榊邦彦 OFFICIAL BLOG new

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けれど一方で、言葉や愛がまったく立ち向かうことのできない不安や困難も、
また、存在しないのではないか……僕は、今そう思っている。
『100万分の1の恋人』榊邦彦(新潮社)

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名前のことでは、養母とは、こんな思い出がある。

 

二男が生まれたときのことだ。養母は、

「『星彦』なんていいんじゃない」

と僕に告げた。それをたまたま横で聞いていた祖母が、小さな声で、

「『彦』はもういいよ」

とつぶやいた。僕には聞こえたが、養母にもきっと聞こえたことだろう。

(僕の父親は「彦」が付いている。)

 

ひどく暗い一言だったが、養母は聞こえなかったふりをした。

「星彦がいい、星彦がいい」

とはしゃいでいたが、僕は、もともと、自分の名前の一部を息子達に繋げるという発想をしていたなかったので、

「いや、『輝』の文字が好きだから、長男と同じように『輝』を付ける。……星にも通じるよ」

と伝えた。

「まあ、あんた達の子供なんだから、あんたたちが好きな名前を付けなさい」

と母は少しだけすねた振りで、その話を終わった。

養母の葬儀関係では、もう一つ悩んだことがある。

 

会葬礼状ほか、さまざまなところに、神田孝子(芸名 神田都美井)と記すか、神田都美井(本名 神田孝子)と記すか、

どちらにするかということだ。

 

生母のときには、迷うことなく、アキコ・カンダ(神田正子)とした。

ほとんどの会葬者の方々にとって、彼女は「アキコ」であった。そして、それは、息子の僕にとっても同じである。

本名の「神田正子」として認識したことはほとんどなく、常に彼女は「アキコ」であった。

 

しかし、養母は僕にとっては、「孝子」であった。「カカ」であった。

少し成長してからは、「トミさん」などと呼ぶこともあったが、それは「アッコ」とのバランスの産物の渾名でもあって、やはり、彼女は「孝子」であった。

 

ただ、参列者のほとんどの方にとって、彼女は筝曲界・邦楽界の「神田都美井」であろう。

 

神田孝子(芸名 神田都美井)なのか、神田都美井(本名 神田孝子)なのか。

 

「家族の思いを重んじるのか、参列者の思いを優先するのか」という発想で悩んだのではない。

母はどちらの名前で見送られたいのか、旅立ちたいのか、、、それが最も気になった。

 

悩みに悩んだ末、僕は、母の思いを優先することにした。

母の思いとは、最終的には、いつも自分のことより、僕や家族のことを優先してくれた、その生き方である。

 

渾身の感謝を込めて、「神田孝子(神田都美井)」として、見送ることにした。

 

生きていたら、

「あなたは、ほんと、いつもメンドクサイこと悩むわね」

と笑い飛ばしたような気がする。

 

最近では、コロナ禍の名残もあり、密葬という形の「家族葬」も多くなっている。

僕も、「故人を知らない人が会葬するのには、あまり意味がないのでは」とドライな感情を抱いたこともこともある。

遺族の悲しみを癒やすために出向くのは分かるとしても、故人にとっては、どんな意味があるのだろう。家族との最後の時に、「世俗の義理」のようなものが混在してしまうような気さえした。

 

今回、養母を送るにあたり、どの範囲の方々に声をかけるか。

筝曲関係の方等、生前の養母と深いお付き合いのある皆さんには、最後のお別れの場としてお声をかけるにしても、僕の仕事関係など、生前の母と面識のない方にはどの程度声をかけるのか。

 

悩むうちに、僕を包んだ感覚があった。

「今の僕を支えてくれている人を母に見てほしい」

という思いだ。

 

以前、息子の結婚式に出席したとき、息子が大勢の友人に囲まれ、祝福されている様子を見て、大変有難く、嬉しく思ったのを覚えている。自分の知らないところで、しっかりと人間関係を作っているのを知って、

「あ、こいつは大丈夫だな」

と思った。

 

養母は、今、僕を支えてくれている人たちを見て、安心してくれただろうか。

「この人のお蔭であの本が出来たんだよ」

「この人は職場の大切な仲間だよ」

「この人は長年の小説仲間だよ」

「この人は……」

「この人は……」

「この人は……」

 

喪主席で皆さんに頭をたれながら、母に伝え続けた。

高校生の頃、ご多分に漏れず、僕の自室はゴミ貯めのようであった。

 

「掃除しなさい」

など、母親からの小言も、どこの家庭とも同じ。

 

虫が湧く前には、ぼちぼちとは片付けていたものの、あるとき、母が、

 

「あなた、この子、好きだったよね」

 

とこんなものを買ってきた。

 

 

当時(実は今でも)、大ファンの薬師丸ひろ子さんのプリントされたゴミ箱。

 

母は、僕のガールフレンドから、電話(当時は家電)がかかってきても、気持ちよく取り次いでくれるようなタイプではなかったから(これもご多分に漏れずではある)、まさか、アイドルの女の子のゴミ箱を買ってくるなんて、そんなオツなことをするとは意外だった。

 

なんだかこそばゆくも、嬉しかったのを覚えている。

 

薬師丸ひろ子さんのゴミ箱が導入されたおかげで、僕の部屋が抜本的にきれいになったかどうかはともかく、ゴミ箱そのものはとても大切な存在となった。

 

あれから40年以上も経ったが、このゴミ箱は、いまだに自室で愛用している。

 

薬師丸ひろ子さんの思い出というより、母の思い出のゴミ箱として。

生母とは、何度か一緒に仕事をしたことがあった。

 

彼女の踊るダンスに、「詩」を添えて、パンフレットに載せる。

シナリオでもなく、説明でもなく、イメージの広がる「詩」。

 

生母とはそのようなコラボレーションが出来ていたので、養母の筝曲にも、何か「自分の分野」からお手伝いすることがあれば、、、そんな思いは秘かに抱いていた。勿論、言葉に出して言うことはなかったけれど。

 

養母が晩年に、近所の舞台で出演していた小さな会があった。

一度、見に行ったことがあったのだが、終わった日の晩、養母の部屋に遊びにいくと、

「司会・解説の方が高齢でそろそろ引退したがっている」という話になった。

「ふーん」と聞き流していたのだが、突然、

「そうだ、あなた、古典が専門なんだから、解説できるんじゃない。教員だから人前でしゃべるのも大丈夫でしょう」

と声をかけられた。

 

確かに、古曲の多くは、『源氏物語』や『平家物語』など、古典に材を取っている。謳われる歌詞も、古語の説明が入れば、より分かり易くなるだろう。(パンピーズのライブで、何十年とMCもやってきたから、授業というより、イベントの司会のようなものも、いけそうな気がした)

 

「演奏会への古典解説アシスト」

……内心で抱いていた、「養母の仕事に『自分の分野』でお手伝いする」という恰好の機会でもあった。

「うーん」

と、悩む振りを数秒だけして、「いいよ」と答えた。

 

全体の進行をスムーズに。

僕のお話は、短く、しかし「発見」のあるように。

これから聞く三曲の調べがより魅力的なものになるように。

 

そんな感じで、言葉を添える役目を心がけたが、、、、どうやら合格点をもらえたようで、それから、数年間、母が引退するまで、毎年の演奏会の司会を担当することとなった。

 

「アッコにしたことと同じくらい、もしくはそれ以上の、得意分野からのお手伝い」が出来た、、、、としたら、とても嬉しい。