横山光輝著の「三国志」、40巻まで読みました。
37巻目くらいだったと思うんですけど、曹操が「左慈」という名の仙人に翻弄されるエピソードが出てきます。
この仙人、妖術?のようなものをバンバン使いますので、かなりファンタジー色の強いエピソードになっていて、個人的には作品全体の雰囲気の中で、ちょっと浮いてるような印象がある部分でもあります。
この左慈仙人ですが、中国古典を題材にした物語、「杜子春」にも出てくるようです。
というか、原作の「杜子春伝」を物語化した芥川龍之介が、原作に出てくるナゾの老人を、左慈仙人と結びつけたのだそうです。
私が知ってる、というか、この記事を書くために、あわてて読み返したのが、芥川の「杜子春」ですので、これから語るのは、芥川龍之介バージョンの「杜子春」の方です。ご了承ください。
(!以下、「杜子春」のネタバレがあります!)
「杜子春」の話は、ぶっちゃけて言うと、壮大な夢オチストーリーです。
杜子春という名の、虚無的な青年が、不思議な老人の導きで人生の栄枯盛衰を味わいつくし、果ては仙人修行のために地獄で壮絶な苦しみを味わうも、すべては一瞬の夢の中の出来事だった・・・
というのが、ストーリーの大筋です。
普通、夢オチというのは、「結局夢かよ!」的なガッカリ感を読者にもたらすので、嫌われがちな手法ではないかと思いますが、この話は、その夢部分の荒唐無稽さが非常に面白く、これだけの壮絶な人生体験が、ほんの一瞬の夢にすぎないということにも、なんらかの哲学が隠されているような感じもして、逆にいい味になっているように思います。
・杜子春の抱えた虚無
物語は、杜子春が門に寄りかかり、ボーっと空を見上げていることから始まります。
杜子春は、裕福な家庭の子として生まれたのですが、両親に死に別れ、その遺産も使い果たしてしまって、一文無しになり、空きっ腹を抱え、明日をどう生きていいかもわからない状態です。
(もう、死んじゃおうっかなぁ・・・)
もはや杜子春の頭にあるのは、そんなボンヤリとした虚無感だけです。
物語スタート時点の杜子春は、生活力ゼロの、ハッキリ言ってしょうもない青年です。お金があれば考え無しにあるだけ使い、無くなれば「どうしよう・・・」と途方にくれるだけのボンクラです。
そんな杜子春の前に、謎の老人(左慈仙人)登場です。老人は、何故かこのボンクラの若者に、大金の在り処を教えてくれるのです。
杜子春はあっという間に大金持ちになりますが、また放蕩の限りを尽くして、結局一文無しに逆戻り。
あきれたことに、杜子春はこの流れを二回繰り返します。ったく、学ばないにも程があります。
三度目にまた門の所で途方にくれてると、また老人が現れ、金の在り処を教えようとするのですが(甘やかすなよ!)、杜子春は遮って、「もう金はいらない」と言います。
「金持ちになると大勢の人間が近づいてきたが、金がなくなると皆離れていった。俺は人間というものに絶望した」
杜子春はそんなことを言い、「人間辞めて、仙人になりたい」などと言い出します。老人はここでも、素直に杜子春の望みを聞き入れ、彼を仙人修行の場へと運んでくれます。
ここから、「杜子春仙人修行編」の始まりです。
まぁ、率直な感想を言わせてもらえば、杜子春何言ってんだって感じですよね。
ただ与えられた金を遣いまくるだけで、なんの努力もせず、金でしか他人を釣れなかったお前も悪いんじゃないのか。何虚無感にひたって、人類全体に絶望してるんだ。中二病か!
この辺は、読んでて非常にフラストレーションがたまる部分でありました。個人的に。
・杜子春仙人修行編
そんな私のイライラを解消してくれるように、この章では、杜子春がこっぴどい目にあいます。
仙人になるための修行というのは、簡単に言うと「何をされても、声を出しちゃダメ」ってやつです。
この辺、MOTHER2の、プーの「ムの修行」を思い出します。もしかして、これが元ネタだったのかな?
MOTHER2の「ムの修行」も、トラウマ級に怖かったですけど、こちらもかなり凄惨です。なんやかんやあって、杜子春は地獄行きとなり、そこで文字通りの地獄の責め苦を受けるのですが、その拷問の内容たるや、かなりすさまじく、恐ろしいです。
しかし、意外にも杜子春、この責め苦にも声を出さず、耐え抜いてみせます。
今まで彼をボンクラと見下してしまっていただけに、この根性には驚きです。杜子春の絶望は、それほどまでに深かったということなのでしょうか・・・
中二病などと揶揄してしまった前言は、撤回しなければならないようです。
どんな責め苦にも音をあげない杜子春に業を煮やした閻魔大王は、畜生道に落ちて馬の姿にされていた、杜子春の両親を連れてきて、彼の目の前で打ち据えてみせます。
ああ、これはキツイですね。自分が痛いのも辛いけど、身内が目の前で痛めつけられる様を見せられる事ほど、辛い拷問はないんじゃないでしょうか・・・
これには、杜子春も動揺しますが、歯を食いしばって耐えます。しかし、母親の馬が、「私はどうなってもいいから、声を出すんじゃないよ」と、苦しみながらも杜子春を励ます声に、ついに耐え切れなくなって、「お母さん」と、声を発してしまうのです。
杜子春が声を出した瞬間、全ては夢だったかのように、老人と出会った場所に杜子春は戻っており、老人に「修行に失敗したから、お前は仙人にはなれない、失格だ」のようなことを言われます。
しかし、どこか晴れ晴れとした表情で、杜子春は答えるのです。
「はい。でも、なれなかったことを、どこかうれしく思うのです」
・仙人とは何だったのか?
老人(左慈仙人)は、「これからは人間らしい暮らしをする」と誓う杜子春に、「もう会うことも無いだろう」と言い、去っていきます。
また、去り際に、こんな事も言ってます。
「もし、お前があの時黙っていたら、即座にお前を殺すつもりだった」
これは、どういうことでしょうね?
「声を出さない」→「テストに合格」なんですから、杜子春は仙人になれるはずだったのでは?
これは、「仙人になれるという話自体、嘘だった」ということも考えられますし、「人間としての死が、仙人になることとイコールである」、という風にも、読み取ることも可能だと思います。
「三国志」の左慈仙人は、まさに人間を超越した存在として描かれています。食べなくても死なないし、矢にもあたらない。
仙の国の住人になるということは、生身の肉体を捨て、なにか霊体のような・・・別の領域のモノになることなのかもしれません。
そして、そうなるには「人間としての情」を捨て去ることが必須条件なのかもしれない・・・
なんだかちょっと、深いですね。
(さらに言うと、「人間としての情が無い者は、死んでいるのと同じだ」ということも、芥川は言いたかったのかもしれません。損得勘定でしか動けない、杜子春の元友人連中のような輩のことです)
そう考えると、左慈仙人は、死を願う杜子春に、「本当にいいのか?」と、その覚悟を確かめに来た、死神のような役割を持って、物語に登場していると、解釈することもできると思います。
しかし、芥川の左慈仙人は、杜子春が修行に失敗し、現世に留まる決心をしたことを、どこか喜んでいるようにも見える所が、気になるところです。
・ヒーローとしての仙人
私がこの話を読んで思うことは、つくづく「杜子春は幸せだなぁ」ということです。
何を言ってるんだ、杜子春は人生の栄華も味わったけど、地獄編で死ぬような目にあわされてるじゃないか!と思われる方もいるかもしれません。
確かに地獄で杜子春は、壮絶な苦しみを体験しましたが、その果てに「損得では動かない、人間の情愛」を知ることができました。
それにより、杜子春の虚無は消え去り、死に近づく気持ちを捨てることができたのです。
杜子春のことを、冒頭でさんざん悪く書きましたが、杜子春のような虚無感は、誰にでも持ち得るんじゃないかとも思うのです。
杜子春のように、死を望むところまでいかないにしても、ままならぬ現実に途方にくれ、投げやりな気分になる時くらい、誰にも経験あるんじゃないかと思うのです。特に若い頃などに・・・
そんな時に、謎の老人が現れて、自分を導いてくれたらどんなにいいか、という話なんですよ。
こういう、謎めいた老賢人キャラというのは、悩める者にとっての、強烈な切望の対象ではないかと思うんです。娘さんにとっての、白馬の王子みたいなものです。
そう考えると、仙人は、杜子春に正しい道を指し示す、「ヒーローキャラ」として、物語に登場していると考える方が、素直な読み方のような気がいたします。
そして、芥川版の「杜子春」というのは、倦み疲れた者たちにとっての、一種の夢小説のような側面もあるんじゃないかな、と、個人的には思うわけです。
・杜子春の中の仙人
最後に、蛇足とも思える考察を、もう一つ。
仙人というのは、あくまで杜子春個人が生み出した、マボロシのようなものなんじゃないかな、という考えです。
死神にしろヒーローにしろ、左慈仙人があまりにも杜子春に対して、手厚すぎるのが、個人的に気になるのです。
仙人にとっては、たいした手間でもなかったのかもしれませんが・・・なんでそこまでして、一介の若者一人に干渉したんだろう・・・と、世知辛い私などは、不思議に思ってしまうのです。
そこで、「仙人の存在自体、杜子春の妄想だった」説です。
杜子春は、人生に倦み疲れ、ただボンヤリと、死を想っていました。なにかちょっとしたきっかけで、ヒョイと命を捨ててしまいかねないような、危うい状態です。
そんな危機的状況に陥った杜子春の本能が、緊急避難的に作り出した人格が、「仙人」なんじゃないか・・・などと、妄想してしまうのです。
人間とは元々、いくつかの人格を持っており、誰しもが状況によってそれを使い分けていると思うのですが、当人が危機に陥ったときに出現する、「救済者人格」というものが、存在するという説を、どこかで読んだ記憶があります。
杜子春は「死にたい」と願いましたが、心のどこかで「生きたい」と思っていて、彼の中の賢者的人格を呼び出し、夢想の中で「生きる為の動機」を見つける試練を体験したのではないか・・・そんな考えも、アリではないかと思うのです。
なんにせよ、死を想った時に、左慈仙人が来てくれた杜子春は、幸せです。
そして、どうして左慈仙人は、もっと頻繁に現れてくれないのだろう・・・と、思わずにはいられません。