​佐久博士と半田さんの対話
​佐久博士(以下、佐久): 前回、我々は「《形而上学》は人間の行なうところのあるものであり、そしてその形而上学的営為は、人間がその状況のなかで根源的方向づけを求めることからなる」と定義しました。この定義は、人間の本質、つまりその真の存在が、構成上根本的に混迷していることを示唆します。
​半田さん(以下、半田): 「人間は方向づけられている」のではなく、「人間が根本的に混迷している」ということが本質だ、という指摘ですね。でも、博士。私たちは日々の生活で、自分が完全に迷っているとは感じていません。むしろ、だいたい方向づけられていると感じています。
​佐久: その通り。オルテガもそれを予期し、「たぶんわたしがたぶん、としかいっていないことに留意されたい」と留保しつつ、こう問いかけます。我々が通常「方向づけられている」と呼ぶ状態、つまり「モノが何であるかを知っている」という知識、それが真の方向づけなのでしょうか?
​方向づけと知の根源性
​佐久: 伝統的に哲学は、存在論(存在についての理論)や認識論(知についての理論)を基本としてきました。しかし、オルテガは、哲学がこれまで「存在とは何か」や「知とは何か」という根源的な問いを、前提として不問に付してきたと批判します。
​知とか認識の伝統的観念は、主観がモノの存在を知的に所有することでしかないからだ。もしわたしが存在とは何かということを知らなければ、モノの何であるかを真に究明することはほとんど不可能である。
​佐久: 哲学は水平方向ではなく、「深みの次元において進歩」し、それまで問題とされなかったことを問題にすることから、さらに深い層へと進むべきだ、と彼は主張します。ここで重要なのは、「方向づけの観念は、知の観念よりもずっと根源的で、ずっと深く、それに先行するもの」だということです。方向づけは知によって明らかにされるのではなく、知こそが一つの方向づけなのです。
​半田: つまり、「知っている」という状態は、すでに方向を見つけようとする営為の結果であって、その営為そのものではない、ということですね。
​真の方向づけと虚偽の方向づけ
​佐久: さて、ほとんどの人は、自分が「だいたい方向づけられている」と感じています。では、この「方向づけ」にはどのような様式があるのでしょうか。オルテガは、二つの様式を提示します。
​一つは、真の方向づけです。
​方向づけが実質的なものであり、そこにおいてあるものがわれわれ各人に、それぞれの人自身に、実際に明白である。しかしこの様式はつねに仮借なく、それに先立つ迷い、それ以前ではわれわれに明白でなかったということを想定する。
​佐久: 真に確信を得るためには、問題とし、迷い、混迷することが不可欠です。2 + 2 = 4 が本当に真実であると確信するためには、一度それを疑問視し、自らの識闘によって納得する必要があります。このとき、あなたは一時的に方向を見失い、混迷していたのです。
​半田: 迷いから生じた確信こそが、真実、自分自身に明白であるものなのですね。では、普段私たちが抱いている「方向づけられている」という感覚は?
​佐久: それが、もう一つの様式、虚偽の方向づけです。
​他方では、方向づけは虚偽のものであり、納得しているのは各人本人でなく、社会環境からわれわれにもたらされ、われわれの実質的人格を追放し、居座り、われわれのなかで活動する擬似的自我である。
​佐久: 例えば、「2 + 2 = 4」という確信を、ただ社会環境から受け取ったにすぎず、自分自身で問題にしたことがない場合です。あなたは「ほかの人たちがその確信をもっているという確信をもっている」にすぎない。これは実効性のない、虚偽の明白さであり、あなた自身の実質的人格を追放し、慣習的な人格として振る舞っているのです。
​半田: 「あたかもそれが自分に明白であるかのように装っている」という表現が心に刺さります。私たちのほとんどの行為は、この虚偽の方向づけによって営まれているかもしれない。
​佐久: その通り。この虚偽の方向づけは、我々が「まさしくその根底において、究極の真実性において、根本的に方向を見失っている、途方にくれている」という予感から逃れるために、常識や噂のうちに安住し、他人の確信によりかかろうとする姿勢から生まれます。
​生とは何か:明証的な実在
​佐久: 次に、この真の方向づけの必要性を理解するために、我々の生そのものの本質に目を向けましょう。生とは何なのか?
​学問的にそれほどまでに放置されてきたその実在は、まごうかたなく明瞭に、それが各人にとって一切、(中略)それ以外の全実在を包摂しているという、恐るべき、身の毛のよだつような条件を備えているのである。
​佐久: 生は、学問や宗教を含む一切に先立つ、最も身近な実在です。オルテガは、「どこかで覚えた知恵を思い出そうとなどしないでいただきたい」と促し、生とは「われわれがあるところのも、われわれが行なうところのもの」だとシンプルに定義します。
​半田: 生とは、単なる過去や未来ではなく、純然たる現在性であり、いまこの瞬間に私が博士の話に耳を傾けている行為そのものだ、と。
​佐久: その通り。最初の定義は、「生とは、かれかれが行ない、なおかつ、かれかれにおこること、である」。我々は、この生の属性を、最も外側から内側の、脈打つ中心へと順に見ていきます。
​生の第一の属性:明証性としての自己了解
​佐久: 我々が気づく最初の決定的属性は、「生きるとは、自分自身にたいし存在するという特権をもつところの、奇妙で比類ないその実在である」ということです。
​半田: 自分を生きること、自分が生きていると感じること、自分が実存していると知ること、ですね。
​佐久: まさに。石は自分を感じないが、我々は自分自身に気づき、自己了解する。この「自己を知ること」こそが、生きることを他のすべてから区別するのです。
​それは、われわれが自分自身についても、また周囲世界についても行なうところを、間断なく発見することである。
​佐久: 我々が自分の生を所有していると言えるのは、それが存在していることに加えて、それが存在し、それがどういう有様であるかに自分で気づくからです。この原初的な顕現を失った状態、狂人の生は、もはやその人のものでなく、生ではない。狂人は自己を知らないため、自分を剥奪されている。この自己了解の明証性こそが、生が成り立つところの根源なのです。
​生の第二の属性:世界との共存
​佐久: 生は、自己を知ると同時に、世界を発見することでもあります。ここでいう世界とは、単に物体がある空間ではありません。
​世界とは、厳密な意味でSense Stricto、われわれに影響をあたえるものである。そして生きるとは、各人が自己を、自分が影響をうけるテーマとか事柄の領域のうちに見出すことである。
​佐久: 世界とは、我々に利害をもち、優しかったり、われわれを脅かしたり、苦しめたりするもの、つまり、我々に不都合であるか好都合であるかするあるものから成り立っています。生きるとは、自分でないほかのものとかかわることであり、共存することです。
​半田: 人格と世界は「一緒に生まれ死ぬところの、古代ギリシャ・ローマの双子神、ディオスクーロイ」のようなものだと。
​佐久: ええ。我々は世界とともにあり、そのいずれかが他より身近ということはありません。生きるとは、「たちまちにして、まさにその根源において、自分が世界をまえにしている、世界と相対している、世界のなかにいる」ことなのです。
​生の第三の属性:予見不能な問題としての生
​佐久: ここで、生の劇的相貌が明らかになります。我々は、いまの世界にいるかどうかという自由は、われわれの掌中にはない。
​突如、またどうしてかもわからず、取り替えのきかない世界、いまの世界に落下し、沈没し、投げこまれている自分を見出すことである。
​佐久: 生は、事前に同意もなく、予見もされていない世界にいる、難破者として生きるという、永遠の驚きとして開始される。まるで、眠っている間に劇場の舞台裏へ連れて行かれ、突然フットライトを浴びせられたようなものです。
​半田: その基本線において、生とはいつだって予見されないものである、というわけですね。
​佐久: しかも、その投げこまれた状況を解決することが、我々に求められます。生は我々に与えられている(投げかけられている)が、それは我々が解決する必要のある問題なのです。この問題解決の不可避性が、生の本質を構成します。
​生とは自分自身の問題を解決するという。とぎれることのない不可避性から構成されている。
​生の第四の属性:未来を決断すること
​佐久: そして、我々は、自分がなろうとしていることを決定するようにしいられていると感じています。銃から発射される弾丸とは違い、我々の生はあらかじめ決定されてはいない。
​われわれはどれほど明白に明日自分におこることについて確信をもっていようとも、われわれはそれをつねに一つの可能性としてながめるのである。
​佐久: 生とは、いつの瞬間においても解決済みの問題ではなく、種々の可能性のうちから選択すべくしいられているのです。
​われわれの生は、われわれの存在である。われわれは生があるところのものであり、それでしかない。しかしその存在は、まえもって決められても、あらかじめ解決されてもおらず、かえってわれわれ自身がそれを決定する必要があり、われわれは自分がなろうとするもの(中略)を決定しなければならない。
​佐久: われわれは自分自身を宙づりにしておく、自分の存在を支えるという重荷を負っています。この重荷こそが、しばしば「悲嘆にくれる」とか「重大な状況にある」といった比喩として、我々の内面に転移される重さなのです。
​佐久: 最終的に、我々は生の深奥で、次の結論に到達します。
​生きるということがこれからわれわれのなろうとするところのものを決定すべく自分がしいられていると感じることとして出現する。
​半田: 現にあるところよりも、これからなるところのもの、したがってまだなっていないところからなる存在、それが我々の生だという、途方もない逆説ですね。
​佐久: 重要なのは、この「決断」は、大きな出来事だけでなく、講義中に「注意深く聞くか、気をそらすか」という、刻刻の行為のなかで絶えず行われているということです。そして、この決断の営為が意味することは、
​われわれの生がこれからわれわれがなろうとしていることを決意することからなるならば、それはわれわれの生の根本そのものにおいて、時間的属性、すなわちわれわれがなろうとするところ、未来を決断するということがあるということを意味する。
​佐久: 我々の生は、何にもまして、未来と遭遇することです。生は前方に向けて執行される活動であり、現在と過去は、未来との関係から後に発見されるものなのです。形而上学とは、この根本的に混迷し、未来を決断することをしいられている生に、真の方向づけを与える営為として、我々の前に立ち現れてくるのです。