし、母親の馬が、「私はどうなってもいいから、声を出すんじゃないよ」と、苦しみながらも杜子春を励ます声に、ついに耐え切れなくなって、「お母さん」と、声を発してしまうのです。


杜子春が声を出した瞬間、全ては夢だったかのように、老人と出会った場所に杜子春は戻っており、老人に「修行に失敗したから、お前は仙人にはなれない、失格だ」のようなことを言われます。


しかし、どこか晴れ晴れとした表情で、杜子春は答えるのです。

「はい。でも、なれなかったことを、どこかうれしく思うのです」



・仙人とは何だったのか?

老人(左慈仙人)は、「これからは人間らしい暮らしをする」と誓う杜子春に、「もう会うことも無いだろう」と言い、去っていきます。


また、去り際に、こんな事も言ってます。

「もし、お前があの時黙っていたら、即座にお前を殺すつもりだった」


これは、どういうことでしょうね?

声を出さない」→「テストに合格」なんですから、杜子春は仙人になれるはずだったのでは?


これは、「仙人になれるという話自体、嘘だった」ということも考えられますし、「人間としての死が、仙人になることとイコールである」、という風にも、読み取ることも可能だと思います。


「三国志」の左慈仙人は、まさに人間を超越した存在として描かれています。食べなくても死なないし、矢にもあたらない。


仙の国の住人になるということは、生身の肉体を捨て、なにか霊体のような・・・別の領域のモノになることなのかもしれません。

そして、そうなるには人間としての情」を捨て去ることが必須条件なのかもしれない・・・

なんだかちょっと、深いですね。


(さらに言うと、「人間としての情が無い者は、死んでいるのと同じだ」ということも、芥川は言いたかったのかもしれません。損得勘定でしか動けない、杜子春の元友人連中のような輩のことです)


そう考えると、左慈仙人は、死を願う杜子春に、「本当にいいのか?」と、その覚悟を確かめに来た、死神のような役割を持って、物語に登場していると、解釈することもできると思います。


しかし、芥川の左慈仙人は、杜子春が修行に失敗し、現世に留まる決心をしたことを、どこか喜んでいるようにも見える所が、気になるところです。



・ヒーローとしての仙人

私がこの話を読んで思うことは、つくづく「杜子春は幸せだなぁ」ということです。


何を言ってるんだ、杜子春は人生の栄華も味わったけど、地獄編で死ぬような目にあわされてるじゃないか!と思われる方もいるかもしれません。


確かに地獄で杜子春は、壮絶な苦しみを体験しましたが、その果てに「損得では動かない、人間の情愛」を知ることができました。

それにより、杜子春の虚無は消え去り、死に近づく気持ちを捨てることができたのです。


杜子春のことを、冒頭でさんざん悪く書きましたが、杜子春のような虚無感は、誰にでも持ち得るんじゃないかとも思うのです。


杜子春のように、死を望むところまでいかないにしても、ままならぬ現実に途方にくれ、投げやりな気分になる時くらい、誰にも経験あるんじゃないかと思うのです。特に若い頃などに・・・


そんな時に、謎の老人が現れて、自分を導いてくれたらどんなにいいか、という話なんですよ。


こういう、謎めいた老賢人キャラというのは、悩める者にとっての、強烈な切望の対象ではないかと思うんです。娘さんにとっての、白馬の王子みたいなものです。


そう考えると、仙人は、杜子春に正しい道を指し示す、「ヒーローキャラ」として、物語に登場していると考える方が、素直な読み方のような気がいたします。


そして、芥川版の「杜子春」というのは、倦み疲れた者たちにとっての、一種の夢小説のような側面もあるんじゃないかな、と、個人的には思うわけです。



・杜子春の中の仙人

最後に、蛇足とも思える考察を、もう一つ。

仙人というのは、あくまで杜子春個人が生み出した、マボロシのようなものなんじゃないかな、という考えです。


死神にしろヒーローにしろ、左慈仙人があまりにも杜子春に対して、手厚すぎるのが、個人的に気になるのです。

仙人にとっては、たいした手間でもなかったのかもしれませんが・・・なんでそこまでして、一介の若者一人に干渉したんだろう・・・と、世知辛い私などは、不思議に思ってしまうのです。


そこで、「仙人の存在自体、杜子春の妄想だった」説です。

杜子春は、人生に倦み疲れ、ただボンヤリと、死を想っていました。なにかちょっとしたきっかけで、ヒョイと命を捨ててしまいかねないような、危うい状態です。


そんな危機的状況に陥った杜子春の本能が、緊急避難的に作り出した人格が、「仙人」なんじゃないか・・・などと、妄想してしまうのです。


人間とは元々、いくつかの人格を持っており、誰しもが状況によってそれを使い分けていると思うのですが、当人が危機に陥ったときに出現する、「救済者人格というものが、存在するという説を、どこかで読んだ記憶があります。


杜子春は「死にたい」と願いましたが、心のどこかで「生きたい」と思っていて、彼の中の賢者的人格を呼び出し、夢想の中で「生きる為の動機」を見つける試練を体験したのではないか・・・そんな考えも、アリではないかと思うのです。



なんにせよ、死を想った時に、左慈仙人が来てくれた杜子春は、幸せです。

そして、どうして左慈仙人は、もっと頻繁に現れてくれないのだろう・・・と、思わずにはいられません。





(!今回は、「三国志」に全く詳しくない人間が、「三国志」について書こうとしております。

三国志に詳しい方、または人並みの知識が在る方には、失笑やお怒りの対象にしかならないと思いますが、ご了承ください!)



最近、息子に付き合って「妖怪ウォッチ」のアニメを観ていたら、「妖怪三国志」なるシリーズをやってました。


ジバニャンが劉備に、ウィスパーが孔明に・・・というように、妖怪たちを三国志のキャラに当てはめて、戦略シミュレーション的な事を行うゲームが発売されていて、その世界観を舞台にしたシリーズのようです。


私、「三国志」は、小学生の時に、ものすごいダイジェスト版を読んだきりで、「三国志」といえばそれこそ劉備孔明、それと張飛関羽・・・くらいしか名前が出てこない有様です。
(中国史は、高校の時に少しは勉強してるはずなのに、全く記憶に残ってない・・・)


「コマさん孫策」と言われても、「孫策って誰?」状態でして・・・私の最近の推しメンであるUSAピョンに至っては、「仲達」という人があてがわれてるのですが、何をした人なのかさっぱりわからない。


そこで、旦那に聞いた所、結構スラスラと答えてくれるんですね。仲達が司馬懿という人の字であることもわかりました。(ちなみに私は、字(あざな)というものの存在すら知らなかった・・・)


私があんまり物知らずなのに呆れたのか、旦那は三国志関連の本を書棚から引っ張り出し、漫画を図書館から借りてきてくれました。

また、安値で売ってたとのことで、「三國無双」なるゲームも、買ってきてくれまして、我が家ではちょっとした三国志ブームが到来しております。


・北方謙三氏による小説「三国志」全14巻の3巻まで
・横山光輝氏による漫画「三国志」全60巻の25巻まで


とりあえず、ここまで読んだんですが、書き手によって、武将の印象が全く違うのが面白いですね。

北方三国志の呂布なんかは、ストイックな孤高の戦士という感じでカッコイイんですが、横山三国志の呂布は、なんか頭カラッポの脳筋武将という描かれ方をしています。


元々、三国志というのは歴史書であって物語ではなく、後に「三国志演義」など、読み物として脚色を加えられた物が作られて、我々が漠然と「三国志」に抱くイメージは、割と「演義」寄りになってることが多いのだと、旦那に教わりました。


劉備が主人公で正義、曹操が敵役で悪・・・みたいなイメージの事だと思います。戦争なんですから、考えてみればどっちかが明確に悪かどうかなんて、言い切れないはずですよね。


横山三国志は、主人公である劉備の国、蜀寄りの内容になっているようで、劉備はもちろん、その軍師である孔明は、もう神がかり的にスゴイ奴に描かれています(少なくとも25巻時点では)。


そんな孔明の敵役である周瑜が、もう可哀想で可哀想で・・・。周瑜も優れた軍師であったはずなんですが、漫画を読む限りでは、どんなに努力しても孔明という天才に適わない秀才にしか見えないというか・・・まるでモーツァルトに対するサリエリのようで、見ていて気の毒でなりません。


しかし、聞きかじったところによると、この先の話では仲達こと司馬懿が、孔明のライバルになるらしいじゃありませんか!

しかも、かの有名な、
これは孔明の罠だ
という台詞は、横山三国志の司馬懿の台詞だそうじゃないですか!!


もう、嫌な予感しかしません。どうせ司馬懿も、周瑜のように「孔明はスゴイ奴だ」を強調する為の、引き立て役に描かれるに決まってる!


そう騒ぐと、もうすでに全巻読んでいる旦那が、「でも、最終的に三国時代を終わらせ、国を建てるの司馬の一族だから」と宥めてくれましたが、なんだかやるせない。


妖怪三国史では、「ジバニャン劉備」、「コマさん孫策」、「USAピョン仲達」の3人の主人公を選べるようになってるようなんですよ。一応主人公キャラに当てはめられてるんだから、司馬懿だってスゴイ人のはず・・・!


しかし、三国史は書き手によって、登場人物の印象が大きく変わる事は、すでに勉強済みです。どこかに、司馬懿をカッコ良く描いている「三国史」だってきっとあるはず!


USAピョンびいきの私としては、そう憤ったんですが、その後旦那がプレイしている「三國無双」というゲームを見て、言葉を失いました。


司馬懿が高笑いしながら空を飛んでいる!
しかも、なんかビーム出して攻撃してる!


一応、画面に出てくる司馬懿は優男風のイケメンに描かれてましたが、そうじゃない。私の求めている「カッコ良さ」は、そうじゃないんだ!


旦那は、「でも、孔明だってビーム出すよ」と慰めて(?)くれましたが、そういう問題じゃありません。


どこかに司馬懿がカッコ良く描かれてる「三国史」は、ないですかね?


先日、息子とテレビで【ドラえもん のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)】を視聴しました。

それで、あらためて感じたのが、スネ夫というキャラの重要性です。


そこは、「映画版ジャイアンの間違いじゃないの?」と思われる方もいるかもしれません。
テレビの通常回では乱暴ばかりしてるジャイアンが、映画では別人のように男前になるのは有名な話ですからね。


たしかに、めっぽうケンカが強いジャイアンは、戦闘方面でめざましい活躍を見せてくれますが、ここで言いたいのは、戦闘力として役に立つかどうかではなく、物語への貢献度の事です。


映画でのスネ夫というと、主に弱音を吐いたり、やたらとビビッたりしているイメージが強いのではないかと思います。


スネ夫が何かに怯え、「ママー!!」と叫ぶシーンは、もはや映画版ドラえもんでのお約束と言っても過言ではないでしょう。


ジャイアンが映画で男気を見せるのと反比例して、スネ夫は映画では逆に弱気な面が強調されているように思います。


これは通常回なら、のび太がやるべき仕事だと思うんですが、ジャイアン同様、のび太も映画では勇敢さが底上げされてしまう傾向があるため、弱音を吐いたり、逃げ腰になる役を、スネ夫が肩代わりさせられているのではないかと思われます。


つまり、スネ夫は映画において、ドラえもん一行が巻き込まれる事件の危険さを、観客に知らしめる役を担っており、同時にそんな危険にも立ち向かおうとする、のび太やジャイアンを輝かせる為の引き立て役をも担っているわけです。これ、物語では非常に重要な役どころです。



!以下、「宇宙英雄記」の内容に、ちょっとだけ触れています!



今回視聴した、「宇宙英雄記」でも、よその星の危機を救うべく、立ち上がろうとするドラえもん一行に、「危険だからボクはイヤだ」と、スネ夫が物申すシーンがありました。


ここで、映画を見ている子供達は、「みんなが勇気を出してるのに、水を差すスネ夫はヘタレだなぁ」なんて思うのかもしれませんが、ここでスネ夫が言ってること、一つも間違ってないんですよ


むしろ、普通の小学五年生の感覚なら、自分達に実害のない事のために、命をかけられるのび太達の方が、言い方は悪いですが、ちょっと変わってると思うんです。


いや、彼らは今までも、多くの冒険をし、数々の危険を乗り越えてはきていますよ。

しかし、通常回や、映画のスタート時点では、あくまで「普通の五年生」としての日常を送っていることを考えれば、スネ夫の感覚の方が、等身大の子供としての思考に近いと思うんです。


こういうキャラの視点というのは、非常に大事だと感じます。


実際に、スネ夫みたいな奴がいなかったら、これといった根拠も策も無いのに「ボク達でこの星を救おうよ!」みたいな空気になって、皆で盛り上がってるこのシーンは、個人的にちょっと怖かったと思います。(まるで、なにかの宗教のようで・・・)


なんでボク達がやらなきゃいけないの?ヒーローでもないのに!


と言うスネ夫の言葉は、全く正当な疑問であると共に、そこに疑問を抱くかもしれない観客の気持ちを代弁してくれています。


そして、その投げかけがあってこそ、のび太が「どうして自分達がやるのか」の答えを導き出し、なんかカッコイイ理由を言う流れにつながるわけです。


汚れ役を厭わず引き受けて、周りを引き立て、観客が「」と感じそうな部分では、物語にニュートラルな視点を提示してくれる、それが映画版スネ夫の役どころではないかと思います。


映画版ジャイアンに比べると、印象は薄いかもしれませんが、物語を影で支える映画版スネ夫も、無くてはならない存在だなぁと、あらためて感じました。