感動フリーライター 山口拓朗
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MYツイッター語録(2010年4月後半)

「マジ」という言葉は「真面目」から「目」が抜け落ちた略語。軽さが好まれるこの時代、もはや目の真剣さは問わなくなった、ということだろうか? その抜け落ちた目のことを何というかというと駄「目」という。

笑いたいときは笑い、怒りたいときは怒り、泣きたいときは泣けばいい。限度こそあれ、喜怒哀楽の感情を抑制するのはよろしくない。ただ、くじけたいときだけは、簡単にはくじけてはいけない。なぜなら、それは喜怒哀楽ではないからだ。くじけたいという気持ち、それは感情のふりをした試練である。

「我ながらいいことをつぶやいたなあ。うふふ」と思ったとき、思わずmeigenのハッシュタグをつけたくなる。でも名言は他薦というのが暗黙の了解で、自薦というのもどうなのかなあ」と迷う。迷う。迷う。そしてつける。未来の名言のために。

「憧れ(あこがれ)」の「憧」の字を分解すると「童心」となる。「憧れ」には、子供時分のワクワクがある。それがない場合は「うらやみ」か「ひがみ」の可能性がある。

<世の中>は重箱のような「入れ子構造」になっている。たとえば、ミクロな<世の中>の代表例がツイッターである。<世の中>はシンプルだ。そして、シンプルゆえに奥が深い。そこをスルスルと歩くには「本質」というチケットが必要なのだろう。金券屋ではまず手に入るまい。

「袖振り合うも多生の縁」の「多生」とは、仏教用語で前世の意味。現代に置き換えるなら「フォローし合うも多生の縁」ということになるのだろうか? 「袖が触れ合う回数」と「フォロー数」じゃ数に差がありすぎ?笑

あまりにも性急に恩返しをしようとするのは、一種の忘恩行為だ。byラ・ロシュフコー(フランスのモラリスト文学者)

それは完全に不意打ちだった。夕方、9歳の娘が突如訊いてきた。「ねえ、4年生で生理になるの?」 以下、パパ(私)とのやり取り。「えっ?…なる人もいるかもね。あとでママに聞いてみようか」「うん。ねえ、生理って何?」「赤ちゃんを生むための準備みたいなものだよ」 続く。

「男の人に生理はないの?」「ないね」「じゃあ、女の人のほうが偉い?」「偉いと思うよ」「ふーん。赤ちゃん生むとき痛いのかな?」「痛いみたいだね」「痛いの嫌だな…」「でも赤ちゃんに会えるから嬉しいでしょ?」「ああ、そっかー」 終わり。自己採点60点くらいかなあ(笑

神聖ローマ帝国が「話し声を聞かずに育った赤ん坊はどんな言葉を話すのか」という実験を行った際、最低限の世話しかしなかった(抱っこもなし)赤ん坊は、全員1年以内に死んだという。皮肉なことに、人間が生きるうえで「愛」が必要なことが証明されたのだ。自殺大国日本はこの実験結果をどう見る?

「自意識」ではなく「誇り」をもとう。「ギャンブル」ではなく「冒険」をしよう。「誇り」や「冒険」にあって、「自意識」や「ギャンブル」にないのは、たぶん、おそらく、きっと「責任」ではないだろうか。

朝から自分を含めた家族3人が口を揃えて「のどが痛い」というではないか。これはマズイと思って、午前中はトイレと玄関を入念に掃除した。病は気からの「気」は、本来、内面の「気」を指しているのだろうが、あえて外側の「気」から手をつけてみた次第。

行動することも大事だが、行動の動機はもっと大事だ。「~をしたい/~をしよう」という積極的・能動的な動機であれば100点だが、「~をしたくない/~させられている」という消極的・受動的な動機であれば0点だ。否、0点は何もしないときだから、マイナス100点だ。

感謝の「謝」は「言葉で射る」と書く。射るのはどこか? もちろん相手の心だろう。つまり、言葉で相手の心を射れなければ、感謝したことにはならない。心で思うだけの感謝を自己満足という。

ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て引力を発見したことは特筆すべきだが、それ以上に特筆すべきは、ニュートン以前に、誰ひとりとして木からリンゴが落ちることに疑問を持たなかった、という点ではないだろうか。

以前、知人の女性と、子供を産むなら男の子と女の子のどちらが欲しいか? という話をしていたとき、女→男の順で欲しいというその女性が自身満々にこう言い放った。「えー、だってよく言うじゃん。『一姫二太郎三なすび』って!」

同じ知識や考え方でも、人から与えられたものと、自分でつかみ取ったものでは、その性質はまったく異なる。前者は「鎧(よろい)」であり、後者は「筋肉」である。隆々とした筋肉のうえから鎧を纏ったとき、最強の自分が出来上がる。

防衛費を大幅に削減せよ! 国じゃなくて、自分、つまり自己防衛費のほうね。弱点があってもいいし、弱点を攻められてもいい。そもそも弱点は弱点ではないし、攻められたと思ってるのは自分だけで、相手は攻めたと思ってないし。

人が「私はダメだ」というとき、その「ダメ」が何に対してのものなのかを明確にしたほうがいい。ダメの対極にあるもの、それはおそらく世間的に言われている何かや、自分が勝手に想像(期待)した何かではないだろうか。「ダメ」なのは「その考え」であって、断じて「私」ではない。

文章を書くとは、自分の考えを「変換」する作業であると同時に、自分と他者(読み手)を「媒介」する作業でもある。後者を意識したとき、ほんの少し文章に旨味が出る。

イチローや野茂を育てた仰木彬監督。清原が全幅の信頼を寄せていた仰木監督。氏の逸話はいろいろと残されていますが、私にも仰木監督との忘れ難い思い出がひとつだけあります。仰木監督が亡くなられた翌日に書きました。
http://bit.ly/d2nkFl

人間は言語以外(表情、仕草、声音など)が意思疎通の大部分を担っている(という研究結果がある)。にもかかわらず、言語が意思疎通の主役だと思っている人は少なくない。人間の言語などまだ歴史の浅いひよっこ。「目は口ほどにものを言う」の諺が消えたときが、言語の成人式ということになろうか。

言葉はいつでも紙一重。「はい」という相づちは肯定・同意の意味だが、「はいはい」という相づちには、肯定・同意に「しぶしぶ」というニュアンスが付随する。「はい=分かりました」「はいはい=あなたの言うことは分かってるよ。仕方ないないなあ」である。

アウトになってもいいかな、と。あれは自分の判断。アウトになったら怒られる。セーフになったらファンが喜んでくれる。by新庄剛志(04年、ピッチャーゴロで2塁から生還した走塁について)