また飲み会に行った。

「行政書士は人脈を築くこと」

それが鉄則であるらしい。

飲みながら誰もが同じことを言った。

 

自閉症、正確には自閉症スペクトラム障がい、という心の病を抱えた駿次郎に人脈など築けるのだろうか。

駿次郎は高校生の頃は全くと言っていいほど友達がいなかった。

不登校になり、学校の紹介で大学病院の思春期外来へ通うことになった。

 

思春期外来と言っても、ただの精神神経科への通院である。

五十いくか行かないかの医者と若い医者の二人から質問を受けた。

「ここに来ることをどう思いますか」

最初に尋ねられた。

 

たいがいの少年少女はここに来るのを嫌がるらしい。だが、駿次郎にとってはむしろ「病気か何か知らないが、体の不調が治るのならばここに来たことは嫌ではない」という気持ちだった。

 

「体の不調」とは?

人は笑うだろうが、授業中におなかが鳴ることが最もたるものだった。そんなに恥じ入る必要もないのだろうが、真剣に悩んでいた。

 

ともかく、その心境をそのまま口から出せばいいのだが、会話下手のせいなのか何なのか、黙ってしまった。

医者の先生は、それを流して次々と質問をしてきた。

「お化け見たことある?」

こういう質問もあった。

 

最終的には先生の言う「元気が出る薬」をもらって帰った。

「対人恐怖症の疑いがありますね」と診断だろうか、そうも言われた。

確かに駿次郎は人と会話するのが、ある意味「怖い」ことだった。

 

あれから30年以上が過ぎ、人と交わることへの抵抗は激減した。

しかし、「人脈を築け」という励ましともいえる言葉には、抵抗を感じた。

 

どの仕事もそうであろうが、人と関わらずにできる仕事など皆無と言ってよかろう。

小説家だって、最低でも編集者と接しなければならない。

自給自足と言っても、電気やガス、水道は物々交換では買えない。現金を得るためには、人と交わって働かねばならない。

 

行政書士という個人事業主も全くそうだ。

フリーランスなんてカッコつけている場合でもない。逆にフリーランスこそ人脈が必要ではないか。

仕事を見つけるのに、人づてを頼らず何に頼る。

駿次郎はいまに思ったことではないが、改めて痛烈に身に染みた。

 

行政書士、それもほとんどが個人事業主という立場だが、「個人」というと一人で黙々と仕事をこなすイメージがあった駿次郎。

とんでもない間違いだった。

 

心や体の不調はかなり回復したというものの、いまも飲み続けている薬のおかげもあろう。

それに大元の対人恐怖症や自閉症スペクトラム障がいは完治したわけではあるまい。

 

飲み会は楽しい。学生時代はみんなと連れ立って飲みに行き、二次会ではカラオケでマイクを離さなかったものだ。

それでも家に帰って一人になると、途端に病気という「一生の友達」が顔をのぞかせた。

 

やってみれば意外とうまくいくかもしれない。

できるできないではなく、やるかやらないかだ。

これらの理屈にすがるしか、いまの駿次郎にはなかった。

大磯駿次郎は十人ほどが集まった飲み会で、沈黙したままだった。

バイクで来ているのでアルコールは飲めなかった。

集まっているのは自分も含めてすべて行政書士。

前支部長の慰労会ということで、ささやかながら有志がお金を出し合って、長崎の中華街の店で前支部長を囲んでいた。

 

アルコールが飲めないことはなかった。かえって飲みすぎではないかと自分で心配するくらいの酒豪であった。

飲まないことによる潤滑油がないためか、それとも単なる性格か、あるいは病気のせいか。

どうも話しの中に入っていけなかった。下手に口を出すと話の腰を折るのではと恐れていた。

 

心療内科で「私はいったい何の病気なのですか」と医師の先生に尋ねた。

先生は言葉を選ぶように、

「うつ病ではないし、統合失調症とも少し違う」

と言って、奥から書類を持ってきた。

「自閉症スペクトラム診断シートです」

と何回かの紙が入った透明な袋を手渡した。

「次回の通院までに記入して持ってきてください」

 

次の通院でそれを渡した。

先生はとじ込みになっているシートの部分をカッターで切り開いて、早速診断を始めた。

「24点」

「はい」

意味を図りかねた。

「30点以上だと自閉症スペクトラムと診断されます。普通の人だとだいたい10点くらいです。大磯さんは24点ですから、そうと診断はできませんが、極めて近い位置にいるとは言えます」

これまでは自分は統合失調症だとばかり思っていた。医師から宣告されたわけではない。もう10何年も前、診断書をちらりとのぞく機会があって、それに「統合失調症の疑い」と書かれたのを見たからだ。

だが、今日からは「自分は自閉症だ」と思うことにした。

 

飲み会は縁もたけなわだった。

駿次郎は黙っていたが、誰も彼の存在を忘れていたわけではなかった。ときおり話しかけてくれる優しい先輩ばかりだった。

 

「つまらないと思っている」と思われないだろうか。

不安もよぎった。

始末の悪いことに駿次郎自身も「自分は被害妄想が強い」ことを自覚していた。

「さあ、もうお時間ということで」

現支部長が店員の声かけから、〆にかかった。

 

店の外に出るとすっかり暗くなっていた。10時を回っていた。

「二次会来ないかい?」

一人の先輩が誘ってくれた。断ろうとも思ったが、「私はこの飲み会を楽しんでいますよ」という意思表示のつもりで、「行きます」と答えた。

決して無理もしてないし、苦痛でもなかった。

 

思案橋近くのバーに五、六人連れ立っていった。

夕方の薬を飲まないといけない時間がとっくに過ぎていたので、アタマがボーッとしていた。帰りのバイクが少し心配になった。

「お金出すからホテルにでも泊まっていかんね?」

別の先輩であるベテラン行政書士が言った。親切心から言ってくれているのだろうが、本音は家に帰りたかった。

 

そしてちょっとした決意を固めるように気を引き締めると、

「今日はもう帰ります」

と何とか言うことができた。

無理に引き止めはされなかった。

「気をつけて帰らんばよ」

「はい、ありがとうございます」

店内にいたみんなと握手して、

「失礼します」

と店を出た。

バーのママがエレベータまで見送りに来てくれた。

「また来てくださいね」

 

11時を過ぎていた。

こんな夜遅くバイクを運転するのは、初めてではないが何年ぶりだろう。

路面電車も通る国道を走らせていると、夜中だけあって数か所で一車線ふさいで工事をしている箇所があった。その度に進路変更をした。

走っているのは多くがタクシーか代行の車だった。

金曜の夜だったのだ。

 

自宅には駐輪場を出るときに電話しておいた。

あまりの遅さに母はびっくりしていた。

長崎の郊外も郊外の自宅に無事たどり着くと、母は起きて待っていた。

腹は減っていなかった。

シャワーくらい浴びたかったが、疲れていた。

ベッドに横になって、こんな話下手で行政書士が務まるのだろうか、と悩んでいるうちに眠りに落ちた。

 酒屋で豊橋豆吉と酒を酌み交わしていた。先日、この酒屋で知り合った商売に失敗した初老の男だ。

 今日も猫医者の大磯駿次郎は、猫を医者に診せる風潮なぞ、全くない大正の長崎をうろつきまわって、飲みに来ていた。あれ以来、豊橋とは毎日のように酒屋で話し、齢は離れていても、立派な「飲み友達」になっていた。

 まだ陽の沈むのも早い、大正十二年の春、駿次郎も豊橋も冬の人生を歩んでいた。

「でもアンタはまだ若いから良かたい。俺なんか老いぼれで、これからの世話をしてくれるもんも居らん」

「でも人生を諦めるのは、早かとじゃなかですか、若輩者が生意気言うようですが」

 二人の会話はいつもこんな感じだった。人生への不安はもちろん、社会に対する愚痴、政治家の悪口など、駿次郎も聞きに徹しているが、暗い気持ちになるばかりだった。

 しかし、毎回豊橋をなだめても、彼自身の人生が好転するわけもなく、駿次郎にとっても、かける言葉が焼け石に水とばかりに消えていく気がしてならなかった。

 それでも豊橋と飲み続けるのは、境遇が似ていたからかもしれない。妙に馬が合った。豊橋は商売に失敗した。駿次郎も、猫医者という商売をしている。それが全く安定の道が見えないものだから、豊橋がまるで将来の自分であるかのように、見えていた。決して蔑みの目ではなく。

 いつも飲む酒は茶碗一杯だけ。

 それを豊橋が徳利から継ぎ足してくれていた。これでは申し訳ないので、駿次郎もないお金を奮発し、徳利一つを注文し、互いに酌み交わすようになった。

「猫は元気にしてますか」

「ああ、元気だとも。頼れる奴はアイツしか居らんからな。大切にせんと」

 いつかの夜、一人きりで粗末な間借りしている居所に、猫が忍び込んできた。泥棒でもするつもりだったかどうかわからないが、豊橋には救いの神がやってきたような気がしたという。

 大事に抱きしめて、孤独のわが身と重ねて泣いた。

「それは良かった」

 心から安堵した。

 また互いに継ぎ足しあった。

「商売ってのは、結局、人なんだよ」

 豊橋が駿次郎をまっすぐに見ていた。

「いくら商才があったとしても、結局は人が良くなきゃ商売は成功せん。情けなかことに失敗してから気づいたバイ。兄ちゃん――」

 駿次郎を「兄ちゃん」と呼んでいた。本名はすでに知っていた。

「アンタは人が良かごとある。きっと成功するバイ。気長に待つことや」

 たとえこれが説教だとしても、駿次郎にはありがたい助言だった。豊橋と会うときは、彼はいつも酔っているから、素面の時の性格は知らなかった。昼の日中から酒浸りしているのかも、と想像もした。

「こんな私でも、商売なんてできるんでしょうか」

「できるできる。俺が太鼓判を押す」

 豊橋からの太鼓判でもうれしかった。

「そりゃこの大正の世、民本主義だか、デモクレシーだか知らんが、猫に見向きもしねえ連中なんか、自分のことばっかりさ。俺もそうだったけどな。結局は自分も政治をしたいから、普通選挙しろだの、単に飯が食えないだけやけん、米の騒動起こしてるだけや。自分が不満なら騒いで、ほかの奴が困ってるときには知らんぷり。政治ってえ言うと、たいそう立派なことに見えるけど、実際はそんなもんさ」

 話が脱線したようだが、駿次郎は「聞いてますよ」と相槌を打ち続けた。そして豊橋の茶碗に酒を継ぎ足し、自分も一口すすった。

 豊橋のおしゃべりは止まらなかった。

「世の中の何でも先駆けをやる奴ってえのは、大方最初は世間から変な目で見られるもんよ。猫医者だってそうだ。猫を医者に診せるなんて馬鹿馬鹿しいって思う連中ばかりだよ、この大正の世は。でも、日本もイギリスと同盟を結んで、列強と並ぶようになった。だんだんとみんな豊かになっていくさ。それまで俺が生きてればいいけどな。兄ちゃん、飲めよ」

 聞き入っていて、茶碗を持つ手が止まっていた。それに豊橋が継ぎ足す。駿次郎は相槌を打つのが精いっぱいで、どこで言葉をはさんでいいか見当もつかなかった。それでもよかったのかもしれない。豊橋の「独演会」は、聞いてもらうだけで満足するのかもしれなかった。

「いまは猫を医者へは診せない。でも獣医さんだってご立派な職業だ。豊かになれば、人っていうものは、心に余裕ができる生き物なんだよ。長年商売やって来て、わかったことや。だから、いまに見とらんね。猫を医者にかけるのが当たり前の世が来るけんね」

 不思議と出まかせを言っているようには感じなかった。確かにこの国が一等国になって、経済力も軍事力も一流になれば、日本人はどういう生活をするのだろう。みんなが帝都みたいな都会並みの生活ができる時が、目の前に来ているのかもしれない。

「だから、商売は人がすべて。技術や知識なんて二の次なんだよ。兄ちゃん、毎日言うけど、頑張ってな。俺も長生きして、猫医者が繁盛する日を見てみたか」

 いつも最後は、駿次郎が励まされて話は終わる。

 丁度徳利の酒も尽きた。

「いつも元気が出るよ。豊さんと飲んでいると」

「だろ? ダテに五十年生きてきたわけじゃなかけんな」

 勘定を置いて、席を立つ。ほろ酔い加減で自転車にまたがった。幼なじみの松之助とも深い仲だが、豊さんも会ったばかりだけど、このご縁、大切にしたい。

 しみじみとペダルをこいでいった。

―了―

 上海航路の船が出ていった。今年、大正十二年の二月に就航したばかりの国際航路だ。松ヶ枝橋の上から、駿次郎は手を思い切り振った。誰だか、顔も姿もはっきりしないが、振り返す人がいるのが、確かに見えた。

 船が港の外へ行くまで、ずっと見送った。見えなくなると、欄干に立てかけていた自転車にまたがり、虚しい猫医者の宣伝に周りはじめた。

「猫のケガー、猫のびょーき、この猫医者、大磯駿次郎がお治ししまーす」

 振り向く人は多いが、声をかける者はいなかった。

 繁華街の浜の町に近い、船大工町の狭い道を通っていると、写真店の張り紙に魅かれた。

(しゃ)(しん)印刷所』という商売とともに、若い女性の肩に乗った猫の写真が目についた。写真も撮れば、その印刷もやると思われる、その店は器用にも猫を印刷物に載せる芸当ができるらしい。

「すみませーん」

 自転車を降りて、中をのぞいてみた。もしかするとここの店主は猫好きかもしれない。

「はーい、ただいま」

 出てきた店主は、三十代くらいだろうか、予想していたよりも若かった。

「猫の写真が気になったものですから」

「ああ、あれですね。時代の進歩とは早いもので、昔は写真を撮るとなると、何秒も不動の姿勢でいなければなりませんでした。それが今では一瞬ですよ」

 店主は自慢するように話した。

「私、猫医者をやっていまして、猫には特別な思いがあるんです」

「ほう」

 店主は関心を持ったようだった。

「もしかして御主人は、無類の猫好きではありませんか」

 そう言われた途端、店主の顔が曇った。何か不用意な発言でもしただろうか、と駿次郎は心が乱れた。

「あ、失礼」

 店主は棚にあった一つの写真立てを手にした。

「これは私が三年ほど前まで飼っていた猫でしてね」

 示したその写真には、主人と彼の腕に抱きかかえられた猫が写っていた。

「利口なやつでした。いつも愛くるしくて。外国へ写真を勉強しに行ったため、婚期を逃して独り身だった私には、実の子同然でした。それが突然何かの病気にかかったのでしょう、息苦しくなって、だんだんひどくなって飯も食わなくなった。そしてあっけなく天国へ旅立ってしまいました」

 店主の目から涙が流れていた。

「そうですか……。すみません、悲しいことを思い出させてしまい」

「いや、いいんですよ。ただ、あの時にあなたがいたならば、私は迷わず訪ねましたよ。猫医者さんなんでしょ?」

「はい」

「湿っぽい雰囲気にしてすみません」

 努めて笑顔を作り、店主は気を取り直したふりをした。駿次郎もそれに気づいてはいたが、しばらく猫と写真の話に花を咲かせた。

 松ヶ枝橋近くの猫診療所へ戻ると、幼なじみの二宮松之助がいた。上がり框に座り、ひざの上には猫がいた。

「どうした? 病気か?」

「幼なじみだろうが。いちいち用がないと来てはダメかい?」

「そういう意味じゃない」

 松之助が抱いている猫は、彼が人力車の人夫の仕事中に、市内の路上で弱っているのを見つけた雄猫だった。駿次郎が栄養剤を与えて、回復させたが、また野良にすると同じ目に遭うと、駿次郎から半ば強引に飼うように迫られたのだった。

 猫を「大五郎」と名付けたらしい。

「最近はな、カミさんも大五郎を撫でたり、かわいがったりしてくれるようになった。子どももなついているし、大五郎のほうからも子どもと遊ぼうとしているよ」

「それはよかった」

「ただなあ……」

 急に松之助の声が暗く聞こえた。

「どうした」

「猫ってだいたい何年くらい生きるんや?」

 なぜそんなことを聞くのか、松之助らしくもなかった。

「長生きすれば二十年生きる。普通は十四、五年かな。何でそんなことを聞く?」

「命というのは、どんな生き物でもいつかはなくなる。かみさんや子どもにも恵まれている俺だが、しばらく一緒にいるうちに、大五郎もいつか死ぬんだな、なんて考える」

 目が赤くなっていた。普段、涙もろいとは、露ほども思っていなかったが、自分は松之助のことはすべて知っていると思っていた。それだけに驚愕した。

「それは儚いものだが、運命だ。そんなこと考えていると、何にもできやしない。忘れて、毎日を一生懸命生きろ!」

 こらえきれなかった涙があふれて、松之助の頬を伝った。

「じゃあ、いい方法を教える。今すぐ人力車、もってこい」

 真っ赤にしながらも、困惑やら疑問やらが混じった視線を、その目から駿次郎は向けられた。

「急いで、急いで」

 その日の夜、陽もすっかり暮れ切った猫診療所で、駿次郎と松之助は、一枚の写真に見入っていた。

 笑顔の松之助が大五郎を抱いている写真だ。駿次郎が昼間に出会った写真屋で撮ってもらったものだ。

「これで、いつまでも大五郎はこの世に姿が残る。安心したか?」

「ハハハ……、そうだな」

 彼のひざには、本物の大五郎が丸くなっていた。連れまわされて疲れていたのかもしれなかった。

「それにしても、この俺も意外と男前だな」

 自身の容貌に見入る幼なじみを見て、完全に元気になったと駿次郎は安どした。

―了―

 日がな一日、自転車で長崎市内を駆け回った、猫医者の大磯駿次郎が、成果のないまま猫診療所に戻ると、珍しく母の大磯ハツが出迎えにきた。

「お客が待っとる。急げ。何時間も待っとるぞ」

 何事かといぶかしんだ駿次郎に対して、ハツは愛想もなく、それだけ言って奥の茶の間に引っ込んだ。

 とにかくかなり待たせたらしい。急いで自転車を玄関前に鎖で留めると、急いで入った。

「お待たせして……」

 どこかで見た顔だった。

「あ、あなた浜の町辺りでぶつかりましたっけ。東小島のお住まいの梅子さんという方でしたよね」

 梅子という若い女性は、あのときと同じようにモダンガール風の洋装で、長崎の田舎には場違いな感じがする存在だった。

「大磯先生ですね。ご無沙汰しております。あのときはきちんと名乗っていませんでした。わたくし、島本梅子と申すものです」

 頭を下げた。しばらく他愛のない話が続いたが、待たせたことが気になっていた駿次郎にとっては早く本題に入りたかった。

「ところで、今日は、いかようで参られましたか」

 多少話の腰は折ったけれども、仕方がなかった。すると梅子は、急にうつむいて黙り込んだ。

 そう言えば、彼女の愛猫であるサイベリアちゃんがいなかった。駿次郎は嫌な予感がした。

「わたくし、一か月くらいのちに、大阪まで行かねばならなくなりまして」

「ほう、すぐ戻られるので?」

 愛猫の死という最悪の想定は免れたが、安心するのは早そうだった。

「いいえ。それがお仕事の関係ですから、当分長崎には戻れません」

 ここで駿次郎は察した、新たな心配を口にした。

「サイベリアちゃんはご一緒するのですか」

 梅子は黙り込んだ。しかし、そうしていても埒が明かなかった。

「それが、大阪で借りるアパートは、猫と一緒はダメと大家が言うそうで」

 うつむいている梅子の目から一粒、涙が落ちた。愛猫に会えないつらさはわかる。

駿次郎も腕を組んで考え込んだ。この問題の解決は困難を極めることは間違いなかった。

「やはりサイベリアちゃんとは、片時も離れたくはないのでしょう? ……そうですよね、わかりますよ、そのお気持ち。……はて、どうしたらよいものか」

 もう辺りは真っ暗になり、街灯が灯るようになっていた。とてもすぐにはいい考えが浮かびそうにはなかった。

「梅子さん。今日のところはもうお帰りください。もっと私が早く帰ればよかったのですが。出発までは時間があります。そのうち妙案が浮かぶでしょう。勢津子さんでしたか、夜遅くなると心配しますよ」

「明日、またお邪魔してよいですか」

 来てもどうなるものか、と駿次郎は思ったが、承諾した。梅子は安心したように、路面電車に乗って帰っていった。

 その夜、考えれば考えるほど、眼が冴えて眠れなくなった。そして、

「この手しかないか……」

 と、一筋の光明を頼るように、一つの案が浮かぶと、心もとなくもあったが、興奮も入り交じり、いっそう寝付けなくなった。

 まどろんでいると、鳥のさえずりが聞こえた。あたりも明るいようだった。

 朝餉をとり、寝床で浮かんだ案をどのようにして、最大の力を発揮できるようにするかを、思いつくまま手帳に記していった。

「こんにちは」

 梅子だった。もう来たのか、と時計を見ると、すでに十時を回っていた。

「ちょっと思うことがありまして」

 駿次郎はもったいぶるような前置きをして、

「出費が結構かかるかもしれませんが、そのあたり大丈夫でしょうか」

「おいくらぐらい?」

「まだわかりませんが、簡単には出せない金額ではあると思います。べらぼうに、というわけではないですが」

 腑に落ちないような顔で、梅子は頷いた。

「では、ご一緒に行きましょう」

 と、駿次郎はさっさと猫診療所を出ていった。訳もわからないまま梅子は、慌てて追いかけた。路面電車に乗り、向かった先は、

「ここはわたくしの家じゃないですか」

 島本梅子の自宅だった。彼女の愛猫サイベリアちゃんが、駆け寄ってきた。それを駿次郎は素早く抱き上げて、玄関を借りたい旨、告げた。

「まったく問題なし」

 いろいろと猫を診察や観察して、健康に問題がないことを確認すると、一枚紙を取り出して、数行の文章を走り書きし、最後に印を押した。

「次からが山場ですよ」

 サイベリアちゃんを置いて、また梅子と二人きりで街中へ降りていった。県庁や裁判所の近くにある一軒の事務所の前で立ち止まった。

『住吉法律事務所』

 と、大きな木の板に墨書された看板がかかっていた。駿次郎は戸惑う梅子を振り向きもせず、中に入った。梅子にとって、法律などと関わったことなどなかった。

住吉(すみよし)(たかし)先生はおられましょうか」

 壁じゅう本棚で、そのすべてに本がぎっしり詰まっていた。衝立の向こうから、まだ四十前後とみられる髭の紳士が、立ち上がって姿を見せた。

「お忙しいところ、失礼します」

 駿次郎は、遠慮せず住吉に近づき、二人ともついたてに隠れてしまった。その中で、話を進めているようだったが、梅子はつまはじきにされて、不安になった。

 一時間もかかった頃、駿次郎が住吉とともに出てきて、梅子に一枚の紙を渡した。

 ――金五円也

 請求書だった。

「何のお金ですの?」

「いまにわかりますよ。騙されたと思って払っておいてください」

 この猫医者さんは、詐欺などするはずがない。信じるしかないと、腹をくくった。

 その後、すぐ近くの本博多町郵便局へ行き、ここでも普通より多くの郵便代をとられた。

「これで終わりです。信じてください。一週間もすれば、結果はわかります」

 深くお辞儀して、駿次郎は家のほうへ歩いていった。梅子は呆然と見送るだけだった。

 一週間後。

 猫診療所に梅子が慌てふためきながら、飛び込んできた。

「どうされました?」

「ど、ど、どうもこうも。大阪のアパートの大家から電報が届いて……」

 渡された電報用紙を見ると、

――ネコ カウコト ユルス

 と書いてあった。

「やったあ」

 駿次郎も思わず叫んだ。

「まあ、座ってください。ご説明しますから」

 まだ落ち着きの戻らない梅子は、理由を知りたいという逸る気持ちを押さえながら、上がり框に座った。

「弁護士さんに内容証明郵便を書いてもらったのですよ。健康な猫と同居させない理由は何か。正当な理由がないならば、権利乱用で法的措置をとる。と、私の診断書もつけて送りつけたわけです」

「それがなぜ」

 梅子も少しは落ち着いてきた。

「あなたもそうでしょうけど、弁護士という大層な人物から、あんな物々しい文書が、しかも内容証明という聞きなれない手段で送られてきたのです。大家さんもサゾ魂げたでしょうね。それに法的措置なんて恐ろしい言葉も書いてある。こっちからすれば、単なるハッタリですよ。それを大家さんは真に受けて、恐ろしさのあまり、こちらの要求をあっさり呑んだ、というてん末だったわけです」

 梅子はまさに、開いた口が塞がらないという顔だった。

「ともかく、梅子さんはサイベリアちゃんと一緒に大阪で暮らせるわけです」

 間の抜けたようだった梅子の顔から、爆笑がもれた。

「アッ!、ハッハッハッー! これは面白い!」

 腹の筋肉をよじらせる梅子を、駿次郎は内心ホッとしたまなざしで見るのだった。危ない橋を渡ったもんだ、と思いながら。

―了―

 大正十二年の春も、雨が多くなってきた。梅雨にはまだ早かった。なたね梅雨とでもいおうか。このころに雨の多い年もあった。

 雨が降ると自転車で猫医者宣伝には回れなかった。晴耕雨読などと贅沢な身分ではないが、家にこもって獣医学書でも読むしかなかった。ただ、いつも堅苦しい獣医学書ばかりでは頭に疲れがたまった。

 巷では小説なるものも流行り、長崎でもその類の書籍を扱っている店はあった。毎日届く新聞にも、連載小説は載っていた。大磯駿次郎は、暇つぶしとばかり、そこも欠かさず目を通していた。

 いま帝都では、芥川龍之介が流行作家だという。長崎の新聞にもちらほら、彼の話題が載っていた。どんなものを書いているのか、一度も読んだことはなかったが、関心はあった。

 駿次郎は、やおら起き上がり、積んである本を机代わりにして、上に真っ白な紙を置いた。万年筆を握り、考えてみた。

「何も思い浮かばん」

 にわかに小説家を気取ってみたが、才がないのか、一文字も書けなかった。

「駿次郎!」

 突然ふすまの向こうから声がした。母の大磯ハツだ。母から呼ばれて、いいことを言われたためしなど一つもなかった。

「はい」

 ため息をついてから、仕方なく返事した。

 ふすまを開けて、ハツが顔をのぞかせた。

「なんばしよったか! 雨が降っとるからって、なまけるな!」

「何の用ですか」

 小言など聞こえないふりをして、さっさと用件を聞いて、引っ込んでほしかった。

「この白菜ば、西坂のトメおばさんのところへ持っていけ」

「いま?」

「当たり前じゃ。晴れた日にはお前はいつも家に居らんじゃろ。家に居るときに頼まんばな」

 西坂というのは、長崎駅近くのちょっとした丘陵地だった。そこへ、この雨の中、なぜか白菜を持っていけと言うのだ。

「今度晴れた日に持っていくけん」

「はよせんば、傷んでしまおうもん。せっかくの茂木(もぎ)からの貰いもんば」

 茂木とは、長崎市街の山を東に超えた小さな漁村で、母の生まれた所だった。いつの間にかそこから届いていたらしい。

「早よ行って来い」

 ハツは有無も言わさず、ふすまを閉めた。行かないわけにはいかなかった。駿次郎は路面電車で行くことにした。

 松ヶ枝橋電停から千馬町まで乗り、駅のほうへ行く電車に乗り換えた。雨のせいか、乗客はまばらだった。

 そのトメおばさん、本名、稲沢トメは、大磯ハツの姉にあたった。ここ半年以上は会っていなかった。電車を降り、傘をさして駆けてゆくが、裾が徐々に濡れてきた。トメおばさんの家は電車通りから五分ほど、登ったところにあった。

 そこに着いたときは、ほとんど濡れ鼠になっていた。雨脚がかなりひどく、風も強かった。玄関の戸をこぶしで叩いた。

「あら、駿次郎君。珍しいわねえ」

 とにこやかに出迎えたトメおばさんだが、

「まあ、すっかり濡れちゃって。早よ中に入りなさい」

 床の間まで上がらせてもらうと、おばはすぐに風呂上り用の手ぬぐいを持ってきて、体を拭くように言った。来た理由を言うと、

「まあ、そんなことは今日じゃなくてもよかろうもん」

 と、あきれた。

「どうしても母が行けと言うもんで」

「はぁーっ」

 おばはどう思ったのか、大げさに嘆いた。

「せっかく来たんやけん。うまいものでも食べさせたいけど、何もないのよ」

「別に気を遣わなくても」

「でも、こうずぶ濡れになってはねぇ。一風呂浴びていきなさい。新しい着物も用意するから」

 駿次郎はせっかくだから、好意に甘えることにした。

 風呂から上がると、トメおばさんは老眼鏡をかけて、本を読んでいた。

「何の本ですか」

「あら、あがったのね。この本? 芥川さんのよ。知ってるでしょ?」

 意外も意外。こんなところで芥川龍之介の本に出会えるなんて、思ってもいなかった。部屋をよく見まわすと、小さな本棚にぎっしり本が詰まっていた。近寄ってよくみると、半分くらいは芥川の本だった。

「面白いですか」

 おばは老眼鏡を指で持ち上げ、

「そりゃ面白いわよ。今の流行作家やからね」

「流行作家か。日頃思っていることを書いたり、想像したりしたことを書いて、お金もいっぱい貰うんでしょうねぇ」

 憧れのまなざしで駿次郎が言うと、

「それはどうかねぇ。そこまではわからん」

「でも憧れますよ」

 叔母はしおりを挟んで、本を閉じた。そして老眼鏡を外した目で、駿次郎を覗き込むように見た。

 少し駿次郎は気圧された。何を言われるのか。

「駿次郎君。あなた、勉強は好きなんでしょ? 好きだからこそ、帝国大学へ行けたのよね。それなら、書いてみるべきよ」

「書くって、いったい何を」

「決まってるでしょうもん。小説よ。勉強好きにはもってこいの職業よ、作家さんって」

 ここへ来る直前、白紙に一文字も書けなかった自分を思い出した。そんな自分が作家に向いているなんて、本当だろうか。だが、たとえ冗談で言われていても嬉しかった。

「これ貸すから、じっくり読んで研究なさい」

 芥川龍之介の本を渡された。

 帰りの電車の中、濡らさないよう幾重にもくるんだ本を見ながら、何か心が焚き付けられるような気がしていた。

―了―

 長崎で大波止(おおはと)と呼ばれる辺りは、市営交通船をはじめ、主に中国大陸から来る旅客船や貨物船で賑わっていた。かもめも飛び交い、長崎で一番港らしい一帯であった。

大磯駿次郎は、猫医者宣伝の活動を小休止して、岸壁の石段にボーっと座っていた。

「キャッ」

 突然、話しかけられた。ハッと顔をあげて視界に入ったのは、浅黒い肌をした、いかにも力仕事を生業としているような男だった。

「は?」

 間抜けな声で問い返すと、また、

「キャッ」

 と、意味不明なことを繰り返した。

 その男は駿次郎の自転車に括り付けられている旗を指さした。そしてそれに書いてある「猫医者」の「猫」をトントンと軽くたたいた。

「あー、キャットね。猫ってことね」

 しかし、なぜ英語なんかで話してきたのか。

「それがどうかしましたか」

 と問いかけても、今度は相手が要領を得ない様子だった。

 なぜ会話ができない、という不思議な気持ちはすぐに消え去った。

「ワタシ、ニホンゴ、ノット、スピーク。アイム、チャイニーズ」

「ああ、なるほど」

 見た目は日本人と変わらなかった。彼は質問をしてきた。

「ワタシ、ココデ、ハタライテル。アナタ、ナニシテル。キャッ、ヲ、ドウシテル」

つまり、猫医者の旗を見て、駿次郎が猫に関する仕事をしているのは、わかったが、具体的に何をしているのか知りたいのだった。

「キャット、ドクター」

「キャッドクター?」

中国人はにわかに信じられないような顔をした。それも無理もなかった。日本人でさえ、「猫医者」と聞くと不思議に思う者はごまんといるのだ。

「マイカントリー、チャイナ。キャッドクター、イナイ」

 中国人であることは、はっきりしたが、彼の「キャッ」という発音の癖は、中国人全般のものなのかまでは、わからなかった。

「アイ、アンダースタンド」

 言いたいことはあっても、英語も中国語も駿次郎の頭の中に、語彙はほとんどなかった。

「ウエイト」

 中国人は言った。待てと。

 そしてそばに係留されていた、それほど大きくない貨物船と思われる船に入っていった。

何をしたいのか、駿次郎は若干の興味を持った。中国人の彼が出てくるまで、それほど時間はかからなかった。

 大切そうに抱えていたのは、猫だった。

「キャッ、ノーグッド」

 猫を指さしながら彼は言った。ノーグットとは、健康状態がよくないという意味か。駿次郎は猫を抱き取り、そっと地面に寝かせた。

 確かに元気がなさそうだった。暴れることもなく、目をわずかに開いたまま、ぐったりしていた。例のごとく栄養剤でも与えれば元気になるか、とも思ったが、念のため体中を触診した。

 するとおなかのあたりに何かしこりのようなものがあった。胃の中か。

 駿次郎は少し考えてから中国人に話した。

「ユー、トゥモロー、ナガサキ、イン?」

「イエス」

 明日まで長崎にいるか、と聞いたつもりだが、中国人にはそれが伝わったようだ。

「アイ、テイク、ディス、キャット。オペレーション」

 猫を連れていく、手術が必要だ。そう伝えると、彼は不安を顔に表した。

「オペレーション?」

「イエス。ドント、ウォーリー」

 心配しないで。

「トゥモロー、アフタヌーン、ツーオクロック。アイ、ミート、ユー」

 明日の昼二時に会おう。伝わったのを確認すると、駿次郎は自転車を猫診療所へ飛ばした。

 着くなり、すぐに手指を消毒し、麻酔を注射し、メスを握った。麻酔が効いたころ、スーッと、滑らかに一直線に腹を切った。胃を開いてみると、ごろりと鼠が丸々一匹転がり出た。

 これには駿次郎も驚いたが、おそらく船での長旅のさなか、鼠をよく咀嚼もせずに飲み込んでしまったのだろう。

「いまの海上運送約款に、鼠駆除に猫を乗せなければならないという規定はありますか」

 腹を縫合し、手術を終えた駿次郎は、海上保険会社に電話した。電話口から笑い声が聞こえた。

「今どきそんなものありませんよ。大航海時代じゃあるまいし。鼠よけなら薬品もありますからね」

「わかりました」

 と電話を切ると、猫のそばに行って様子をうかがった。心なしか顔が穏やかに変わったように見えた。

 そしてまた大波止へ自転車を飛ばした。翌日会う約束だったが、話は早いうちにつけたほうが良かった。あの中国人は、わけなく見つかった。

「ユー、キャット。ワン、ウィーク、マスト、スリープ。ネクスト、ユーカム、ナガサキ?」

 あなたの猫は一週間、安静が必要だ。次にあなたが長崎に来るのはいつだ。

「ネクスト、マンス」

 来月だ。

「オーケー。ネクスト、マンス、アイ、ギブ、ユーキャット。プロミス」

 来月来たときに渡す。そう約束を交わすと、中国人は慣れないお辞儀をして、

「アリガトゴザイマス」

 と言った。

 船に猫を乗せる必要はないのだから、自分が預かっていても問題はないはずだった。

「プロミス」

 もう一度、駿次郎は言って、中国人と固い握手を交わした。

―了―

 今日も長崎には路面電車が走っていた。思案橋から市北部の浦上へ向かっていた電車を若き運転手、大船(おおふな)竜太郎(りゅうたろう)が手のひらに汗をにじませながら、主幹制御器を握っていた。

 車両の後部には、車掌であり、先輩でもある(かた)(はま)(はる)(きち)が乗客へ切符を売りさばいていた。

 運転手になって三か月がたとうとしていた。みっちり訓練も受け、電車の運転免許も苦労したかいもあり、無事に取ることができた。

訓練の時の気持ちを忘れず、路上と車内の安全を心がけた運転で、現在まで事故なく業務をこなしていた。

 電車が西濱(にしはまの)(まち)を出て右折し、(せん)()(まち)電停に着こうとしていた。大浦方面の出雲町への乗り換え地点であった。あたりは上海航路の岸壁工事のため、ほとんどが埋め立て地で民家は少なかった。商船会社の支社や印刷屋などが並んでいた。

 止めるため、制動ハンドルを回し、速度を落とし始めると、突然何かが目の前を横切った。とっさのことで、ほとんど無意識に非常制動装置に手をかけた。吊革につかまっていた乗客はこの急制動で、倒れてしまった。

「何があったんだ」

 車掌の片浜が運転台に飛んできた。

「何かを()いたようです」

大船は電停手前で止まった車両をそのままにして、車両の下を覗き込んだ。

始めは何も見えなかった。しかし、目を凝らすと、軌道の石畳にわずかではあるが、血が散っていた。

 何かを轢いたのは間違いない、と思うと途端に体が震えた。

「何かいるか」

 片浜がせかすように訊いてきた。

 千馬町電停で待っている客たちも、ささやきあいながら、事の様子を見守っていた。大船には、それが「早くしないか」という苛立ちに感じた。

 恐る恐る血の正体を見つけようと近づき、ようやく轢いたものの正体がわかった。

 猫だった。

 完全に車輪に胴体が引きちぎられ、かろうじて皮一枚でつながっていた。即死と思われた。

「猫です」

 大船は片浜に告げた。声が震えていた。

「それならさっさとどかせて、早く運転に戻れ」

 先輩は問題なしと見たのか、そう指示した。

 しかし、大船にとっては、自分が殺してしまった初めての命だった。たかが猫と他人が言っても、彼にとって、動揺は並々ならぬものがあった。

 確かに先輩の言うように、警察や会社に報告するほどの「事故」ではないかもしれない。それでも大船の心は、鎮まらなかった。

 しかし、急がねばならない。大船は慌てて、猫の死骸を引っ張り出し、軌道の隅の人目につかない場所へ運んでいった。

 血にまみれた手を手拭いで急いで拭いたが、完全には落ちなかった。

「大変お待たせして申し訳ありません。ただいま発車します」

片浜が、客へ声をはりあげた。

大船はまだ血が少し貼りついたままの手に手袋をはめ、主幹制御器をまわして、電車を動かした。

その後は何事もなく、業務をこなした。動揺も次第に鎮まった。

そして、陽も暮れようとした頃、勤務が終わった大船運転手は、千馬町電停そばで、午前中に轢いた猫の死骸を拾いに来た。

供養してやりたい。

無惨な姿の猫を愛おしく抱え上げ、買ったばかりのきれいな絹の衣で包んだ。

抱きしめると、涙がとめどなくあふれてきた。轢いたときの動揺も戻ってきた。

「ごめんなごめんな」

 謝って済むものではないのは重々わかっていたが、他に何の言葉があろう。

 電車が来た。

 大船は慌てて隠れた。同僚に見つかっては、変な噂が広まりかねなかった。

休憩中も、黙って過ごしていた大船に対して、同乗していた車掌の片浜は、猫を轢いたことを公然と仲間に話していた。大船を責めたり、いじめたりする意味でないのは、わかった。それで猫が轢かれたことは、会社中に知れ渡っていた。

だからいま来た電車の運転手に見られると、余計な勘繰りをされる恐れがあった。

そもそも猫を弔うことすら、人目をはばかる必要があった。人間と同じ命を弔って何が悪い、といっても納得する世情ではなかった。

猫の死骸をくるんだはいいが、どうすればいいか途方に暮れた。

電車が行ってしまった後、路上に戻った大船は、死骸のあった場所に花を供えて、誰の目もないことを確かめて合掌した。

そのとき、頭にある光景が浮かんだ。

猫医者を標榜して自転車で走り回っている若い男だ。おいかぶさった髪をなびかせながら、「ケガした猫、病気の猫はいませんかあ」と張り上げる大声は、動力機で騒々しい運転台にいても聞こえていた。

大船はその場面を鮮明に思い出そうとした。

自転車の後ろには、旗があったはず。その旗には……

大磯駿次郎。

確か、そんな名前が書いてあった。自分の名前、大船竜太郎とよく似ていたので、思い出せた。

しかし、どこに住んでいるかわからない。今日はもう陽もくれるから、自転車で回っていないだろう。

しばし悩んだ後、大船は決心した。

繁華街のほうへ猫を大切に抱きしめながら、走り出した。そしてやっと見つけた自働電話に手をかけた。かける先は自分の勤める電車会社だ。

「明日、欠勤します」

 電話の向こうでは、突然のことで沈黙されたが、すぐに何やらわめき始めた。明日の乗務日程は当然決まっていた。その補充をするとなれば、会社側としては面倒この上ない。

「すみません」

 それでも黙らない会社を無視して電話を切った。

 次に出社したとき、大目玉を食らうだろうが、猫のためなら何をされても構わなかった。

 大船は明日一日、この市街を歩き回って、あの猫医者を探そうと決心したのだ。猫医者に診てもらっても、何かなるわけでもなかった。もう死んでいるのだから。

 だけど、猫に対する気持ちがわかち合える気がした。あわよくば、いい弔い先を紹介してもらえるかもしれない。

 合掌した途端、猫医者がひらめいたのは、死んだ猫の思いが伝わったのかもしれない。そんな気がした。

「ありがとう」

 大船は、猫をくるんだ布に頬ずりした。

 翌日も晴れて、春の青空が広がっていた。今年、大正十二年の春は、いつにもまして過ごしやすかった。日差しは柔らかく、雨も少なかった。

 気持ちの良い目覚めを迎えた大船は、あまりの気候の良さに、現実を忘れるところだった。弔うと決めた猫の死骸を、同居する家族に隠して、床に就いていた。庭にある小さな物置の奥に隠しておいた。

 腐敗していないか気になったが、物置の戸を開けても、異臭は感じられなかった。

 絹の布に包んだ猫の死骸をそっと抱き上げ、布をのけて顔をのぞいてみた。若干、血には染まっていたが、目を閉じて穏やかな表情を浮かべていた。

 轢かれる瞬間には、どれだけ激痛に歪んだことか。想像すると、いまの表情は嘘のようだった。断末魔の叫びもあげたろう。その叫びも聞こえなかった。何もかもが、人間の作り出した電車という鉄の塊にかき消されてしまった。猫の存在すら。

 それを思うと余計、憐憫の情に駆られるのだった。

 大船は、家族に見つからないうちに家を出て、長崎一の商店街である浜の町へ歩き出した。もうすでに長崎の街は動き始めていた。通りには人が増えはじめ、電車も走っていた。

 電車の運転手や車掌に見られるのは、まずかった。そばを通り過ぎようとする刹那、電柱などに身を隠した。

 猫医者らしき姿は見えない。普段、電車を運転しているときは、しょっちゅう見かけるのだが、探しているときに限って姿を現さないのは、神のいたずらにしか思えなかった。

 徘徊していれば、そのうち出会うだろう、と楽観的な気を持つことにした。

 陽はどんどん上がり、昼が近くなってきた。心なしか、猫の死骸から異臭を感じるようになった。今日は昨日より気温が高く感じられた。早く猫医者を探し出さないと、腐敗が進む。

 大船の心から楽観的な気分が薄れつつあった。

 何が何でも今日中に出会う必要があった。それも早ければ、早いほど良い。

「いつもこのあたりをうろついている、猫医者さんを見かけませんでしたか」

 とうとう、黙っていられず、商店の庭先でほうきをはいていた婦人に尋ねた。

「ああ、あの人ねぇ。毎日のようにここを通るけど、今日は見ないわね」

「ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げて、しばらく歩くとまた別の人に訊いた。

「大磯なんとかっていうやつのことじゃろ? 誰が猫など医者に診せるかって思うが、お前さん、あの男に用かね? ふーん。猫を診せたいんじゃろうが、今日は見んねえ。それにしても、猫医者に用があるもんがいるなんて、時代が変わったのかねえ」

 工事の休憩中なのか、泥の塊の横で、左官のオヤジが煙草をスパスパやりながら答えた。

 ほとんど曲がり角に来るたびに出会う人に尋ねまわった。

「大磯駿次郎さんというらしいですが、その方の住所とかわかりませんか」

 焦りが強まり、突っ込んだ質問までするようになった。

「なんでも大浦あたりにいるって聞いたことあるけど」

 二十数人目であろうか、思案橋で訊いた芸者風の女性から、やっと具体的な答えをつかみ取った。

「ありがとうございます」

 何十回言ったか忘れるほど、その言葉を繰り返したが、彼女には余計、感謝の念を込めて言った。

 とにかく大浦へ行こう。

 大船は速足で向かって行った。電車に乗れば、簡単につくのだが、同僚に見られるわけにもいかなかった。

 新地から梅香崎を抜け、港が一望できる大浦海岸の通りまで来た。

 もうこのあたりは大浦といっていい場所だった。芸者風の女は「大浦あたり」といったが、一口に「大浦」といっても結構範囲が広かった。

「どうしよう」

 ここから先どう進んでいいのか、皆目見当がつかなくなった。

 また付近にいる人に尋ねようか。

 そう思ったときだった。

 海岸通りの先のほうに、橋がかかっており、その上に旗をつけた自転車と青年らしき人物が欄干にもたれていた。何をするでもなく、港を眺めているようだった。

 もしかして。

 大船の心に急に明るい日差しがさした気がした。

 猫をいっそう強く抱きしめながら、その男めがけていった。

「もしや猫医者をなさっている、大磯駿次郎さんでは?」

 突然呼びかけられて、不審の目で見られたが、相手はすぐに笑顔になって、

「いかにも私が大磯ですが、何か」

 と、親しさを感じさせながら返事した。

 大船は、安堵のあまり、橋の床に崩れこみそうになった。

「ずいぶんお疲れのようですね。何かあったのですか」

 猫医者と名乗る者にもわかるほど、顔色が悪かったらしい。

「あなたを探していたのです。どうしてもお話がしたくて」

「私を?」

 大船は、自分が電車の運転手であることから話し始め、前日に猫を轢き殺してしまったことからてん末や気持ちを洗いざらい吐き出した。

「それはそれは。ここでは人目につきますから、私の診療所へ行きましょう。すぐ近くです」

 猫医者がいたのは、彼のお気に入りの場所である松ヶ枝橋であった。診療所はそこから二分も歩けば、たどり着ける。

 大船も中に入った。

 碁盤の広さくらいで、腰の高さくらいしかない診察台に、今まで宝物のように抱えてきた猫の死骸をそっと置いた。

 駿次郎が優しく布を取り払い、死骸があらわになったが、さすが猫医者というべきか、全く顔を背けたり、しかめたりしなかった。死臭は明らかに強まっていた。

「もう生き返ることはありませんが、どうしても弔いたくて」

 と、橋の上でも話したことを繰り返した。

「わかるような気がします、そのお気持ち」

 駿次郎は、同情したのか、微笑んだ。

 それはいいが、ここからどうするのか、大船には全く見当がつかなかった。供養してくれる寺でも紹介してくれるのだろうか。黙って死骸を見ていると、駿次郎は猫の爪を切り始めた。

 前脚、後ろ脚それぞれの指の爪をすぐに切ってしまった。そして薬包紙に爪を全部入れて、薬と同じように包むと、大船に差し出した。

「形見として取っておきたくはありませんか?」

 差し出された小さな包みを見ると、急に胸が震えて、涙があふれてきた。

「残念ですが、この猫の死骸は、海に流すしかありません。水葬ってやつですね。猫に墓を用意してくれるお寺もなければ、勝手に死骸をどこかに埋めるわけにもいきません。せめてものお弔いならば、もっと町はずれに出て、誰にも見られないように、そっと海に葬るしかありません。ですが、この形見さえあれば、この猫はあなたの心の中で生き続けます」

 男泣きに拍車をかけるような駿次郎の言葉に、大船はなりふり構わす、声をあげて泣きじゃくった。

「遅くなると、死体が腐りますから、今晩にでも出かけませんか」

 大船の涙が出尽くす頃を見計らったように、駿次郎が声をかけた。大船としても、明日は出社しないといけなかった。別れはツラいが、いつまでもこのままにしておくわけにはいかなかった。それに何よりも、この猫医者が「形見」をくれて、「これがある以上、いつまでも心の中でこの猫が生き続ける」とまで言ってくれた。心強い言葉だった。

 一日歩き回って、時間のことなど忘れていた。診察室にかかっている時計を見ると、四時前だった。

「いますぐ行きたいところですが、あなたはお疲れのようですね。茶菓子を用意しますから、それを食していきましょう。猫との最後のひと時を過ごす意味も込めて」

 駿次郎は奥へ入っていった。

 大船は、立ったまま待たされた。不思議と疲れを感じなかった。目の前の猫から力をもらっている感覚まで覚えた。

 つい昨日、出会ったばかりの猫。それまで何の縁もなかったのに、なぜ自分はここまでこの猫に愛情を感じるのだろう。単に自分が命を奪ったからだけではなさそうだった。

 残酷ではあったが、このような出会いを迎える運命だったのかもしれない。神や仏に深い信仰心はないが、これほど運命というのを意識したのは、生れて初めてだった。

 猫も死にはしたが、自分に会うために死んだのではないか。奇妙な考えだが、否定する気も起きなかった。

 猫を轢いたあの辺りは、ほとんど埋め立て地だった。あんなところに猫が自生しているはずもないことに、いまさらながら大船は気づいた。

 この猫は、人間の密集する雑踏から逃れるために、あんな人気もないところにいたのではないか。あるいは、海の風が好物の魚のにおいでもって、呼び寄せたのか。

 野良猫であることは間違いなかった。しかしもっと、この長崎というまちに生きづらさを感じていたのではなかろうか。生きづらいとき、人間は自殺する手も考える。普段は世界を我が物にして威張っているくせに、内心は弱い生き物である。猫はもちろん、人間以外の動物が自殺するなど聞いたこともなかった。

 この猫は死にたかったのか。

「そんなことあるもんか」

 思い余って声に出してしまった。

 死にたがる猫など絶対にいない。生きていたかった猫を俺が殺したのだ。

 大船は考えれば考えるほど、猫が不憫でたまらなくなり、自分の罪の意識を深くしていった。

「さ、これを食べなさい」

 涙をこらえようと、目をつぶっていて、駿次郎が目の前にいることに気づかなかった。今考えたことを読み取られていたのでは、とまで勘ぐってしまった。

 駿次郎の顔を見ると、穏やかそのもので、表情からは何も読み取れなかった。手には一つ小皿と湯呑みを持っており、皿の上には大福が二つ乗っていた。

 駿次郎が、診察室と茶の間を仕切る上がり框に座るよう勧めたので、それに従い座って、大福を頬張った。忘れていた空腹感がよみがえり、一気に平らげてしまった。正直、もっと欲しかったが、さすがに言えず、暖かい茶で腹を満たした。

「疲れは取れましたか」

「はい。おかげさまで」

「それでは、参りましょうか。今から行けば、ちょうどよい頃に弔えるでしょう」

 壁の時計はまだ四時半にもなっていなかった。

 外はまだ明るかった。その中を和装の駿次郎と、羽織を羽織った大船が、白布に包んだ猫を抱いて、二人だけの葬式行列とばかり歩いていった。

 駿次郎は、南のほうへ向かった。繁華街とは正反対のほうだ。道は細くなり、雑草が生い茂っていた。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 猫を抱きしめながら、大船は念仏を唱え始めた。それを優しいまなざしで駿次郎が、振り返って見た。

 小菅のそろばんドッグを過ぎ、国分町を経て、戸町(とまち)の遊郭を通り過ぎた。遊郭もそろそろ、明かりが灯る頃だった。

 闇は確実に濃くなっていった。

 もうしばらく歩いて、幕府時代に港の警備に当たった番所跡の手前まで来た。そこから駿次郎はわき道にそれ、草をかき分けながら進んでいった。

「もうすぐですよ」

 念仏をずっと唱えていた大船は、いよいよ猫との最後の別れが来ると、胸が熱くなった。

「ここです」

 進んだ先には、海が広がっており、港の対岸も暗かったが、うっすら見えた。何の手も加えられていない岸には、凪いだ波が次々と寄せては引いていた。

「私も猫医者をやっていますが、不幸にも助からなかった猫たちをここから西方浄土へ流しているのです。ちょうど山の陰になって、誰からも見つかることもありません。私だけの猫の墓場です」

 大船は包みにまた頬ずりをした。

「ごめんな。向こうで元気に走り回っておくれ」

 そして、誰から言われるまでもなく、波打ち際に猫を置いた。猫を包んだ白い塊は、待っていたように波がさらっていった。

 沖に浮かぶ猫に、大船は手を合わせた。駿次郎もまた。

 目を開くと、しばらく白いものが暗い波間に浮かんでいた。段々と沖に運ばれていく。じっと見ていたものの、沈んだのか、闇が消したのか、やがて猫は見えなくなった。

「浮かばれましたよ、あの猫さんも。すべてあなたのおかげです」

 駿次郎が不気味なほど落ち着いた声をかけてきた。大船はもはや、涙を流すことはなかった。むしろ、無事に弔うことができた安ど感に支配されていた。

 大船はいつまでも、そこを動こうとしなかった。周囲は完全に真っ暗だった。駿次郎もせかすことなく、大船の気持ちのままにその場にとどまった。提灯は用意してあった。

 だが、火を灯すには、まだまだ時が必要であった。

―了―

 猫診療所に、制服姿の若い警察官が駆けこんできた。腰にはサーベルを下げていた。

「何事で」

 すっかり肝を抜かれた大磯駿次郎は、冷や汗をかきながら、警官に問うた。

「私は、梅香崎警察署の巡査、安土(あづち)(なお)()であります。猫の騒ぎがあるときは、まずはここへ参れとの署長命令で、立ち寄りました」

 梅香崎警察署の署長は、大津慶三郎という親しみの持てる人物に代わっていた。その大津警視が、自分を頼りにしていることに、驚きと喜びがない交ぜになった複雑な気持ちになったが、そんな感慨に浸っている余裕はなさそうだった。

「猫の騒ぎとは、何があったのですか」

「はっ。実はすぐそこの長崎ホテルで、イギリス人宿泊客が猫と同伴で泊まりたい旨を告げて、それを拒否するホテル側と、一悶着起きているそうなのでございます」

 安土巡査は背筋をまっすぐ伸ばしたまま、上官に報告するかのような姿勢で事態を告げた。

「それに私が何のお役に立つのでしょう?」

 駿次郎にとっては、これは猫医者の出番だとは、とても思えなかった。民間人同士の悶着など頻繁に起こっていた。それに警察が介入するかしないかは、自分には関係ないし、この事案も猫が絡んでいるとはいえ、なぜ獣医学の知識を持った者が必要なのか、皆目理解できなかった。

「とにかく、署長はここへ来いと」

 無理難題を突然持ち掛けられた駿次郎には、何の解決策も浮かばないが、一方で、大津警視は信頼できる警察官で、期待を裏切るような真似はしたくなかった。

「とりあえず、現場に行ってみましょうか」

 渋々、長崎ホテルまで安土巡査と駆けていった。

 玄関に入るそうそう、フロントでそのイギリス人とみられる婦人と、ホテルの支配人らしき男が、揉めている様子が見えた。揉めると言っても、イギリス人婦人が大声で、英語をまくしたてているのに対し、支配人がへりくだって、こちらも拙い英語で説得しているといった状況だった。

 警官の姿を見るなり、支配人が飛んできた。

「何とかお願い申し上げます。当ホテルでは猫など動物の同宿は禁止しているのでございます。他のお客様へのご迷惑もございますし、なんとか事を収めていただけないでしょうか」

 黒の背広に蝶ネクタイ姿、そして髭を生やした支配人は、今にも泣きそうな顔で安土巡査の腕にすがりついた。

 駿次郎はなぜホテルがこのような問題を警察という、公権力に頼らなければ解決できないのか、情けなくなった。

 お(かみ)が何とかしてくれる。

総じて日本人にはそんな意識がどこかに潜んでいないか。争いごとを好まないのは、我が国の人間に際立って見られる習性だが、争いごとを避けて暮らすことは無理だ。それを争いが起きるたびにお上に頼ったのでは、日本人はいつまでたっても権力から独立できない。

そんな気持ちで支配人を見ていた。

「私は英語が話せないのだが」

 すがりついたまま、離さない支配人に対し、安土が迷惑と言わんばかりの顔で嘆いた。

 それは警察も困るだろう、などと駿次郎は、安土に同情した。

「通訳は私がやりますから」

 というわけで、支配人の通訳を介して、安土の説得が始まった。

 しかし、イギリス人婦人は決して引かなかった。

「私の国では、猫だって一緒に泊まれます。日本ではダメというけど、欧米では当たり前のことなんですよ」

 婦人の言うことも、多少割り引いて聞かねばならないと思ったが、猫をはじめ動物愛護に対する意識は、間違いなく欧米は日本より格段に進んでいることを駿次郎は知っていた。

「しかしですねぇ」

 安土も難儀していた。決まりだからと繰り返すしか、説得の材料がなかった。警察だからと高飛車に出るわけにもいかなかった。相手は列強国のイギリス人。下手に強引なことをすると、国際問題になりかねなかった。

「どうしてそのような決まりがあるのですか」

 と逆質問されて、支配人の顔を安土は見たが、顔を背けられるだけだった。要するに支配人も明確な答えを持ち合わせていなかったのだ。

「ちょっといいですか」

 堪らず駿次郎が日本語で割って入った。支配人に通訳を願った上で、自分の思いを告げた。

「日本はまだ動物愛護の精神が未熟です。三等国だと笑いたければ笑ってくださって結構。私は猫の病気を診るのを仕事にしています。しかし、誰も猫を医者に診せようという人はいません。これでおわかりになりますよね。どれだけ日本が、動物に対する意識を持っているか」

 いったん言葉を切って、婦人の様子をうかがった。まっすぐにこちらを見て、話に聞き入っているようだった。

「今は我慢してください。しかし、やがて日本も、あなたの国に負けないくらい動物の命や存在を尊重する国に変わりますから。私もそうなるよう、いつも努力しています。もう少しご辛抱ください。今回は、この猫は私のところで預かります。必ず、大切に致しますから、今日のところはこれでご勘弁を」

 そう言って、頭を下げた。

 婦人は納得しているのか判断できないような、不機嫌にも見える顔をしていた。

もうこれ以上は説得のしようがない、と駿次郎は思っていた。万策尽きたかと諦めかけたとき、婦人がスッと、猫の入った籠を駿次郎に差し出した。

「今回だけよ。今度来たときには、ちゃんと泊まれるようにしておいてね」

「はい」と、表情を崩した婦人から、大切に猫の籠を抱き取った。

 駿次郎は安土巡査と目を合わせ、ひと段落したと、玄関に向かって振り向いた。そのとき、婦人がやや大きな英語で、背中に言葉を浴びせた。

 何と言ったのか、振り返って支配人を見た。

「頑張って猫の一等国になってね、だそうです」

 婦人は微笑んでいた。

「サンキュー」

 欧米風に親指を立てて、駿次郎は意気揚々とホテルを出た。

―了―

 駿次郎の日課ともなった、猫医者を宣伝しに、自転車で長崎市中を回ること。後ろには大量の診療道具が積んであった。

 たまに見かける弱ったり、ケガをしている野良猫を見かけると、手当てしてやった。もちろん無償、誰も診療代など払う人など居なかった。

 きょうも客が見つからないまま、うろついていると、片目が潰れた猫を見つけた。片目が潰れようと、懸命に生きる猫の生命力には、毎度のこととはいえ、駿次郎の胸に迫るものがあった。

「どれどれ、兄さんが診てあげよう」

 猫は薄汚れており、野良猫のようだった。診療代のことは考えず、診療を始めた。

 潰れた右目に、ガーゼに浸した消毒液を当てた。少し逃げようとしたが、素早くふきあげるとすぐにおとなしくなった。

 眼窩(がんか)を触診すると、眼球は飛び出てしまい、失っていた。たとえ、眼球が残っていたとしても、こう潰れてしまっては、もとには戻せなかった。

 ほかに傷などないか、体の毛をかき分けながら診ていると、後ろに気配を感じた。少し恐ろしげに振り向くと、洋装で、茶色のコートを羽織り、同じような色のネクタイを締めた紳士然とした中年男性が立っていた。髭もきれいに整えてあった。

 なぜ自分を見ているのか、戸惑っていると、紳士のほうから話し出した。

「君は猫の面倒を見ているのかね?」

 目下の者に対する口調は、気に入らなかったが、

「ええ、私は猫医者で、こうやって猫の治療をして回っているのです」

 と、親しみを込めて話した。

「猫医者?」

「はい。きちんと獣医の免許も持っていますよ。免状は家にありますがね」

 紳士は疑っているようには見えなかった。

 駿次郎は東京帝国大学で獣医学実科を卒業して、免許を得ていた。帝国大学卒業生は、試験もなく、自動的に卒業と同時に獣医師免許が付与されていた。

 もちろんそんな学歴など話すつもりはなかった。

「儲かっているのか」

 紳士が不審げな顔で訊いた。駿次郎は肩をすくめて、

「さっぱりです」

 と、言うばかりだった。

 すると、紳士は何やら考え込むしぐさを見せた。

「猫に餌をやってみます。食欲があるか調べるためです。一緒にご覧になりませんか」

「見てみようか」

 駿次郎は、獣医が病気の猫に特別に与える、栄養が豊富な粒状の餌を、猫の目の前にパラパラとまいた。猫はよほどおなかが空いていたのか、わき目も振らずに食いついた。そして、あっという間に食べ尽くした。

「食欲はあるようだな」

 そう言ったのは、紳士だった。

「だが、どうせまた腹が減るだろう。誰も餌などやりはしないのだから」

「それが問題なんですよ」

 わざと大げさに困ったような表情で、駿次郎は言った。

 そんな会話を交わしつつ、駿次郎はこの男は何者だ、と疑念を膨らませていた。悪者ではなさそうだ。服装から見るに、まともな職に就き、ある程度地位も高そうだ。そしてあまり長崎弁を出さないところから察すると、よそから来たのか。

「役所は何もしないのか」

「まったく何も」

「そうか」

 と、紳士は中途半端に会話を打ち切って、どこへやら去っていった。

「また会おうな」

駿次郎は、元気を取り戻した猫を撫でて、紳士のことを気にしながら、自転車に乗った。

その翌朝だった。

人力車の人夫を稼業としている幼なじみの二宮松之助が、仕事前に猫診療所に立ち寄った。

「今日の新聞見たかい?」

「いや、まだだ。何か起こったんか?」

 奥から新聞を持ってくると、松之助がその紙面を開いた。

――県警察部 知事へ鼠駆除に猫活用を建議

「猫が世間に必要になったってことじゃ?」

「ちょっと待て。よく読むから」

 記事は三段ほどで、長崎県を統括する長崎県警察部が、市中に鼠がはびこるのはよろしくない。そのため県知事に鼠退治に猫を活用してはどうか、との建議を出したとのこと。また警察部は、猫の習性に詳しき者は、警察署へ出頭すべし、と市民に申し渡した旨、書かれていた。

「行って来いよ」

 駿次郎は気が引けた。威張る警官のもとへ、へりくだって出ていくのは、性に合わなかった。しかし、松之助が言う通り、猫が社会に必要とされる契機になるかもしれない。そう思うと、黙って見過ごすのも惜しかった。

 期待はあっても、気乗りのしない足取りで、(うめ)香崎(がさき)警察署の玄関の石段を登っていった。

中へ入るといよいよ緊張が激しくなった。

「大磯殿。こちらへ。署長がお待ちです」

 川崎とか言ったな、ここの署長。何度威張り散らかした姿を見たことか。

「連れてまいりました。さ、中へ」

 できることなら、顔を合わせずに用事を済ませたかった。しかし、それは無理と覚悟を決めた。

「大磯殿、何日ぶりかな?」

 どこかで聞いた声だった。川崎警視とは違った。

 恐る恐る顔をあげると、あの片目が潰れた猫を診察していたときの紳士だった。

「あ、あなたは……」

「今度、梅香崎署の署長に任命された警視の大津慶(おおつけい)三郎(ざぶろう)だ。猫のためによろしく頼む」

 あろうことか大津警視は頭を下げた。

「あ、あ、あ……」

 会話にならなかったが、ゆっくりと事案は練り上げられていった。

 猫が徐々に社会に認知されていくように。

―了―