今日も長崎には路面電車が走っていた。思案橋から市北部の浦上へ向かっていた電車を若き運転手、大船竜太郎が手のひらに汗をにじませながら、主幹制御器を握っていた。
車両の後部には、車掌であり、先輩でもある片浜春吉が乗客へ切符を売りさばいていた。
運転手になって三か月がたとうとしていた。みっちり訓練も受け、電車の運転免許も苦労したかいもあり、無事に取ることができた。
訓練の時の気持ちを忘れず、路上と車内の安全を心がけた運転で、現在まで事故なく業務をこなしていた。
電車が西濱町を出て右折し、千馬町電停に着こうとしていた。大浦方面の出雲町への乗り換え地点であった。あたりは上海航路の岸壁工事のため、ほとんどが埋め立て地で民家は少なかった。商船会社の支社や印刷屋などが並んでいた。
止めるため、制動ハンドルを回し、速度を落とし始めると、突然何かが目の前を横切った。とっさのことで、ほとんど無意識に非常制動装置に手をかけた。吊革につかまっていた乗客はこの急制動で、倒れてしまった。
「何があったんだ」
車掌の片浜が運転台に飛んできた。
「何かを轢いたようです」
大船は電停手前で止まった車両をそのままにして、車両の下を覗き込んだ。
始めは何も見えなかった。しかし、目を凝らすと、軌道の石畳にわずかではあるが、血が散っていた。
何かを轢いたのは間違いない、と思うと途端に体が震えた。
「何かいるか」
片浜がせかすように訊いてきた。
千馬町電停で待っている客たちも、ささやきあいながら、事の様子を見守っていた。大船には、それが「早くしないか」という苛立ちに感じた。
恐る恐る血の正体を見つけようと近づき、ようやく轢いたものの正体がわかった。
猫だった。
完全に車輪に胴体が引きちぎられ、かろうじて皮一枚でつながっていた。即死と思われた。
「猫です」
大船は片浜に告げた。声が震えていた。
「それならさっさとどかせて、早く運転に戻れ」
先輩は問題なしと見たのか、そう指示した。
しかし、大船にとっては、自分が殺してしまった初めての命だった。たかが猫と他人が言っても、彼にとって、動揺は並々ならぬものがあった。
確かに先輩の言うように、警察や会社に報告するほどの「事故」ではないかもしれない。それでも大船の心は、鎮まらなかった。
しかし、急がねばならない。大船は慌てて、猫の死骸を引っ張り出し、軌道の隅の人目につかない場所へ運んでいった。
血にまみれた手を手拭いで急いで拭いたが、完全には落ちなかった。
「大変お待たせして申し訳ありません。ただいま発車します」
片浜が、客へ声をはりあげた。
大船はまだ血が少し貼りついたままの手に手袋をはめ、主幹制御器をまわして、電車を動かした。
その後は何事もなく、業務をこなした。動揺も次第に鎮まった。
そして、陽も暮れようとした頃、勤務が終わった大船運転手は、千馬町電停そばで、午前中に轢いた猫の死骸を拾いに来た。
供養してやりたい。
無惨な姿の猫を愛おしく抱え上げ、買ったばかりのきれいな絹の衣で包んだ。
抱きしめると、涙がとめどなくあふれてきた。轢いたときの動揺も戻ってきた。
「ごめんなごめんな」
謝って済むものではないのは重々わかっていたが、他に何の言葉があろう。
電車が来た。
大船は慌てて隠れた。同僚に見つかっては、変な噂が広まりかねなかった。
休憩中も、黙って過ごしていた大船に対して、同乗していた車掌の片浜は、猫を轢いたことを公然と仲間に話していた。大船を責めたり、いじめたりする意味でないのは、わかった。それで猫が轢かれたことは、会社中に知れ渡っていた。
だからいま来た電車の運転手に見られると、余計な勘繰りをされる恐れがあった。
そもそも猫を弔うことすら、人目をはばかる必要があった。人間と同じ命を弔って何が悪い、といっても納得する世情ではなかった。
猫の死骸をくるんだはいいが、どうすればいいか途方に暮れた。
電車が行ってしまった後、路上に戻った大船は、死骸のあった場所に花を供えて、誰の目もないことを確かめて合掌した。
そのとき、頭にある光景が浮かんだ。
猫医者を標榜して自転車で走り回っている若い男だ。おいかぶさった髪をなびかせながら、「ケガした猫、病気の猫はいませんかあ」と張り上げる大声は、動力機で騒々しい運転台にいても聞こえていた。
大船はその場面を鮮明に思い出そうとした。
自転車の後ろには、旗があったはず。その旗には……
大磯駿次郎。
確か、そんな名前が書いてあった。自分の名前、大船竜太郎とよく似ていたので、思い出せた。
しかし、どこに住んでいるかわからない。今日はもう陽もくれるから、自転車で回っていないだろう。
しばし悩んだ後、大船は決心した。
繁華街のほうへ猫を大切に抱きしめながら、走り出した。そしてやっと見つけた自働電話に手をかけた。かける先は自分の勤める電車会社だ。
「明日、欠勤します」
電話の向こうでは、突然のことで沈黙されたが、すぐに何やらわめき始めた。明日の乗務日程は当然決まっていた。その補充をするとなれば、会社側としては面倒この上ない。
「すみません」
それでも黙らない会社を無視して電話を切った。
次に出社したとき、大目玉を食らうだろうが、猫のためなら何をされても構わなかった。
大船は明日一日、この市街を歩き回って、あの猫医者を探そうと決心したのだ。猫医者に診てもらっても、何かなるわけでもなかった。もう死んでいるのだから。
だけど、猫に対する気持ちがわかち合える気がした。あわよくば、いい弔い先を紹介してもらえるかもしれない。
合掌した途端、猫医者がひらめいたのは、死んだ猫の思いが伝わったのかもしれない。そんな気がした。
「ありがとう」
大船は、猫をくるんだ布に頬ずりした。
翌日も晴れて、春の青空が広がっていた。今年、大正十二年の春は、いつにもまして過ごしやすかった。日差しは柔らかく、雨も少なかった。
気持ちの良い目覚めを迎えた大船は、あまりの気候の良さに、現実を忘れるところだった。弔うと決めた猫の死骸を、同居する家族に隠して、床に就いていた。庭にある小さな物置の奥に隠しておいた。
腐敗していないか気になったが、物置の戸を開けても、異臭は感じられなかった。
絹の布に包んだ猫の死骸をそっと抱き上げ、布をのけて顔をのぞいてみた。若干、血には染まっていたが、目を閉じて穏やかな表情を浮かべていた。
轢かれる瞬間には、どれだけ激痛に歪んだことか。想像すると、いまの表情は嘘のようだった。断末魔の叫びもあげたろう。その叫びも聞こえなかった。何もかもが、人間の作り出した電車という鉄の塊にかき消されてしまった。猫の存在すら。
それを思うと余計、憐憫の情に駆られるのだった。
大船は、家族に見つからないうちに家を出て、長崎一の商店街である浜の町へ歩き出した。もうすでに長崎の街は動き始めていた。通りには人が増えはじめ、電車も走っていた。
電車の運転手や車掌に見られるのは、まずかった。そばを通り過ぎようとする刹那、電柱などに身を隠した。
猫医者らしき姿は見えない。普段、電車を運転しているときは、しょっちゅう見かけるのだが、探しているときに限って姿を現さないのは、神のいたずらにしか思えなかった。
徘徊していれば、そのうち出会うだろう、と楽観的な気を持つことにした。
陽はどんどん上がり、昼が近くなってきた。心なしか、猫の死骸から異臭を感じるようになった。今日は昨日より気温が高く感じられた。早く猫医者を探し出さないと、腐敗が進む。
大船の心から楽観的な気分が薄れつつあった。
何が何でも今日中に出会う必要があった。それも早ければ、早いほど良い。
「いつもこのあたりをうろついている、猫医者さんを見かけませんでしたか」
とうとう、黙っていられず、商店の庭先でほうきをはいていた婦人に尋ねた。
「ああ、あの人ねぇ。毎日のようにここを通るけど、今日は見ないわね」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げて、しばらく歩くとまた別の人に訊いた。
「大磯なんとかっていうやつのことじゃろ? 誰が猫など医者に診せるかって思うが、お前さん、あの男に用かね? ふーん。猫を診せたいんじゃろうが、今日は見んねえ。それにしても、猫医者に用があるもんがいるなんて、時代が変わったのかねえ」
工事の休憩中なのか、泥の塊の横で、左官のオヤジが煙草をスパスパやりながら答えた。
ほとんど曲がり角に来るたびに出会う人に尋ねまわった。
「大磯駿次郎さんというらしいですが、その方の住所とかわかりませんか」
焦りが強まり、突っ込んだ質問までするようになった。
「なんでも大浦あたりにいるって聞いたことあるけど」
二十数人目であろうか、思案橋で訊いた芸者風の女性から、やっと具体的な答えをつかみ取った。
「ありがとうございます」
何十回言ったか忘れるほど、その言葉を繰り返したが、彼女には余計、感謝の念を込めて言った。
とにかく大浦へ行こう。
大船は速足で向かって行った。電車に乗れば、簡単につくのだが、同僚に見られるわけにもいかなかった。
新地から梅香崎を抜け、港が一望できる大浦海岸の通りまで来た。
もうこのあたりは大浦といっていい場所だった。芸者風の女は「大浦あたり」といったが、一口に「大浦」といっても結構範囲が広かった。
「どうしよう」
ここから先どう進んでいいのか、皆目見当がつかなくなった。
また付近にいる人に尋ねようか。
そう思ったときだった。
海岸通りの先のほうに、橋がかかっており、その上に旗をつけた自転車と青年らしき人物が欄干にもたれていた。何をするでもなく、港を眺めているようだった。
もしかして。
大船の心に急に明るい日差しがさした気がした。
猫をいっそう強く抱きしめながら、その男めがけていった。
「もしや猫医者をなさっている、大磯駿次郎さんでは?」
突然呼びかけられて、不審の目で見られたが、相手はすぐに笑顔になって、
「いかにも私が大磯ですが、何か」
と、親しさを感じさせながら返事した。
大船は、安堵のあまり、橋の床に崩れこみそうになった。
「ずいぶんお疲れのようですね。何かあったのですか」
猫医者と名乗る者にもわかるほど、顔色が悪かったらしい。
「あなたを探していたのです。どうしてもお話がしたくて」
「私を?」
大船は、自分が電車の運転手であることから話し始め、前日に猫を轢き殺してしまったことからてん末や気持ちを洗いざらい吐き出した。
「それはそれは。ここでは人目につきますから、私の診療所へ行きましょう。すぐ近くです」
猫医者がいたのは、彼のお気に入りの場所である松ヶ枝橋であった。診療所はそこから二分も歩けば、たどり着ける。
大船も中に入った。
碁盤の広さくらいで、腰の高さくらいしかない診察台に、今まで宝物のように抱えてきた猫の死骸をそっと置いた。
駿次郎が優しく布を取り払い、死骸があらわになったが、さすが猫医者というべきか、全く顔を背けたり、しかめたりしなかった。死臭は明らかに強まっていた。
「もう生き返ることはありませんが、どうしても弔いたくて」
と、橋の上でも話したことを繰り返した。
「わかるような気がします、そのお気持ち」
駿次郎は、同情したのか、微笑んだ。
それはいいが、ここからどうするのか、大船には全く見当がつかなかった。供養してくれる寺でも紹介してくれるのだろうか。黙って死骸を見ていると、駿次郎は猫の爪を切り始めた。
前脚、後ろ脚それぞれの指の爪をすぐに切ってしまった。そして薬包紙に爪を全部入れて、薬と同じように包むと、大船に差し出した。
「形見として取っておきたくはありませんか?」
差し出された小さな包みを見ると、急に胸が震えて、涙があふれてきた。
「残念ですが、この猫の死骸は、海に流すしかありません。水葬ってやつですね。猫に墓を用意してくれるお寺もなければ、勝手に死骸をどこかに埋めるわけにもいきません。せめてものお弔いならば、もっと町はずれに出て、誰にも見られないように、そっと海に葬るしかありません。ですが、この形見さえあれば、この猫はあなたの心の中で生き続けます」
男泣きに拍車をかけるような駿次郎の言葉に、大船はなりふり構わす、声をあげて泣きじゃくった。
「遅くなると、死体が腐りますから、今晩にでも出かけませんか」
大船の涙が出尽くす頃を見計らったように、駿次郎が声をかけた。大船としても、明日は出社しないといけなかった。別れはツラいが、いつまでもこのままにしておくわけにはいかなかった。それに何よりも、この猫医者が「形見」をくれて、「これがある以上、いつまでも心の中でこの猫が生き続ける」とまで言ってくれた。心強い言葉だった。
一日歩き回って、時間のことなど忘れていた。診察室にかかっている時計を見ると、四時前だった。
「いますぐ行きたいところですが、あなたはお疲れのようですね。茶菓子を用意しますから、それを食していきましょう。猫との最後のひと時を過ごす意味も込めて」
駿次郎は奥へ入っていった。
大船は、立ったまま待たされた。不思議と疲れを感じなかった。目の前の猫から力をもらっている感覚まで覚えた。
つい昨日、出会ったばかりの猫。それまで何の縁もなかったのに、なぜ自分はここまでこの猫に愛情を感じるのだろう。単に自分が命を奪ったからだけではなさそうだった。
残酷ではあったが、このような出会いを迎える運命だったのかもしれない。神や仏に深い信仰心はないが、これほど運命というのを意識したのは、生れて初めてだった。
猫も死にはしたが、自分に会うために死んだのではないか。奇妙な考えだが、否定する気も起きなかった。
猫を轢いたあの辺りは、ほとんど埋め立て地だった。あんなところに猫が自生しているはずもないことに、いまさらながら大船は気づいた。
この猫は、人間の密集する雑踏から逃れるために、あんな人気もないところにいたのではないか。あるいは、海の風が好物の魚のにおいでもって、呼び寄せたのか。
野良猫であることは間違いなかった。しかしもっと、この長崎というまちに生きづらさを感じていたのではなかろうか。生きづらいとき、人間は自殺する手も考える。普段は世界を我が物にして威張っているくせに、内心は弱い生き物である。猫はもちろん、人間以外の動物が自殺するなど聞いたこともなかった。
この猫は死にたかったのか。
「そんなことあるもんか」
思い余って声に出してしまった。
死にたがる猫など絶対にいない。生きていたかった猫を俺が殺したのだ。
大船は考えれば考えるほど、猫が不憫でたまらなくなり、自分の罪の意識を深くしていった。
「さ、これを食べなさい」
涙をこらえようと、目をつぶっていて、駿次郎が目の前にいることに気づかなかった。今考えたことを読み取られていたのでは、とまで勘ぐってしまった。
駿次郎の顔を見ると、穏やかそのもので、表情からは何も読み取れなかった。手には一つ小皿と湯呑みを持っており、皿の上には大福が二つ乗っていた。
駿次郎が、診察室と茶の間を仕切る上がり框に座るよう勧めたので、それに従い座って、大福を頬張った。忘れていた空腹感がよみがえり、一気に平らげてしまった。正直、もっと欲しかったが、さすがに言えず、暖かい茶で腹を満たした。
「疲れは取れましたか」
「はい。おかげさまで」
「それでは、参りましょうか。今から行けば、ちょうどよい頃に弔えるでしょう」
壁の時計はまだ四時半にもなっていなかった。
外はまだ明るかった。その中を和装の駿次郎と、羽織を羽織った大船が、白布に包んだ猫を抱いて、二人だけの葬式行列とばかり歩いていった。
駿次郎は、南のほうへ向かった。繁華街とは正反対のほうだ。道は細くなり、雑草が生い茂っていた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
猫を抱きしめながら、大船は念仏を唱え始めた。それを優しいまなざしで駿次郎が、振り返って見た。
小菅のそろばんドッグを過ぎ、国分町を経て、戸町の遊郭を通り過ぎた。遊郭もそろそろ、明かりが灯る頃だった。
闇は確実に濃くなっていった。
もうしばらく歩いて、幕府時代に港の警備に当たった番所跡の手前まで来た。そこから駿次郎はわき道にそれ、草をかき分けながら進んでいった。
「もうすぐですよ」
念仏をずっと唱えていた大船は、いよいよ猫との最後の別れが来ると、胸が熱くなった。
「ここです」
進んだ先には、海が広がっており、港の対岸も暗かったが、うっすら見えた。何の手も加えられていない岸には、凪いだ波が次々と寄せては引いていた。
「私も猫医者をやっていますが、不幸にも助からなかった猫たちをここから西方浄土へ流しているのです。ちょうど山の陰になって、誰からも見つかることもありません。私だけの猫の墓場です」
大船は包みにまた頬ずりをした。
「ごめんな。向こうで元気に走り回っておくれ」
そして、誰から言われるまでもなく、波打ち際に猫を置いた。猫を包んだ白い塊は、待っていたように波がさらっていった。
沖に浮かぶ猫に、大船は手を合わせた。駿次郎もまた。
目を開くと、しばらく白いものが暗い波間に浮かんでいた。段々と沖に運ばれていく。じっと見ていたものの、沈んだのか、闇が消したのか、やがて猫は見えなくなった。
「浮かばれましたよ、あの猫さんも。すべてあなたのおかげです」
駿次郎が不気味なほど落ち着いた声をかけてきた。大船はもはや、涙を流すことはなかった。むしろ、無事に弔うことができた安ど感に支配されていた。
大船はいつまでも、そこを動こうとしなかった。周囲は完全に真っ暗だった。駿次郎もせかすことなく、大船の気持ちのままにその場にとどまった。提灯は用意してあった。
だが、火を灯すには、まだまだ時が必要であった。
―了―