≪小説で味わう≫
彼は多くを語らなかった。ひとりの料理人として、素材の持ち味を引き出そうと真摯に料理と向き合っ
ていた。「芸術家よ、形作れ。語るなかれ」というゲーテの言葉を自分への勧告と捉えたかのように。そ
の姿は時として、鍛冶職人が圧倒的な切れ味と極限の輝きを求めて刀を研磨するさまを思い起こさせ
た。
彼は中学を卒業後すぐに料理人となった。地味な印象で口数が少ないため、個性がないと言われる
こともあった。人付き合いが得意でなかったため、うまく人間関係を構築することができなかった。どの
店も長続きせず、料理屋を転々としていた。
私の母が女将として一代で築いた「割烹 真(しん)」に彼が料理人として来たのは30年ほど前である。
「真」という店名は真紀枝という母の名前からとった。歴史は浅いが、銀座では名の知れた店だった。当
初は彼とのコミュニケーションに苦労していたようだったが、母は彼の性格を理解し受け入れていった。
そして、実直で仕事にひたむきな彼に全幅の信頼をよせていた。対する彼は女将に、畏敬の念とでも
いうべき特別な思いを抱いていたのではないだろうか。座敷で正座する以外、女将の前で決して腰を
下ろさなかったのも、そのような気持ちの表れだったのかもしれない。いつしか二人の間には、女将と
料理人としての絶対的な信頼関係ができあがっていた。他の者が入り込む余地がないほどの。
それは4ヶ月前の3月だった。麗らかな日の午後、母が癌を患って亡くなった。進行が早く、見つかっ
てから2ヶ月足らずのことだった。葬儀の日、彼は女将の遺影を見つめ立ち続けていた。座ろうとはし
なかった。座って休むよう勧めると、彼は言った。
「いえ、私は今も「真」の人間ですから」
葬儀の後、彼と話す時間を設けた。
「母は生前、よく内藤さんのことを話していました。母はこう言っていました。『内藤さんに来てもらって本
当によかったわ。今のお店は彼に支えられているのよ。彼ほど誠実で嘘のない人はなかなかいないわ
よ。あなたはお店を継ぐつもりはないみたいだし、内藤さんがいてくれる間は続けるけど、内藤さんがも
し辞めるって言ったらお店もたたむことにするわ』と」
彼は、こみ上げる感情を必死で抑えようとしている様子だったが、目からこぼれる涙は止められなかっ
た。
「私は一人息子ですが、42歳にもなって結婚もせず独り身です。カメラマンとして独り立ちはしています
が、好きなことをやって家業を継ぐ気もない、親不孝な息子です。内藤さん・・・・・よろしければお店を、
「真」をあなたにお譲りしたいと思っています。考えていただけませんか?」
自分の気持ちを口に出すことのなかった彼だったが、そのとき初めて率直に心の内を話してくれた。
彼は女将を思い出すように、しばらく床の一点を見つめていた。そして、こう言った。
「私は女将さんに救っていただきました。感謝に堪えません。この30年、女将さんのご恩に報いるため
に料理を作ってまいりました。女将さんが切り盛りする店を支えたい一心で仕事をしてきました。たとえ
自分の店であっても、それ以外の店で料理を作る考えはありません。お気持ちだけありがたく頂戴いた
します。」
彼はそう言って、深々と頭を下げた。そして、穏やかな表情で静かにこう続けた。
「妻といっしょになってから、好きな旅行にもまともに連れて行ってやれませんでした。引退して、妻をい
ろんなところへ連れて行ってやろうと思います」
彼は、自己主張をしない。自分以外の誰かに輝きを与えるために、彼は存在している。それは、他の
誰にも真似することのできない素晴らしい個性であると私は思う。
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〈あとがき〉
酒自身が味を主張するのではなく、食材を引き立てる役に徹している。そんな印象を、料理人の内藤
を通して表現しました。単体で強い個性を出す酒もあるが、食材と合わさったときに真価を発揮する酒
もある、ということをあらためて気付かされました。
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≪データで味わう≫
蔵元 : 株式会社水戸部酒造
山形県天童市原町乙7番地
(備考) 1898(明治31)年に初代水戸部弥作により創業された。7人の蔵人により手造りで年500石の
酒を醸している。その全量を100年以上使用する木槽(きぶね)で、手間を惜しまず上槽している。
現在5代目の水戸部朝信(とものぶ)さんが目指す酒は、「豊かな米の味わいと銘刀正宗の切れ」を
併せ持った酒のようだ。
原料米 : 出羽燦々
仕込み水 : 立谷川(たちやがわ)の伏流水(硬水)
精米歩合 : 55%
アルコール度 : 16度
日本酒度 : +7
酸度 : 1.4
製造年月 : 26.6
容量 : 720ml
〈My Feeling〉
色 : ほのかに黄色がかっている
香り : 果物系の甘い香り
味 : 口当たりはさらっとしている。酸味が強めで、甘味はほとんど感じない。余韻は長めで酸味が
強く舌に残る。香りは甘いが、口に含むと甘味を感じないギャップがある。
温度 : ○冷
燗をつけると後味の切れは増すように感じるが、私には辛さが強くなりすぎる。



