虹の彼方

虹の彼方

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燃え盛る炎の中、

私は走り出した。

あの

笙の笛だけは。


私の

唯一の心の形見だけは。

跡形なく失いたくない。

だから
戻った。
大火の中に。

「お方様…

琴絵様。

宏生さまがお見舞いに
お見えになりました。」

侍女の、紗弥が
声をかけてくれる。

夢…か。
若き日のあの…


「琴絵様。 そのままで。
お顔の色も良く 安堵いたしました。
この分なら 春が来る頃には、必ずご本復なさるかと存じます。」

「宏生。
御用繁多の時期であろうに、
よく来てくれました。

ありがとう。

でも、自分の事は 自分が一番わかっているのですよ。

少し起こしてくれますか。」

宏生が ゆっくりと私の身体を起こしてくれる。

ああ…

よく似ておられること。

あの方の弟君である宏生と
最初に会った頃は 父君似と言われていた孝志殿とはそう似ていないかなと思っていたが
やはり似ている。
ふとした面影に

私が笙を教えていた頃の孝志殿と。

紗弥。と声を掛けると、

紗弥は、頷いて そっと部屋を出て。

私と宏生の二人にしてくれました。

「 宏生。
聞いてほしいことがある。

この、笙の笛は、
私が嫁いで来て二年後に
起きた大火の折に、屋敷に置き忘れたことに気づいて、取りに戻ったものです。」

「存じております。

亡くなられた ご夫君の大切にされていた笛を大火の中、 取りにお戻りになられた事、 誠に見事な妻の鑑 、と都中の評判となりました。」

「… 宏生。
この顔の火傷はその時のもの。

そんな事よりも

この笙は、

旦那様の大切な形見では
ないのですよ。」

「…何と仰せられました?…」

「…この笙は、
私が 或るお方に笙と和歌を
お教えしたときに使っていたものなのです。
私の… 唯一の 大切な心の形見…なのです。

だから、自分の命など
惜しくもない。
あの 笙と短冊だけは、
と 心よりも体が先に走っていた。

炎の熱よりも熱く

失いたくない一心で。」

「琴絵様…。」

「あの方は、
五歳下の あの方は
私の若き日の 唯一つの
想い出でしたから。

手を触れることさえない、
そっと視線を合わせるだけの想い。
ただ、笙を奏でている時

紛れもなく あの方と心を交わしたと感じていました。
和歌も、苦手とおっしゃっていましたが、私が嫁ぐ日の前に

若々しい言の葉をしたためて
祝の歌を詠んでくださった。

どれだけ、この身を恨んだ事か。

私が当時 嫁き遅れたと言われる二十歳まで婿も取らず 嫁にも行かなかったのは、

あの方…と できるなら少しでも長く 師弟関係であろうが時を過ごしていたかったから。

だから…」

「…琴絵様。
お体に障ります。
もう お休みになって下さい。」

「宏生…
そなたは、あの方によく似ている。

せめて、今宵だけでも。

…夢を見させて。」

「琴絵様…。」

今にも零れてしまいそうな熱を含んだ瞳に
吸い込まれそうで、

俺は、琴絵様の熱い身体をそっと抱きしめた。

触れた途端に心ごと掴まれるような、自分を刻み込みたくなる愛しさが湧き上がる。

都中で並ぶ者のない美貌と才を持たれた方として知られた琴絵様を、俺は静かにそっと遠くから見ているだけだった。

兄上が、若い頃、遠縁にあたる琴絵様に 柄にもなく短歌などを習っていた事も最近知った。

「宏生。 すまないが、永瀬にお住まいの琴絵様に、見舞いに行ってくれぬか。
最近 病に臥せっておられると聞いたので。」

「承知しました。
ですが、永瀬なら、そう遠くはないので、兄上が見舞われては。私は琴絵様とそれ程親しくしていたというわけではありませんし。」

「…そうしたいのだが、俺が行くと気を使われると思ってな。
頼んだよ。宏生。」

その時、兄上の瞳に少し翳りを感じたのと、義姉上が そっとその場を静かに立ち去ったことを覚えている。

そうして
永瀬にやってきたのだが、

琴絵様にお目にかかって

若き日と少しも変わらず
いや、さらに凄みを増してのお美しさに圧倒されて。
そして、痛々しい火傷の跡も。

気力を振り絞って話されるその想い人のことも。

そして、
この腕に抱いた
あまりに儚くも
虜にさせる甘い微毒を
含んだような、しっとりとした肌も。
離したくなくなるその身体全てを

全身全霊で愛して
何度となく果てても
さらに挑み続けて
気がつけば
明け方近くなっていた。

幾度となく絡みついてくる
身体を離し難くて
そっと涙に光る頬に口づける。

「…たかし様…」

微かな、聞こえるかどうかの声を
解っていたが聞こえないように再び抱きしめて

朝を迎えて。
意識を手放された琴絵様の
姿をこの目に焼き付けて

屋敷を出た。


何日か後に
琴絵様が
この世を去られたと
お聞きして。

兄上と 会うことがあった。

「宏生。
俺は、まだ少年の頃、
琴絵様に笙の笛と和歌を
教えていただいた。」

「はい。」

「少年だった俺の目にも
まるで天から降りてこられたかのような眩しい御方だった。
無骨者で、雅などというものには まるで縁遠かった俺に
心をこめて、笛を教えてくれて。言の葉の使い方を教えてくれた。
少しでもあの方に近づきたいと、がむしゃらに勉強した。

そして、
琴絵様が 名士であられる勝村殿に嫁いでいかれる事を知って

その少し前に 全ての想いを和歌にこめて
拙い文字だが贈った。

琴絵様は、
その、短冊を
まるで宝物のように
抱きしめて、

「孝志様。
ありがとう存じます。

生涯 大切に致します。

孝志様も どうかお幸せに。」

そう言われた。

まるで 自分が幸せになるのではないような(不遜ながら)感じをお受けした。

その夜は

なぜか眠れず
屋敷を抜け出して
星を見ていた。

宏生。
俺は、あの方…琴絵様が
好きだった。

今ならわかる。

あの方に恋をしていたことを。」

兄上…

琴絵様もずっと兄上を忘れずに…。 その言葉を飲み込んで。
永遠に封じる言葉だと解っている。
だからこそ、あの夜に
全てを燃やし尽くして
琴絵様は
先に世を去られた。

できるなら、
あの世とやらで

この想いを伝えることが
できるならばな。
いつか。

そう想いを押し込めて

兄上と
冴え渡る月を眺めて
いた

睦月の夜。