福岡に戻ったとはいえ、入学式には出ない上、1ヵ月以上もの間、学校を休んでいたのだからそれなりの処遇が待っていると覚悟はしていたが、なんと除籍処分だった。ちなみにHSは元来まじめであり、運動能力はもちろん、彼の文武両道を大切にする精神や能力はやはり余人をもって代えがたいものがあったのだろう、高校に戻れた。
一方の私は半年ほどプラプラした。当然と言えば当然だが、そんな姿を叔母が恥ずかしいと思っていたらしく、コネで西鉄(西日本鉄道)を紹介してくれた。正直、やる気はなかった。面接で唯一まともに答えられたのは「君、何できる?」という質問に、「厨房でバイトしていたことがある」くらい。しかしそれがある意味、運命の一言となった。叔母のコネも強かったのだろう。私は、西鉄の子会社で飲食店経営に関わる西鉄プラザに正社員として採用され、すぐに飲食店の調理場に入り、“小僧”として皿洗いから仕事をスタートすることになった。店舗は博多駅前の三井ビル内に開店したばかりの割烹・炉端焼きで、お客様の目の前で焼きながら出すのがウリだった。
正社員になったからといって、この頃はまだ、特別気合を入れて仕事に向き合おうとしたわけではない。母をこれ以上悲しませるのは忍びなく、父にも安心してもらいたかった。もちろん叔母への義理も感じていたので、とりあえず1年くらいは続けてみようと思った。とはいえ、この世界は厳しい。西新(早良区)の寮から福岡駅前まで、朝7時には出勤し、夜は12時まで働く日々が続いた。
働き始めた当初はとにかく言われるがままに突っ走った。そうしている間に料理長が辞め、次の料理長が来た。と思ったらその料理長も2~3週間で辞めてしまった。そして3人目も。およそ3ヵ月の間に料理長は4人も変わった。小僧の私にはわけがわからなかったが、そんなペースで「あがり」が続いたわけだ。
この「あがり」、料理長だけが辞めるのならまだしも、場合によっては同じ厨房で働く自分の弟子まで連れていってしまうからたちが悪い。何度目の「あがり」だったろうかは定かでないが、あの3ヵ月の中で1度、私だけが一人で厨房に置き去りにされてしまう事態が起きた。
「はい、これで終わり」である。店員さんは、別の料理人が来て対応してくれるはずですから大丈夫ですよと言わんばかりに、いつも通り店をオープンさせる。わけがわからない状況でも「これはまずい」ということは本能的に理解できた。
そして、お客さまが入ってきた。私はまだ一人。しかも料理人としての修行を始めて3ヵ月も経っていない小僧である。ただ、何とかしなければならないと思ったときには不思議と度胸がすわるものである。心の半分で、誰でもいいから料理のできる人が早く来てくれと叫びながらも、無我夢中で小鉢を作り、お客さまに出した。
このとき私を助けてくれたのは店員さんだった。自分で勝手にタルタルソースを足してみたりしながら作った料理の味見をしてもらったり、アドバイスしてもらったりしたことで、危機を切り抜けることができたのだ。仕事というものの責任の重さは、実は上の人間からというよりも、こういう場面の積み重ねから教えられるのかもしれない。
私はこの時まだ17歳。自分だけで小鉢を作ることには恐ろしさもあったが、わくわく感もあった。同時にお客さまに喜んでもらわなければと、無意識に自分なりの工夫を試みていた。たかが小鉢、されど小鉢。さまざまな意識が錯綜するなかで、全力投球を強いられる環境に身を置かれたことで、プロの厳しさ、仲間の協力の大切さ、そして自分の甘さを少しだけ知る機会をもらったような気がする。実際にはまだまだ甘かったわけだが…。
