前回、本能寺の変で信長が死んでいないかもしれない。
そんな奇想天外なことをお伝えしました。
そして、謀反をした明智光秀。
実は、光秀も死んでない説がある人物です。
豊臣秀吉との山崎の戦いで敗れた光秀。
実は、光秀は秀吉に討たれたのではなく、
一揆集である土民に殺されたと言われています。
当時は首検知を言われ、首を切られ、その首を見て、
どいつが死んだかを確認していたようなのです。
死んだ顔を見て、誰だか本当にわかるのは不明です。
光秀の身代わりの人の可能性だってあります。
真実はわからないですけど、
光秀が生きている説が2つありますので、紹介します。
1つは、
信長と一緒にローマに行った。
信長と光秀はグルで、日本海の港で待ち合わせをして、
2人にローマへ渡ったと言う説です。
ローマで、信長に似た人の肖像画がある話しをしましたが、
光秀に似た人はの話しは知らないです。
2人仲いいじゃんって話しですね。
2つ目は、天海と名乗り、徳川家康に江戸の町づくりを助言していた。
天海が明智光秀かは一旦置いといても
天海と言う人が風水などに詳しく、
江戸の町づくりに大きな影響を果たしたことは知られています。
徳川家康と明智光秀もつながりが深いんですね。
光秀は信長より年上なので、家康とも結構年齢が離れています。
なので、光秀が天海であれば、
100歳くらいまで生きたことになります。
家康の70代でもかなり長いのに、
当時で100歳なので、現実味はないですね。
実は、当時でも100歳まで
生きていた人もいた話しも聞いたこともあるので、
100%ないとも言えないです。
1つ目と2つ目両方の可能性だってあります。
本能寺の変から江戸幕府まで20年ほどあるので、
当時の技術でも余裕で行き来できますね。
このように、信長同様、光秀も生きてる説があります。
本能寺変は妄想を膨らますと、
めっちゃおもしろい展開が見えてきます。
次回あたりは、秀吉についても紹介しようかと思います。
秀吉は本能寺の変を知っていたような感じあるからです。