自分がやる。


という想いを強める。


ものすごく大事。


もう、何かに頼るのは止めようではないか。


もう、誰かが何かをしてくれると期待するのは止めようではないか。


もう、何かを待つのを止めようではないか。


なんたって、自分が生きる自分の人生なんやから。


自分が主となり、自分が動く。


それが本来の姿。


そもそも、人は、依存しなければ生きてはいけない、ということはない。


誰だって、自立して生きていくことはできる。


それを、生きていくことはできない、と勝手に思いこむ。


依存した時間が長ければ長いほど、そう思いこむ。


特に、依存しやすいのは親。


親は優しく、力になってくれる。


ゆえに、依存しやすい。


とはいえ、依存し続けていても、自分をだめにするだけ。


だからこそ、依存を絶ち切り、自立心を強めること。


自立心を強め、自分がやる、という想いを爆発させる。


すると、自ずと行動につながるから。


今まで、依存心によってブレーキがかかっていた行動ができるようになるから。


それに、世の中には、自分にとって必要な経験が山ほどある。


その一つ一つが、自分と出会えることを首を長くして待っている。


ただ、どんな経験も、行動によって味わうことができるもの。


過去のすべての経験がそうであったように。


これは、今後も変わらない。


行動することによって、経験を得る。


でも、経験は、待っているだけでは増えていかないもの。


何もしないだけでは増えていかないもの。


何かを期待しているだけでは増えていかないもの。


どうしても、経験を得るには行動が必要。


なのに、何かに依存していると、この行動に制限がかかる。


よって、経験できる数が減ってしまう。


そのため、行動が必要となり、自分がやる、という想いが必要となる。


依存心は、自分が自分らしく生きる上では、邪魔な存在となるもの。


自分がやる、という想いを弱らせ、自分の人生を悪化させる。


やらないことを選べば、他者の意に沿って生きることになる。


そんな人生では、心が満ちない。


自分らしさを表現できない。


自分が自分として生きている実感を味わえない。


ゆえに、自分がやる、という生き方を選ぶ。


その方が、確実に人生が楽しくなり、幸せを感じる。


もちろん、どんな生き方を選ぶのも自由。


どうせなら、自分が楽しくなる生き方を選ぼうではないか。


何かに制限されているのではなく、自分らしさを表現できる生き方を選ぼうではないか。


もしくは、自分らしく生きている時間を日々の中に確保しながら過ごす生き方を選ぼうではないか。


無理矢理、自分を抑えるのでもない。


誰かに依存するものでもない。


やらないことを当たり前にするものでもない。


もっと自由に、自分がやる。


自分がやることが当然、というスタンスを取ろうではないか。


今は、どんな生き方も選ぶことができるんやから。


何かを怖れ、やらないでおこう、という考え方を手放そうではないか。


何があっても、それは必要な経験なんやから。


「やるんだ」という想いを強め、自分を突き動かしたら良い。


どうなるかなんて、あれこれ考える必要はない。


考えることなく、アクセル全開で、やっちゃえば良い。


上手くいっても、いかなくても、それはそれで自分にとっては必要な経験。


行動によって生じる必要な経験を一つずつ着実に増やしていけば良い。


その積み重ねが、自分自身をより大きな人へと導いてくれるから。


何かに依存し、留まるなんて、もったいないことなんやで。


人生を無駄にしていることなんやで。


そのことをもっと自覚しなよ。


自分を留めようとする力なんて、実は、ヘナチョコ。


大したことではない。


依存心が強いことによる錯覚にすぎない。


自分は一人では何もできないと思いこんでいるにすぎない。


そんなのは、正しい情報ではない。


その証拠に、やってみると、意外とやれるものだから。


とにかく、自分がやるんだ、という想いを強めて実際にやれば良い。


やったらやったで、どうにかなるものがほとんどだから。


怖れているだけでは何にもならない。


やってこそ、意味も価値も生じる。


だから、どうにかしてでも自分を突き動かしなよ。


その瞬間から、人生が大きく動くから。


案外、そんなもの。



サコヤンの独り言

「自分がやるんだ、という想いを強めて実際にやる」