人は皆、必ず、誰かに嫌われる。
なぜなら、すべての人に好かれる人なんて一人もいないから。
どんなに人間的に素晴らしい人でも、その人のことを悪く言う人はいるし、嫌う人はいる。
なんせ、マザーテレサでさえ、偽善者と思う人がいるんやから。
ただ、すべての人に好かれる人はいないが、すべての人に嫌われる人もいない。
どんな人であろうと、自分を好いてくれる人はいるし、自分を嫌う人もいる。
自分は好かれる存在でありながら、嫌われる存在でもある。
これが、本質。
変わりようがない事実。
だが、これを認めることができない人は多い。
認めることができないで苦しんでいる人は多い。
特に、心に傷を負っている人は…
心に傷を負っていると、自分は好かれる存在なんだ、と思うことができない。
でも、嫌われる存在とも思うことができない。
自分は嫌われる存在と認めたくない想いが働き、認めようとしない。
だから、必死になって嫌われないように振る舞う。
好かれるように、良い子を演じるようになる。
心に傷を負い、自分の居場所を実感できなくなった人ほど、良い子を演じるようになる。
家族の中で、自分の居場所を実感できなくなった人ほど、こういったケースに陥りやすい。
良い子を演じ、嫌われないことでどうにか居場所を確保しようとする。
自分を抑えて、両親の顔色をうかがい、両親の手がかからないような良い子を演じる。
やはり、感受性が鋭くて優しく、優秀な兄や姉がいて比べられながら過ごした人ほど良い子を演じやすいもの。
ただ、良い子を演じれば演じるほど、嫌われてはいけない、嫌われると自分の居場所を失う、嫌われてはお終い、といった強迫観念にかられる。
すると、ますます自分を抑え、偽った自分を演じるようになる。
嫌われることを悪として、嫌われることは絶対にアカンこととして決めつけることで、自分自身の世界が小さくなるばかり。
なのに、当の本人はそのことに気づいていない。
自分の世界を小さくしながら生き続ける。
すっごくもったいない。
では、どうして、世界が小さくなっていくのか。
それは、本質を否定して生きているから。
そもそもの本質は、人は誰もが、必ず誰かに好かれ、必ず誰かに嫌われる、ということ。
好いてくれる人もいれば、嫌う人もいる、ということ。
けど、良い子を演じると、嫌われてはいけない、と嫌われることを否定する。
嫌われる存在であるにもかかわらず、嫌われることを否定する。
認めようとしないし、受け入れようとしない。
頑なに、自分は嫌われる存在ではない、と断固拒否している。
自分は、嫌われる存在ではない、と思うこと自体、思考が歪んでいる証。
どんな人であろうと、誰かに嫌われる、という事実を認めることができない。
嫌われてはいけない、という思い込みが、自分の思考をゆがめる。
ゆがんだ思考のまま生きるから、自分自身が苦しくなっちゃう。
苦しくなり、もがいているにもかかわらず、人生は好転していかない。
無駄に労力と時間を費やすだけで、何にもならない。
だからこそ、もう良い子を演じるのは止めなよ。
過去、良い子を演じていたなら、その時の自分を許してあげなよ。
その上で、認め、受け入れてあげなよ。
良い子を演じていた自分を、いつまでも大事にする必要はない。
確かに、その時は、良い子を演じて自分を守ることが精一杯だったかもしれない。
だが、成長して、大人になったのなら、もはや、良い子を演じる必要はない。
嫌われてはいけない、という思考に支配される必要はない。
だって、どんな人も、必ず、誰かに嫌われるものなんやから。
誰からも嫌われない人なんて一人もいない。
でも、誰からも嫌われる人も一人もいない。
自分を嫌う人は、確実に存在する。
これは、まぎれもない事実。
とはいえ、悲観することはない。
なんせ、自分を好いてくれる人も確実に存在するから。
決して、好かれるのが良くて、嫌われるのがアカン、というわけではない。
好いてくれる人はその人の役割で好いてくれていて、嫌う人はその人の役割で嫌っているだけ。
ゆえに、個々に見ていけば良い。
この人は好いてくれる人で、この人は嫌う人なんだ、といったように。
だが、大事なのはそこから。
だって、今自分を好いてくれる人がもっと好いてくれるようになるにはどうしたら良いのかを考えることが重要だから。
同様に、今自分を嫌う人が、自分を好いてくれるようになるにはどうしたら良いのかを考えることが重要だから。
たとえ、自分がどんなに成長して素晴らしい人になっても、そんな自分を嫌う人は必ず存在するもの。
自分がいるステージごとに、そういう人は、必ず存在する。
そのため、あらかじめ受け入れて、どうすれば、その人が自分を応援してくれるかを精一杯工夫すれば良い。
相手を思いやり、自分の対応を変えていけば良い。
そうやって試行錯誤することこそ、自分を嫌う人の存在意義でもあるんよね。
嫌なものとして排除するのではなく、その人を通じて自分を成長させる。
なんたって、人は、嫌と感じるものから学ぶことは多いから。
そりゃそうじゃよね。
嫌と感じるのは、自分が受け入れることができていない証だから。
受け入れるだけの器が備わっていない証だから。
その嫌と感じていたものを、どうすれば受け入れることができるようになるのかを学んでいるんよね。
嫌と感じるものと出会った時には…
ただ、人の成長には限りがないため、嫌と感じるものはずっと存在し続ける。
何かを受け入れても、また受け入れることができていない嫌と感じる存在に気づく。
これがずっと繰り返されるんよね。
ひょっとすると、皆が皆、その時の自分にとって嫌なものを受け入れる修行の道中なのかもしれないね。
そして、自分は、誰かには嫌われる存在なんだ、と受け入れると、嫌われることに対してのハードルがグッと下がる。
断られても、批判されても、変に思われても、そうやって自分をとらえる人がいるものなんだ、と軽くとらえることもできる。
ゆえに、嫌われることや断られること、批判されることに一喜一憂する必要はない。
案外、そんなものなんやで。
サコヤンの独り言
「自分は嫌われる存在でもある、と受け入れると、心がすっごく軽くなる」