「様々なる意匠」としての「からごころ」、イデオロギー、

 

小林秀雄は、デビュー論文から、最後の「本居宣長」まで、変わらない、のかも、

 

ペテルブルグの、妄想的リアリスト、ドストエフスキーを友として、

時に、志賀直哉を、訪ねてみたり、中原中也と、女を争ったり、

青山二郎に、泣かされながらも、骨董に狂う、

「やまとこころ」、純粋な心、何も無い心、は、とりあえず無いとしても、

四季と共に、自然と共に、一体となった心、人と神と自然が、一体になった世界、

美しい、こころ、美しい国、美しい世界、

ほとんど、日本会議か、みたいな話だが、まあ、そういうこともある、

もののあわれ、もし、物、だけならば、あわれな、エモさは、ないだろう、

さびし、わびし、日本、もちろん、他の国とて、同じ、なはずだが、自己がある、

日本人は、自己が無い、と言われ続けている、

やまとこころ、の名残か、自然と、人々と、溶け合って、交じり合って、

当然、良いこともあれば、拙いこともある、

強い不安を感じる人、一人でおれない人、

人は、夢をみる必要がある、ロマンチックな、こころ、イデオロギー、

からごころ、そんなものがないと、生きづらい、   2024.8.22.

小池百合子、石丸伸二、蓮舫、田母神俊雄、この4名の名前は、たびたび、
テレビで流れていた、


先日、ある会合で、たまたま、横に座った人と、都知事選の話しになった、


一通り、一般的なことを話した後、その人は、内海聡、を注目していた、と言う、


12万票余りを、獲得し、第6位、


その経歴を、辿って行くと、ビックリする人に、出会った、
 

笠洋一郎、松山、ごかい、をサポートしていた、精神科医、
 

ごかい、松山市にあった、老舗、精神障碍自助グループ、


わたしが、この業界に、関わり出してから、もちろん、その前から、
 

有名な、過激なグループであった、
 

京都、前進友の会の、エバッチさん、彼のフェイスブックによると、
 

笠先生は、ウエブサイトにて、セカンドオピニオンを始めて、時に、断薬、を試み、
 

なにかと、問題があったようだ、
 

そこらへんで、内田医師が、投合し、そして分かれていったみたいです、
 

内田さんの経歴をたどると、なんだかなあ、と思ってしまった、
 

それより、安野貴博さん、15万票あまり、第5位、
 

新世代の、柔らかく、暖かい、感じが、いいなぁ、    2024.8.11
 

 第ーに富子さんが亡くなったこと、その記事を目にして、私はー人声を上げた、「エーッ」と。想い出がよぎる。『チントン』の『困づたちゃん達へ愛をこめて』を思い出す。読み捨てならない文章だった。

 

 病院での仕打ち。どんなにか悲痛なことだったか。恨んだことだったか。仕打ちをした人達の非道さに心が重い。この人達(憎むべき)を『困ったちゃん達』と表現された真意は何だろう?さらに『愛を込めて』と続く。ひとつの『アバキ』という復習か?

 

 でも、『困ったちゃん達へ愛を込めて』の表現は、健常者といわれ、高みに立って、障害者を見下し非道さを行うというそのところに、彼等彼女等自身、富子さんを傷つけ〇ら、同時に自らの人間であることを疎外し、傷つけ、自らを破綻させている、その加害者をあわれみ、悲しみ、彼等彼女等の解放を願うが故の『困ったちゃん達へ愛を込めて』であったのではないかと思いめぐらしている。確か、彼女は『私達を精神障害者と言ってほしくない。私達は精神病者だけれども・・・』とか言っておられた。14才で入院以来それこそ辛酸をなめ、悩み、そこから彼女は精神病者のまま、人間として、人間を探求していたのかと思う。

 

 そりゃ誰だって人間を探求していない人はいない筈だが、富子さんの書かれたものは私の心に響いていた。全国の精神障害者がつながろうとの全国組織が出来、広島県でも組織作りをとの呼びかけが確か『ほいじゃけん通信』のはじまりだったと思う。その立ち上げにグッと力になっていたであろう富子さん。お互い、障害者(富子さん流には精神病者)がつながり合い、励まし、支え合い、ふれ合い、そして声を世間にアピールして、『人間』を確認するということであったろうか。

 

 これが有縁の人々のオアシスネットになってゆくこと、そうさせてゆくこと、そこに富子さんの願いがあり、富子さんのいのちがあり、そこに富子さんは死んではいない。今も、これからも生き続ける。昨年、入院前、はじめで夫婦で来訪され、うれしかった。調子が悪いというのに、よく笑顔でしゃべり続けられた。調子が悪いから、そうなられたのか。帰られてまもなく入院され、とうとう。多分、あの出会いが、はじめての最後だったか?今は、私は富子さんの願いをいささかなりとも私の心の中にうけついでおきたいとは思っている。

 

 

 

 僕が斉藤富子さんと初めて知り合ったのは2002年頃だったと思う。ある人の仲介でがんぼネットの例会に初めて参加した。その時、初めて斉藤富子さんという圧倒的な存在感を持つ人間と選遁した。彼女が他界したのは2005年1月2日の事だった。三年ほどの短い間の付き合いだったけれど、僕にとって、富子さんというキャラとの出会いはかなりの衝撃だった。エールエール屋上のビアガーデンの時だったかな・・・富子さんはほとんど初対面の僕に面と向かって「がっきーの化けの皮を剥いでやるよ、私は人間の本性を暴くの得意なの。」と開口ー番言われたときのことが昨日のことのように感じる。

 

 

 そのときは正直、面食らったものだ。はったりではないと直感的に惑じた。いきなり“がっきー”とあだ名で呼ばれたことも驚きだったが、このとき僕がこの人に深く関わるのは危険だと感じたことは告白せねばならない。富子さんはある種の力リスマ的魅力の持ち主でした。ワー力ー、医療従事者、当事者、関係なく人脈を広げる稀有な才能と魅力の持ち主でした。この人とは中途半端には関われない。とことん関わるか、全く関わらないか、完全に心を開くことなくー定の距離、壁を作って表面的な付き合いをするかで自分なりに悩んだ。とことん関われば恐らく相当彼女から得るものはあったでしょう。それだけの引出しを持った人でした。

 

 

 しかし、それはかなりの心のエネルギーが必要になることは明らかだった。当時の自分にはそんな元気は無かった。僕は、彼女とはー定の距離を置いて関わることにした。斉藤隆生、富子夫姿が中心となって運営している当事者会、がんぽネットに僕が役員として関わり出したのは三年程前の総会で、富子さんが「あたしら夫婦だけでやるのはもう限界なんよー!!」と叫んだのがきっかけだった。その叫びに触発されて僕もただのお気楽ながんぼの“お客様”ではいけない、少しでもがんぼネットに協力しなくてはと編集委員に立候補したのでした。2005年度は会計にも立候補しました。これは、富子さんへの追悼の気持ちからでした。僕の中ではがんぼネットと富子さんという存在は切り離せない。口に出すことはほとんど無いけれど、がんぼネットの活動に関わる時は常に富子さんのことが脳裏にあった。僕が最も精神的危機に陥っている時も彼女らしいストレートな表現で、励ましてくれた。

 

 

 あの時、どれだけ救われたか…。僕は生者よりも死者の方に圧倒的に親近感を感じる。ほとんどー年365日、死者のことばかり考えている。自分自身、死の世界に片足を突っ込んだような生き方をしているせいかも知れない。僕の病気の症状なのかも知れないが、自分は夢と現実の区別がほとんどつかない。というより現実よりも毎夜見る夢の中の方がはるかにリアリティーを惑じる。現実はほとんど感覚が死んでいるが、夢の中でははるかに感情が生き生きとしていて目覚めると涙を流していることもしょっちゅうだ。夢の中で富子さんと会うこともある。「がっきー、元気してる~?」なんて言いながらひょっこり現れる。だから、生前の富子さんの思い出と今なお僕の夢の中に登場する富子さんは渾然一体となって、もはや僕には区別できないし、区別する必要も感じていない。いつかまた別の次元の世界で再会することを楽しみにしています。

 

 

 

 このコーナーも約3年続いた。ネタがなくなったわけでもないが、もうくどくなったかなーっと今回で一応最終回である。全国のファンのみんな声援をありがとう(誰も声援なぞ送ってないって?)今回は、特別編。ちんとん先生が、まだ18歳のうら若い乙女の頃の恋の話だ。ファンの期待を裏切り、医療批判少な目(まだ医療批判すんかい)の柔らかいバージョン、それも2ページ特大版。途中でだるくなるかもしれない。その時は、コーヒーでも飲んで、読んでくれ。題して。

 

-あのころ確かに恋してた―

 

 1980年、8月6日。私は、総合病院の精神科に入院した。私は、18歳だった。高校三年生だ。本当なら、受験や就職活動で忙しい頃。私だって忙しくしたかった。私だって行きたい大学があったし、みんなと塾とか行きたかったよ。でも、病気の方が忙しかったんだ。

 

 

 入院して、まず何だか怖かった。精神科は初めてじゃないのに、何だろう。今でも、再入院する時は、そんな気持ちになる。やっぱりどんな開放病棟でもどこか精神科という場所は閉鎖的なんだと思う。ここも超開放的な病棟だったが、なーんか社会と遮断されたような、その時も窮屈なような変な気分だった。

 

 

 入院したその日、一緒に付き添ってきてくれていた母も帰り、何をしていいか分からず、ベッドの上でぼーっとしていた。ぼーっの訳はもう一つあった。私は禁止でコンタクトレンズをつけていたのだが、その時、コンタクトをはずしていた。そのぼーっとした視界に一人の白衣を着た男性がやってきて、「今日から担当になる森山です。よろしく。」とそれだけ言って、ささっと帰っていった。子供ながらに『よくもまー、あんな簡単な挨拶があったものだなー』と変な感心をしたが、それが、私の1980年を変える初めだった。

 

 

 その夜、私はコンタクトレンズを付けていた。そこへ担当医の森山先生が現れた。彼は今晩、当直らしい。ハッキリした視界で見ると、彼は好青年だった。そしてニコニコ笑ってやってきた。入院したばかりの私は、話し相手もいないので、気を使ってくれて、色々話をしてくれた。

 

 

私も先生の話につられて、色々先生の学生時代の話なんかを聞き出したりした。中学、高校と陸上部、大学はラグビー部、「僕は、スポーツマンよっ」と言っていた。広島弁丸出しの森山先生は、大学は東京の大学だったというので、「先生、東京ではやっぱりあっちの言葉話してたん?」と聞くと、「そりゃーねー」というので、当時、私は標準語を話す人をあまり見かけなかったので、珍しいので「しゃべって、しゃべって」と(多分、テレビのドラマの口調だと思うのだが)いうと「広島で話すといやみに聞こえるけんねー」と、しゃべってくれなかった。

 

 

こういうたわいもない話を消灯までしていた。先生で見れば、担当の患者の情報収集だったと思うが、恋多き年頃の私は、心の幼い私には、そうは思えない、夏なのに何だか寒々としたこの病棟に楽しみを見つけた。多分、この時この医師(研修医だったが)に恋をしたんだろうと思う。

 

 

森山先生は、毎日診にきてくれた。私に限らず、研修医はみんな担当の患者を毎日診ていた。診るといっても、面接という感じじゃなく、普通にデイルームや病室で話すという会話みたいな感じだ。毎日会えるというのは、嬉しい。ただ、月曜日だけは、森山先生は出張で、よその病院に研修に行く。私は、月曜日のたびに、不調だった。

 

 

でも、意識はなかった。無意識に先生を好きだった。会えない日は、しこしこと先生に手紙を書いていた。そういう平和な日が続いたある日、病院から学校へ通うという話になって、私も勇んで学校に行ったのだけど、思うようになく、「学校へ行かないっ」と言い出した。でも、看護婦のさんは、無理やり朝起こし、送り出した。あんまり辛いので、ついついカミソリで手首を切ってしまった。看護婦さんは、「それくらいの傷は、ただの嫌がらせじゃね」と言う。悲しかった。ベランダで泣いていると先生がやってきて、その話をすると「どの看護婦が言うたんや!!」怒り始めた。私はひどいことを言われたけど、こうやって私のために、怒ってくれる先生を、とても心強く感じた。

 

 2回目、また死のうと思ったとき、先生は、私の手首をつかんで、「もし、岡野が不安だったら、僕が一生、外来で診てあげる。だからもう、こんなことせんで!!」と言ってくれた。でも、その内、バチが当たってしまったのだ。あんなに真剣に私の病気をよくしてくれようと頑張ってくれる先生に対し、私はいつも不真面目で、前向きじゃなくその場限りの話ばかり・・・。

 私が先生の想いが募りすぎて、、意識的にも「森山先生がすきっ」という感情が湧いてきた。なかなか眠れないので、キツイ睡眠薬を飲んで寝る、キツイ睡眠薬は、よく眠れるけど、次の日すごく興奮する。(私はキツイ睡眠薬を飲むと、今でも翌日興奮する)

 

 

 そんな日が続いたとき、ちょうど連休があり、先生は2日病院に来なかった。私は余計に興奮し、そして寂しく・・・。病棟から出て、ビールを2本飲んだ。今なら、全然大丈夫な量だけど、当時はお酒もそんなに飲んだことない。そしていいお酒でもなかった。病棟に帰って、当直の先生にでも話を聞いてもらおうとしたけど、全然相手にしてくれない。あんまり腹が立つので、その先生を平手打ちでひっぱたいた。その先生も若い先生だったので、カーッとなり、私を殴った。大騒ぎになった。そして、まさかのその病棟に保護室なんてないと思ったら、普段、普通の病棟として使っている部屋で保護室にもなる部屋があり、そこに2泊3日閉じ込められてしまった。

 

 その事をきっかけに、森山先生は私の担当をはずれた。私も先生が好きという感情を看護婦さんに話したしね。もう、病棟で顔を合わせても口もきいてもらえない、目も合わすこともない、病棟で、先生と楽しく過ごした日を懐古していた。お正月が来て、家の事情で、その総合病院から近所の精神病院に変わり、先生と顔を合わすこともなくなった。

 

 

 それから何年も森山先生の消息を探した。一つには、私の事で自信をなくし、医者を辞めたんじゃないかって心配もした。だって、まだ研修医だったんだから。

 

 

 私が結婚して、先生の消息が分かった。一泊研が病院にカンパを募った時、その森山先生が郵便振替にてカンパをしてくれた。懐かしい字だった。広島市の郊外で今でも精神科医をしている。手紙を送ったら返事の中に「あなたの容姿、姿を鮮明に覚えています」と書かれてあった。ちょっぴり恋をした甲斐があったようなくすぐったい想いで、それを読んだ。

 

 

                            ちんとん・最終回 END

 

次号は新企画で登場!!いつもの辛口よ。容赦はしなくてよーー。