一昨年の夏ゼミで戦争のインタビューをして、そこから書いた原稿、
今年に入ってから送って、その返事、感想が今日届いて、「私は正直、感動しました。」と書いてあった。メールを読んで、とっても、ほっとしてしまったよ。
ふるえる手でこわごわ描いたあの夏の戦争。
せんそうはわるいことです、って結論で簡単に言えないこの年齢で戦争について考えて搾り出して、ふと就活を機にシビアに振り返ったら、こうして話を聞いたことも人の過去の傷をえぐり去っただけで相手に何かをもたらすことができたんだろうか、なんの意味もないんじゃないかって、これを機に私が学んだことは沢山あってもそれが自己完結以上の意味を持つのかなって、考えるのがこわくもあった。だけれど今は違う。間違ってなんかなかったって、それは確かな希望になった。
あの夏の日、おじいさんとわたし、小さな部屋での小さなおはなし。
人におはなしを聞くだけだと二人だけの世界。
おはなしを聞いて感じて、話し手も話し手自身反芻して、こころふるえる。
そこから、話を噛み砕いて飲み込んで吐き出すその一連の作業。
目に見える言葉は時間も場所も超越して、もしかしたら誰かの世界を揺らすかもしれない。
全てのものごと、アウトプットって大事なことだと最近よく思う。
聞くこと感じることとても簡単、だけど自分の言葉で言うのってとってもくるしいことでもある。それでもちゃんと言えるのは人間だけで、そこから繋がって伝わっていくのも人間だけなんだよ。
インターネットが発達して情報量が飛躍的に増えて、何かの拍子に偶然に出逢う率が増えた今だからこそ、たまたま、偶然、めぐりめぐって誰かの心をふるわすことが出来たら、それは私が確かめることができなくても、すごく素敵なことだなって思うのです。
もしも偶然、ここを見て、もしも偶然、自分の進む道に悩んでいて、むなしい気持ちにさえなっているのだとしたら、覚えていて欲しい、どこかにちゃんと届いている人がいるってこと。迷いながら間違いながらも、今まで自分が選んできた、一本一本、それは絶対、意味がないわけがない。その中で感じたものをなかったことにしないことこそがずっとずっと大事なんじゃないかなって、ゼミを終わって、私は思うよ。上から目線でいっちゃったね。
たった一人、文章でも映像でも音楽でも写真でもなんらかの表現で、震える手で、あるいは堂々と、想いを発信することができたなら、無数にある、やわらかくて今にも千切れそうな細い細い網目状の琴線を、小さな一人の想いがふるふる散っていって、誰も知らない、思わぬところで共振しているかもしれない。たぶん、そういうたくさんの営みの連続。ふわふわと考えてみると今日の少し冷たいこの風もどこかやさしげで、色んなことがうまく廻って、もっともっと響いて、良い風がふいていけばいいなあって、あたたかなきもちでにやにやしてしまったのです。