どうも。全然ブログが書けない人。向坂英明です。
いいわけから簡単にすると、全然書く気がしてないわけではないのです。
まず書こうとしてパソコンに向かう。書く・・・・止まる。
色々考えたんです。なんで止まるのか?わからない・・・。
でも一つだけわかりました。
「伝えたい」と思った時に言葉がちゃんとみつからない。そして、面倒になり、消す。
これまで数々書こうとしたネタが消えましたが。
今日は書きま~~~す。という事で早速本題に。
自分の生い立ちを知ってる人はまぁまぁそれなりに知ってる人はいると思いますが。
これは僕が小学生の時の話。そして、そこから時が経って、昨日の話です。
記憶が曖昧な部分があるので、適当に書いてしまってるのはご了承ください。
あれは小学校3年生の頃です。その時住んでいた場所は多摩。
そして時期は夏。熱い熱い夏でした。
母があることをボクに提案をしてくれました。
母「夏休みにちょっと旅にいかない?」
僕「えっめんどくさいから行かない。」
母「そんな事言わずに行こうよ。計画はとにかく西に行くという事、それと寝台列車に乗る」
僕「・・・しかたないな~じゃあ行ってあげるよ」
まぁなんて生意気な餓鬼なんでしょう。僕が親だったらぶっ飛ばしてますね(笑)
とにかくそんな母の唐突な誘いから僕は母と2人旅で西の国へ行くことになったのです。
その計画はもっと具体的にいうと、まずは九州までいく。そこに行くまでは寝台列車にのり、朝福岡?小倉?まで行くという感じでした。
そして、そこから南下をして、長崎・鹿児島などを周る。九州一周するつもりで行ったが、実際時間もなく、とにかく見るところがあると思いついたところを母なりに選んで回った。
そして、そこからノープランでした。なので確かあれは鹿児島をで前の日の夜に母が。
母「これからどうしようか?」
僕「・・・・」
母「このまま九州を回るのもいいけどね~、四国か大阪とか広島・・・」
僕(広島!?そういえば長崎で行ったどっかの施設で爆弾が長崎と広島に落とされたって書いてあったな)
僕「広島に行こう」
母「じゃあそうしよう」
っと広島に行くことが決定をして、次の日一日を使って行くことになったのだ。
ちなみに長崎でよった場所は本当に覚えてない。確か原爆に関しては関係ないところだった気がする。
でも、なんでかその事が頭に残っていた事を思い出したんです。
そして、広島に付いたその日はそのままビジネスホテルに母と泊まり、次の日に行動を起こす事になった。
ちなみに、広島での行動にかんしては全く決めてない、母が僕になんで行きたいのっと聞かれたので、「爆弾が落とされたところだから」と言った言葉だけをくみ取って、色々と考えて回るところ決めたようだった。
それが僕の人生にとても強く、大きな衝撃が残るきっかけになったのはこの後に書こう。
まず言ったのはいきなり原爆ドームだった。
もうあれは今でも鮮明に覚えている。はっきり衝撃を覚えたのもだ。
暑かった。蝉の声が耳に鳴り響いていた。
何十年前、僕が生まれる本当に少し前に、ここではとても大きな爆弾が落ちて、一瞬にして多くの人が亡くなった。
言葉ではわかるけども、感情がついてこない。
とにかくずっと見ていた。
その後、平和記念子園に行き、近くの記念館にいって、ずっと中を見て回った。
言葉には全く出来なかった。
一日過ごして、色々みて、色々しって、出てきた感情は「憎しみ」だった。
そんな事をして、何が意味があるのか?
人が死ぬことをなんでそんな簡単な平気で出来たんだ。
とにかく、怒り、憎しみの感情しかでてこなく、とにかく衝撃を受けたのを覚えている。
それから時はだいぶ過ぎ、昨日にいたる。
初めて小学生に訪れていらい、初めての広島だった。
気合も入っており、仕事とはいえ、時間を作って色々回るつもりだった・・・。
けども僕の体調は最低な状態だった。それが故結局どこにもいけず、仕事をすることで手一杯だった。
っが、ふと街を歩いてる時に見つけた、平和資料館という文字に目がとまり、そこは自分が行こうとしてるところのすぐ近く、ちょっとよって行こうとおもい、中に入っていた。
その中は僕が17年前に見た時の雰囲気にとても似ており、不思議な感覚がよみがえる。
もちろんそこには行った事はない。そこは「袋町小学校」の昔の建物を大事に保存してる、建物であり、資料館だ。
中に入ると、あるお爺ちゃんが一人ポツンと座っていた。
「いらしゃ~い」
新聞から目を話さずに声を向けてくる。
僕は小さく「どうも」っと言いながら、中に進む。
中は狭く、大した広さではない。でもその建物にちなんだ原爆の時の被害の資料や物が沢山あった。
原爆のひどさはいつ見ても本当に気持ちがよくない。
当時原爆が落された時、この袋町小学校は建物が壊れずなんとか持ちこたえた。
被害にあった人たちを手当てする為の場所として使われていたらしい。当時の状況が色々写真で残っていた。
さらに、学校の壁には字が沢山書かれていた。何が書かれてるのか説明があった。
原爆が落とされ、家族が捜し人を見つけるために伝言版になっていたのだ。そこには切実に文章が書かれていた。
やはり気分は悪い。そりゃそうだが、こうも気持ちがいいものはない。
一通り見終わり、そろそろ時間もないので、行こうと思い、建物を出ようとした時に入口にいたおじいちゃん。
「ありがとうね」
今度は新聞から目を僕に向けて、笑顔で言ってくれた。
ありがとうね。その言葉がとても引っかかった。
今から64年前。
この場所は本当に荒れ果てた土地になり。
夢も希望もなく。絶望という事が常にあるような状態だったと思う。
しかし時は64年経ち、広島は復興を遂げた。
そこには広島に住んでいた人たち一人一人の力があったからだろう。
絶望の中から、なんとか希望の光を探し出し。
夢を持ち復興に時間をかけてきたに違いない。
でもこの広島は形だけの復興をしただけではなく、心の復興も遂げたのだと思う。
自分達の親・兄弟・子供が一瞬にして亡くなった「原爆」。
それを今も憎む人もいるであろう。
でも、それ以上に、同じ事を繰り返してはいけない。その気持ちを残し、伝えて来てるのではないのかと思う。
戦争はいけない。人は死んではいけない。
その気持ちを、自分達が身に沁みて感じた事を伝え続けてるのではないかと思う。
でもそれの感情にかるにはとてつもなく大変な葛藤があると思うし、それを今まで続けてきてる事はとても大変な事だと思う。
僕が17年前に思った憎しみは今はない。
過去に怒り、憎しむ。でも今のアメリカもまた違い、ましてやそこに住む人は一人一人違う。
それなのに憎んでも、怒っててもしかたない。
今は動くしかないんだ。一人でも多くの人に、僕が経験した事ではないが、僕たちと同じ日本に住んでいて、その国の犠牲になってしまった人たちの為にも、そんな人たちを増やさないように。
やるしかない。
そう思う、再上陸の広島でした。