長らくブログを書くのを休止していましたが、最近思うところあってこれを再開しました。思うことをつらつらと書くのではなく、世の中に役に立ちそうだけど結局どうでもいいことをテーマに纏めて書いていきます。
肉は赤いうちに食え

よく焼けた肉は旨い。バーベキューというのは無論、笑顔で肉の奪い合いをする行為である。 肉の確保法にも色々あり、しょっちゅう特定の肉に箸をつけ暗に所有権を主張している奴もいるが、 そのような見苦しい行為は日本人として真に恥ずべきである。 ではどうするか。完璧に焼ける前のちょっと赤い肉を好んで食うべきである。 食卓に戦略のない奴は、必ず肉がよく焼けるを待つ。 彼らはそうする特別な理由を持たない。しいて言えば、その方が「旨そうだから」である。 そこの虚を突くべきである。 肉はちょっと赤かろうが、ほぼ変わらず旨い。 待って肉失うより、色を気にせず全部食う方が、圧倒的に利益的である。
つい最近になって、初めて南半球を旅したときのこと。

旅というよりオンライン大学院の現地スタディのため、クラスメートと共にまずブリスベン空港に降りた。目指すは100km南方のゴールドコーストである。

レンタカーを借りてさあ乗り込んだが、方向が皆目わからない。しかしそこは百戦錬磨のオレサマだ、慌てる必要はない。太陽が方角を教えてくれるからだ。午前9時なのでその太陽は南東にある筈だ。

と思って走って1時間、どうも方角が違うような気がしてならない。が、道路の表示板は確かにゴールドコーストはあっち、と書いてある。うーむ、気持ち悪いがその表示板に従って走り、まあ予定通りゴールドコーストに着いたのであった。

帰国して気が付いた。そうか、南半球か!つまり、午前9時の太陽は、「南東」ではなく「北東」にあったのか。90度ずれてた訳だ。因みにその太陽は更に北に回り、正午には「北中」する訳だ。しまった!

頭では分かっていたが、いざ現地に乗り込むとそんなことはすっかり忘れていた次第であった。

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余談。翌年また同じ場所に行った際、確かに太陽は右から昇って左に沈んでいた。ああバカボンのパパはある意味で正しかったのかもしれない。

$sako2100 人生後半戦
大学数学科の2年目の留年が決定し、急ぎ何らかの言い訳を作る必要に迫られた大学5年の冬のこと。

私は「共産主義」なる国に大急ぎで行くことにした。1989年頃、そう、急がないとベルリンの壁が崩壊しそうだったからである。行き先は中国、モンゴル、ソ連、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリーである。ユーラシア横断列車の旅だ。

この鉄のカーテンの向こう側では英語は全く通じない。義務教育では英語ではなくロシア語を教えるからだ。これが分かっていたので、私はNHKラジオのロシア語講座を1年間みっちりやっていた。従い、モンゴルやソ連ではイズビニーチェxxx(すんません、地下鉄どこですか)くらいの会話はできるようになっていた。

しかし。列車がソ連を抜けてポーランドのワルシャワに着いたとき。私は片言のロシア語で町の人にいろいろ聞くのだが、どうも通じない。英語などはハローの意味も分からない。これは困った。聞くところによると、ポーランドでは国民感情としてはこの占領民の操る言語(ロシア語)を使うのは恥とされているらしい!

では何語が使えるのかと聞くと、ドイツ語を多少操るらしい。これは大変だ。確か大学1、2年の時に何とか単位を取ったあれだな。私はワルシャワの旅の宿でその辺のドイツ人を捕まえて、まず5W1Hと数字の1から20を思い出し、ヴォー イストxxx(フリードリッヒ通りはどこですか)くらいの会話はできるようになった。そしてこの作戦は次の国・東ドイツでも役立った。

然るに。今度はまた鉄道にのってチェコスロバキアのプラハである。またまた言語が通じない!ドイツ語も英語も全然ダメ。ロシア語はタブー。一体どのように意思疎通すればいいのか見当もつかない。。。

この自信と失望を繰り返す過酷な環境の中で私は、もはや自分が何語をしゃべってるのか訳分からないガイジンになってしまっていた。いわば言語トランス状態である。恐山の除霊のように私は、恐らく体を前後左右に揺らしながら、むにょむにょと独自の言語(のりと?)を喋っていたのだろう。すみませんソーリー。が、そのコミュニケーションは恐らく成功していたのである。何故なら、この国では言語で苦労した覚えが全くないからである!

そしてその後列車がハンガリー(マジャール語)に到達した時、私の言語能力は既に不死身になっていた。。。

こりゃ確かに、ヨーロッパにいると言語能力は発達するわな、と思った長い鉄道の旅であった。

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余談。その後飛行機を乗り継いでソ連の極東(ハバロフスク)に帰ってきたときのこと。ここは日本・新潟への空の玄関口だ。ここで私はトランス状態から正気を戻してロシア語を思い出し、「イズビニーチェ」をやるのだが、その町の人が返してくれる言葉は「ああ、バス停はあっちですよ」と、流暢な日本語だった。うーむ。

数年前に単独でチベットのラサに行った時のこと。

チベットでは鳥葬というのがある。人間死んで鳥に肉を食わせる葬式のことだ。ちょっとやそっとでは見られるもんではないが、旅で知り合った韓国人女学生4人衆によれば、ランクルをチャーターして8時間ぐらい走れば、標高4400mの山岳の寺でその鳥葬を見ることができるらしい。名前も覚えている。ディグンティ寺という。

ならば、という訳でさっそくその辺のランクルをチャーターして(意外と簡単に見つかるもんだ)、夜中の2時に町を出発した。

しかし、その道程がスサマジイ。道というより、山岳の荒野(というよりヒマラヤのフモト)の道なき道を、深夜の真っ暗の中、大きな岩や窪みを避けながら、時速80kmくらいの猛スピードでぶっ飛ばすのである(それも8時間)。

最初はキャーキャー言っていた韓国女子学生諸君もだんだん怖くなったのか、だんだん声に元気がなくなってしまった。ここは私が勇気付けなけなければと思い、冗談を言った。それは、「我々が鳥葬を見に行くんじゃなくて、我々が鳥葬されにいくのかも知れないな」というつまらない冗談である。

効果は予想以上に深刻で、車内は途端に重ーい雰囲気になってしまった。我々は残りの4時間近く、だーれもしゃべらない深夜の80km/hのランクルで、夢のディグンティ寺を生きて見ることのみを祈って、ただひたすらに耐え続けていた次第であった。

20年くらいまえ、共産主義が次々に崩壊していく直前の頃、単独でハンガリーに言ったときの事。

ハンガリーのブタペストは音楽の町でもあり、かつ共産主義でもあったため、フルオーケストラのチケットが異常に安い。確か5ドルくらいだったと思う。

私は「安い」という動機だけでテキトーなコンサート(確かバルトーク)に行ったのだが、観客が殆どいない。恐らく演奏メンバーより少なかったろうと思う。私の席の近所のおじさんは、いびきが音になる直前ぐらいの勢いですっかり寝ている。

早く終わらないかな、とそわそわしながらも最後の曲を聴き終わったとき、とつぜん例のイビキおじさんがガバッと立ち上がり、「ブラボー!XJOFHCHH<〇×△!」と叫んだのにはあっけにとられてしまった。この人は一体何をしにコンサートホールに来ていたのだろうか。

20年経った今なお、謎のままである。まあ、そういう国だった、という思い出だけが残った次第である。
18歳の冬、初めて単独で海外に旅に出たときのこと。

行き先は中国だったのだが、その動機は、「少林寺は実在し、しかも観光で行くことができる」と友人から聞いたことに起因する。

私は念願の少林寺に行くため、地球の歩き方を片手にまず最寄の大都市(鄭州)まで行って宿を見つけて宿泊し、そこで少林寺までの1日バスツアーを探して乗り込んだ。

さてバスは少林寺に着いたのだが、バスガイドさんの説明が中国語なので、ここで何時間取れて、何時に出発なのか、皆目分からない。まあいいやなんとかなるや、と思った私は、真のアホだった。

私は特に根拠なく「ここには3時間ほどいるだろう」と判断し、その間少林寺の奥の院や林塔などを楽しんでいたわけだが、お土産買って駐車場に戻ると、私のバスがいない。あれ、どっかに移動したかなと色々探したが、まったくいない。いじわるイベントで、どっかに隠しているのかな、と思ったが、やはりいない。

他に多くのバスがった返す大駐車場の中、困ったことに私は、自分のバスがどれだったかすら覚えていない。これはまずい!時間はどんどん経つし、日も暮れそうだ!半べそで歩き回ったこと2時間、どうやって生きてお国の土を今一度踏めるかについて絶望的真剣に悩んでいた時、なんと幸いにも例の私のバスのガイドさんが一人、私のことを待って探し続けてくれていた!

私はその人の顔を覚えていなかったのだが、彼女は「確かガイジンが一人いたな」と私を覚えていてくれたわけだ。私は迷子の子供が母親を見つけた時のような情けない表情をして(多分)そのガイドさんに言われるがままに別のバスに乗せてもらい、町まで帰ったのであった。

思えば、そうだよなあ。日本なら多少勝手な行動してもバスや関係者がきちんと待っててくれたりするが、外国ではそんなんないよな。たまたまガイドさんが心優しい人だったらか救われたが、もしガイドさんの親切心がなければ(当時の中国は国民皆公務員なのでこの行為はとても珍しい)、恐らく私は少林寺の土となっていたかも知れない。

今にして思えば感謝しても足りないくらいであるが、この場をお借りして謝謝申し上げます。中国に、発展あれ。
18歳の冬、初めての海外を単独で出たときのこと。

ガイジンも見たことしかないし英語もしゃべれない。そんな中、成田空港から香港に向けて出発する飛行機の席はあいにく「B」だった。右側には男のビジネスマン風中年ガイジン、左側には和田アキ子風ガイジン。

ああオレは運が悪いと嘆いているさなか、禁煙席である筈なのにビジネスマンカイジンが煙草を吸い始めた。「あの、すいません、禁煙席ナンすけど」と英語でどういえばいいか分からず、英語が通じなかった場合の恥ずかしい思いと煙草の煙による苦痛とを天秤にかけてモジモジしていると、和田アキ子ガイジンがいきなり私の顔越しに右手を出してビジネスマンガイジンの視界に入れ、「ここは煙草を吸うところじゃない」とにこりともせずに言った(と思う)。

さすがガイジンは凄えと思っているうちにその2人は私の顔越しにもめ始めてしまった。もはやそこに私の存在感はない。そうこうするうちに、今度はこれまた2m級のアフリカ系アメリカ人スチュワーデスが介入してきて、即座にその紛争を解決してしまった。

これが私が初めて体験したガイジンと外国だ。それは温室ジャパンに育った自分の無力さをひしひしと感じるフライトであった。

私は初めて外国の地を踏む前に、成田空港の滑走路上で既に外国を経験してしまったようだ。
10年くらい前に単独でどっかに行ったときのこと。

中国系の飛行機に乗った。我が席の担当客室乗務員は男性だった。いわゆるスチュワードだ。実に親切で礼儀正しく好感の持てる好男子であった。

名前も覚えている。台湾人だが、英名でジャッキーというらしい。個人的にも親しくなり、お互いメールアドレス交換をして別れたのだが、帰国後彼から入ってくるメールの内容が微妙だ。「I miss you」などとある。今度日本へのフライトがあるときに会おうということになり、会って飯食ったのだが、やはり会話内容が微妙だ。「今夜どうする」という。

初めて私は気が着いた。これがあの、あれか。しまったなあ、そんなケはないんだけど、どうやって英語で伝えればいいんだろう。結局その夜は乙女のように走って逃げ、その後は連絡シャットアウトしたように覚えている。

人生最大の危機であった。
20年くらい前に単独でどっかに行ったときのこと。

大韓航空機に乗った。ちょうどソ連による撃墜事件のあった直後だった。テレビでは大韓航空機にはカメラがついていてスパイ行為しているとかいろいろ言われていた頃である。

航空機に乗って出発を待っていたが、なかなか出発しない。もしかしてこれは爆弾予告でもあったんじゃないか、とヒヤヒヤしているちょうどその時、一度閉まった飛行機のドアがいきなり開いて、白いツナギを来た韓国人メカニック達が真剣な顔をしてドカドカと入ってきて後ろの圧力隔壁の方に行くのである。

私の頭は高速に回転してその状況の整理を試みた。一体これは何が起こっているんだ。。。やはり爆弾処理班なんだろうか。いやそれならば防弾チョッキぐらいつけているな。でも顔色は尋常じゃないな。。もしかしたら、ここで「すみません、降ります!」と手を上げたほうがいいんじゃないか。よくテレビである「奇跡の生還」ってのはこれだな。そこに出てくる生還する人の共通点ってのはなんだ?落ち着け、サコ。。。ここは冷静さが必要だ。ここで手を上げてしまっては、飛行機代がパアになるしな。待てよ、仮にここでパアにしたら、余計なホテル代も掛かるし、一体いくらの損失になるんだ。。落ち着け、でも急いで計算するんだ、サコ。。。

結局飛行機はそのまま飛んで、無事に目的地に着いたのであった。ちゃんちゃん。