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サイカチのブログ

名前の由来は、奥州 ( 戦時中に疎開していた故郷 )に伝わる「サイカチ伝説」から命名しました。

画像には、10代後半から30代前半にかけて行っていた弓道のイラストを用いました。

私の干支は、昇竜です。

令和2年の幕開け

 

令和2年の幕開けは 底辺からの出発である。

どん底で無い事が、ある意味救いであるが・・・

 

   なんとなれば 

  1、昨年末 下腹部に違和感を感じたので 当市の医療相談センターに電話したところ 「それは **外科の分野です」 と云われ 市内の医院を紹介してくれた。

  2、 紹介された医院に行くと 「これは 注射とか投薬では治りません。 早急に総合病院に行きなさい」 と云われ 紹介状を書いてくれた。

 

 

 

 

 

 

  3、 紹介された総合病院に行くと 「サイカチさんは 80才未満ですね」 と云い 手術日を予約してくれた。 ・・・ 80才以上は 手術をしないのかな?

  4、 そこで 手術の段取りになり 翌日から 術前の精密検査が行われた。

  5、 結果 現状のまま手術を行うと 手術中に 「***」 の危険があるので 「****外科で診察を受けなさい」 と云われ 日赤への紹介状を書いてくれた。

 

 

 

 

 

  6、 年が明け 指定された日に日赤に行くと 手術前の説明があり この中で 「歯科検診を受けなさい」 との指示があり ここでも紹介状を書いてくれた。

 

  7、 歯科医院でも受診結果の手紙を頂き これを 日赤の 「****外科」 に提出した。

  8、 術前検査の結果が出そろい 1週間後の手術日が決定し 前日入院する事になった。

  9、 入院当日 手術内容の詳細な説明があり、

病名は 「大動脈弁**症」 である事 手術には 3種類あり この中で 「カレーテルによる***と***置換術」 を行う事になった。

  10、 さらに 手術中の危険率(**率)は *% 入院中の危険率 *% といわれた。

最近では 危険率まで告知するようである。

 

 

 

 

 

   11、 手術は 全身麻酔後 首筋2本を含め 合計7本 (8本だったかも) の管を挿入し、カメラを見ながら 行われたらしい。

  12、 手術は1~2時間で終了 気付いたら 多くの人が 私の顔を覗いていた。

   13、 術後は安静にするよう言われたが ただ寝ているだけでは 回復が遅れると思い 私は看護師に隠れて 病室のある階を歩いた。

    14、 少し歩いていると 看護師がとんできて 病室に戻りなさいと云う。

  それは 胸に取り付けた 心電図計が常に体調を管理しており 本人に自覚がなくとも 異常があれば 即座にナース ステーションで警報が出るようになっているらしい。 

 

 

 

  15、 術後は定期時間毎に薬が処方され 服飲するのだが 閉口するのは その前後に 名前と生年月日が確認され 検温と心電図を計測される事である。

  16、 それはリハビリ前後にも行われ 時には 平行して レントゲン と エコー撮影があった。

 

 

 

  17、 術後 3日目から リハビリが始まった。

初日は椅子に30分座る事 翌日は10m歩行する事 次に50m歩行 100m歩行 200m歩行と続くのだが 私は 「この後は自宅でします」 と云って無理やり 退院する事にした。

  18、 通常は 術後 10日~2週間かけて 退院出来る体力にするそうだが 私は主治医にも 懇願し予定より 1週間程早く退院した。

 

 

  

 退院後の経過は順調で、 まだ外出は出来ない状態だが、 令和2年は底辺からの出発である。

 

 退院して 数日後 我が家を建てる時 尽力してくれた友人が 「リンゴを一箱」 持って訪ねて来た。

 聞くところによると 突然 私に食べさせたくなったそうで 今回は 「だめかも知れない」 と思っていただけに 「感謝」 と 「涙」 とを合わせ頂いた。

 

今回も 私の居間 (書斎・寝室・物置兼務) にある花瓶の花を各段落に用いて 雑感を記載した。

 

それでは また 

 

 

本文は10日間提示したら削除する予定です。

 

 

春まだ浅く

 

今回は 岩手県に旅行した時に撮った写真を掲載 (一部 NET より引用) しながら 「その時の思いで」 を述べてゆきたいと思います。

 

 

 


岩木山

 

 

確か 30?年前 東北新幹線に乗り 盛岡駅で下車して 山田線経由で釜石市に帰省しようとした時 花巻駅付近で転寝してしまい 気が付いたら 青森駅だった事があります。

当時は 新幹線の発着便数が少なく 盛岡駅に戻るには 1時間位 待ち時間がありました。

仕方なく 近隣を散策する事にしました。

 

その時 目の前に現れたのが岩木山でした。

岩木山は 別名 「津軽富士」 と云われ 当時 富士山を見た事のない私は 「大興奮」 だった事を思い出します。

 

 

その時から 25?年後 

法事で帰省した時 T君に逢いたくなり 盛岡市に立ち寄った事があります。 

T君は 盛岡市の近郊に住んでいる同級生に声をかけ 「ミニ同窓会」 を開いてくれました。

同級生とは 25年ぶりの再会でしたが 共に 中学生の頃に戻り 楽しい一時を過ごしました。

昼食は 「盛岡冷麺」 を 皆で 「ワイワイ」 云いながら食べましたが その美味しさは格別でした。

 

 

 

岩手県庁前の石割桜

 

 

盛岡近隣の案内は 既に紹介した 小学校5年生以来の友人である T君に依頼しました。

T君は 頭も良くスポーツも万能だったので 私の羨望の対象でした。

残念ながら 5年生の時 足の病気で 手術を繰り返し 結局10日程しか登校出来ない状態でした。

 

私は 先生の勧めもあり 月に数度 見舞に行く程度でしたが それが 「闘病の支えになった」 と 後日  T君から聞きました 。

結局 彼は一年留年しましたが 中学校では 1学年で8クラス (総勢 360人) あり また 校舎も学年ごとに 別棟でしたので 校内で出会う事は 全くありませんでした。

 

T君は 何時も云ってました

「僕は 1年留年したお蔭で 同級生が 普通の人より 2倍いる」 と ***

こんな事を 記載していると T君の思いが伝わってきて 涙が出てきます。 

 

 

話を本題に戻します

T君に 最初に案内されたのが 盛岡城址公園で そこから見た盛岡市内が 下の写真です。

自信はありませんが 遠方に見える山々の左側が岩手山で右側が姫神山だったような***。

 

 

 

     

盛岡城址公園から見た 山並み(左) と 公園の散歩道

 

 

ブログのタイトルに 「春まだ浅く」 と 記載したのは T君が岩手の偉人 「石川啄木」 と同じく 「渋民小学校」 に勤務 (校長先生もしたらしい) していた事があり そこの校歌が 「啄木」 が作詞した この 「春まで浅く」 だったからです。

 

 

上記した 「春まだ浅く」 の5番の歌詞に

 

               雪をいただく岩手山  

           名さへ優しき姫神の 

        山の間(はざま)を流れゆく

           千古の水の北上に

        心を洗ひ身を清め

           理想の路を我ゆかむ

 

と云うのがありますが 私は T君を思い出す度に この歌詞が浮かんできます。

 

参考までに上記 歌詞に相当する写真を盛岡市に旅行した時 撮っていたので掲載します。

なお 北上川の後方に見えるのは岩手山です。

 

 

 

 

      

             岩手山                 姫神山

 

     

          衣川                  北上川

 

 

また 3番の歌詞の中に

         此処は何処と我問えば

               汝が故郷と月答う

 

と ありますが 私はこの文言が好きでね

自分がいる場所が 故郷と思えば 「何時でも どこでも 死ねる」 と思うのは 私だけでしょうかね

 

 

北上川の左側に 衣川の写真を提示しましたが この川は 岩手県奥州市 および 西磐井郡平泉町を流れる北上川支流で 私が疎開していた家の近くを流れていました。

 

 

この川には 色々な伝承が残っていましてね。 

ここでは 史実に記載されている 頼義と貞任の衣川合戦の模様を原文のまま 掲載いたします。

 

伊予守源頼義の朝臣、貞任・宗任らを攻むる間、陸奥に十二年の春秋を送りけり。

 軍の男どもの鎧みな 白妙 になりにけり。 衣川の館、岸高く川ありければ、盾を いただき て甲に重ね、筏を組みて攻め戦ふに、貞任ら耐へずして、つひに城の後ろより逃れ落ちけるを、八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、

 

「汚くも 後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」

 

 

と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、

 

 
衣のたてはほころびにけり


と言へりけり。貞任しころを振り向けて、

 

年を経し糸の乱れの苦しさに
 
と付けたりけり。そのとき義家、 はげ たる矢をさしはづして帰りにけり。
さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな。
 
以上 原文より 引用
 

 

最後に 岩手県の歴史遺産 (昭和53年に文化庁から 「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」 に選択された 「チャグチャグ馬っ子」 の写真を撮っていたので それを掲載します。

 

 

 

 

チャグチャグ 馬っ子

 

 

そうそう 私の感想 (思い出) を記載するのを忘れていました。

 

「啄木」 の詩に 「故郷の山に向いて 云う事なし 故郷の山は 有り難きかな」 という文がありますが本文を記載するにあたり 「しみじみ」 その思いが伝わってきました。

 

振り返って

私は 良き友 良き師 良き書物にめぐまれ 「我が人生 概ね良好」 と 記載し 本文の纏めと致します。

 

今回も 纏りの無い ブログ になりました。

これが 「私の実力」 ですから 御容赦を **

 

終ります ではまた

 

 

 

 

もみじ

 

今回は 私が旅行に行った時に 撮影した写真を提示しながら 云わば 「雑感」 を述べる。

 

 

 

      

                       寂光院                寂光院 

   

 

 

これは 愛知県 犬山市の 「寂光院」 で撮影した紅葉(もみじ) の写真である。 

 

「寂光院」 は 「石仏の会」で行きましたが 別名 「もみじ寺」 と云われるだけに その紅葉は 「感嘆」 の一言に尽きる。

また 「寂光院」 はお袋の戒名に使われているだけに その美しさに加えて 特別な思いを馳せる。

 

 

 

 

 

  

        花巻市の路上              中尊寺

 

この写真は 家族で岩手県に帰省した時 花巻市の路上(左側) と 中尊寺(右側)で撮影した紅葉の写真である。

 

 

もみじには 特別な思いがある(例のフレーズ)

その1つは 

 某局で平成21年に放映された大河ドラマ 「天地人」 の登場人物 「直江兼続」 である。

この人は戦国時代の名宰相30家の中の一人で 私の中では 故郷に近い 伊達家の 「片倉小十郎」 に並ぶ 武士ではないかと

 

「義」 を貫いた主君 「上杉謙信」 に対し 「愛」 をプラスした 「直江兼続」 *** 良いですね。

 

「直江兼続」 は 兜に 「愛」 の文字を掲げた。

この 「愛」 の文字には 諸説あるが 私は 「愛」 とは 「弱者を守る心」 という説を支持したい。

 

 

 

 

寂光院

 

 

もう1つは

「直江兼続」 の「母」 の言葉で

 

    「もみじ」は 樹を守る為

      己の命を捨て 散って行くのです

   「もみじの赤」 は その決意の現れなのです

 

こんな 言葉を想い出しているうちに 令和元年も終わりますね *** 来年も大過なくと願う次第

 

最後に 「武士の末裔」 らしく (勝手にそう思っている事ですが) 良く 「切腹」 する夢を見る

これは 何を意味するかと云うと ** 内緒

この時 「辞世の句」 を読むシーンがあってね

 

私は次のように読んでいた

 

    身はたとへ 尾張の野辺に朽ちるとも

            留めおかしき サイカチの郷

これ 「吉田松陰」 のマネ ですがね

 

 

さて  先日 某病院で診察したところ

 医 「サイカチさんは 後何年 生きるつもりかね」

 私 「そうですね 孫が社会人のなるのに 後 5*6年かかるので それを見届けたいですね」

 医  「ならば 切腹しないとね」

     「さらに 4*5日 入牢する事になります」

 私  「刑はしっかり 償います」

    「出来れば 年内に終わりたいですね」

 医  「それでは 来週からにしましょう」

      注  切腹=手術  入牢=入院 の事です

 

さて 男性と女性は どちらが偉くなるでしょうか

  女性は 「カカア天下」 になるが 

  男性は 「亭主関白」 までです

                               これは 冗談です

 

 

 

                    寂光院

 

本当は 別な事を記載するつもりでしたがね。

                      今回はここまで

 

 

 

ポストと百合の花

 

何せ やる事をやらないと 気になるものですから年賀状を 11月の発売日早々購入し 3日後には 書き終えた。

  *** 12月中旬にポストへ投入するのみ

現役の頃は 親族の分を含め 250枚ほど書ていたが 今年は75枚で済んだ。 

例年の如く 「喪中につき年末***」 の 「はがき」 が来たり  生死不明の人 あるいは 高齢の為 次回から賀状を失礼します等の連絡を受けた人を除いて行くと 75枚となった訳だが このうち 女房と60枚ほど共通するものがあり 純粋?に 私の物は 15枚かな ***

前置きが長くなったが 娘と孫の分を含め 200枚ほど 年賀状を購入したところ 下の写真に見られるような ポストを頂いた。

 

 

 

 

 

 

ポストには 思い出があってね

某薬屋さんの企画で 「北陸街道ぶらり旅」 と云うのがありましてね これに参加したのですが ぶらり旅というものの 「歩く ・・・ 歩く」 の連続で しかも 真夏だったので 「疲労困憊」 そんな中 ガイドさんの話を聞き 昭和の雰囲気満載の町並みの 写真を撮る等 大変な思いをしました。

 

そこで 撮影したのが下の写真です。

 

 

 

 

 

 

話が 変わりますが

今年も 我が家前の道路側溝に 下の写真の様な百合の花が咲きました。

 

 

 

   

 

 

 

百合の花は お袋が一番好きな花でしてね。

 

***

お袋は 50年前 「ガン」 で他界 (享年62才) しましたが  入院中 兄弟が夫婦単位で 病院に泊まり込み看病しました。

来週から 私達夫婦が 2巡目に入る準備をしている時 次兄から お袋の他界を知らされました。

***

お袋には 忘れられない 「思い出」 があってね。

 

お袋は 云ってました

 

 「上を向いては 限りがないと 

             下見て咲くは 百合の花」

 

この言葉を 思い出しながら 戦中・戦後の空腹に耐えてきました。

 

また 戦中・戦後の厳しい生活 (例えば 1年生 ~ 3年生 まで 草履履きで5km を歩いて 登校した事 学校でくじ引きで長靴が当たり 喜んで 家に持ち帰ったら お袋が涙目で お金がないから 買ってやれない と 云われた事 等) を経験した事が その後の生活の支えになりました。

 

 

 

 

 

先日 目薬をした後 目を閉じていると 何時の間にか 転寝をしていました。

 

その時 こんな言葉が聞こえてきました。

 

    「この世に 客に来たと思えば

                  何の苦もない」

 

これは 伊達政宗の言葉ですが 客として招かれた以上 若干 窮屈かも知れないが その中で多いに楽しみ 学ぶべきところは 吸収し 帰るべき処に返った時の参考にしたいものである。

 

  何に見ても  何を聞いても ありがたや  

           この *** のあらん限りは 

 

そんな ところですかね  

      今回はこの辺で  筆をおきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

*** との会話 (その7) 

前回のブログ (その6) には 続きがあってね。

今回は その辺から記載します。

 

 

 

 

 

 

 

実は この花 上記 左側に見られるように 沢山 「つぼみ」 があり 次から次に花を咲かせます。

 

私は 花が植えられた年 花の一部を 夕方に切り取り 以前 紹介した手作りの花瓶に生け 台所 (DK) の テレビの前に置きました。 

 

花を置いてから 3ヶ月位経った ある朝

 

女房が云うには 朝 台所の窓を開けたところ  「煙の様な塊」 が家の中に飛び込んで来て TV   の方に行き  「消えた」  との事

 

私は 「すずめ」 でも 入って来たのでは 無いかと云いながら 台所を隅々 探索しましたが その気配は見つかりませんでした。  

 

 数日後

同日 同時間帯に 彼女が 「野辺の世界に旅立った」 との話を 隣人から聞きました。

 

 

 

 

 

この花 毎年 花を咲かせ 私たち 夫婦に元気を与えてくれます。


翌年から 私は 立ち枯れさせるには可哀想な気がして 最後に咲くであろう 「花のつぼみ」 を 切り取り  机上に置いています。

 

 

 

* が生けた花

 

 

 

若干 話が湿っぽくなってきたので話題を変えます

 

 

 

皮膚科の医師との会話

例年 冬場になると 私は 乾燥肌で悩まされるので 今年は 「早めに対策を取う」 と思い 皮膚科で受診 (診察しないと薬は 渡せない と看護師が云い張る? ので) してきました。

    

その時の話

 

    私 「先生 今年もお世話になります」   

    医 「どれどれ」

     「武装蜂起 準備完了と云う感じですな」

    私 「先生  対抗する手段はないですか」

    医 「うーん  去年までは S選手 や A選手 クラスで充分だったが 敵も強くなっているだろうから  王さん や 長嶋さんを ブルペンに入れる必要がありますね」

 

      要するに 同じ薬を塗布していると 感染部に対抗力が出て (効果が薄れる) と云ってます。

 

続け

      医 「古今東西 どんな頑丈な城でも  内部から崩壊すると云われています」

             「今年は 飲み薬も出しましょう」

       私 「私は 頭も弱いが 肌も弱くてね」

            「今年は 徹底抗戦しましょう」      

    医 「皮膚科の医者が云うのもなんだが この症状は 内科的な原因も考えらるので 一度 内科の先生に 相談して下さい」

結果 肝臓が大分に弱っていました。 

 

 

 

             

 

 

先日 ベストドクターに選ばれている 眼科の先生に診断して頂きました。

結果 左右とも 「安定している」 と云う事でした。

要するに 良く云えば 治療の効果が出て ここ半年の間 悪くなっていない と云う事らしい。

 

そういう事で納得し 今回の投稿を終える。