昨日仙台の人に初めて被災地の実態を聞きました。僕は東北から遠く離れたところにいるため、マスコミ以外全く被災地のことはわかりませんでした。
三月十一日、その人は事務所にいたら、突然激しい揺れが起こり、書棚は全部倒れてしまいました。しかし、建物は倒壊せず、二階の神殿(そこは宗教法人事務所です)は微動だにせず、神様の実在の証に驚かれたそうです。隣の銀行も会社も全て潰れていました。とりあえず隣の中学校の体育館に避難し、一週間ほどして電気がきてテレビがついてはじめて仙台以外青森から福島までの大災害と知り愕然としたそうです。ラジオを持ってくる余裕もなかったそうです。
津波がくるとき、港から遠いのですが、時速百五十キロというスピードの津波の轟音が聞こえたそうです。
津波のあとを歩くと、柱だけ残った建物の二階付近に、流された布団とか引っかかっていて、あと黒いものがあちらこちらの二階に引っかかっていたそうです。黒いものは、人間か犬か宮城牛か判然としません。二日くらいして、自衛隊の人が黒いものを識別に回りだし、人間ですと赤い旗、動物ですと黄色い旗を立てて目印にしたそうです。
津波の土砂に大勢の人が埋まったそうです。自衛隊の人は棒を1メートルくらい土砂の上から刺して捜索し、棒で探り当てると棒の先を鼻で嗅いで、人間かどうか判断し、人間でしたら赤い旗、動物でしたら黄色い旗を立てていったそうです。
毎日遺体を自衛隊の人は土葬したそうです。
遺族に遺体を見せても、遺体は津波でもみくちゃにされ、顔は目も鼻もなくのっぺらぼうで、体の前後の区別すらつかない。男女の区別すらつかない遺体もあったそうで、誰の遺体か確認できずやむなく土葬にしていったそうです。あとで運よく確認できた方は掘り起こすのですが、もちろん骨になっています。
先週ハーレーに乗ったままアメリカ西海岸で発見された遺体についての報道が地元であったそうです。当然溶けて形はのこってないようでしたが。
避難場所は寒く、石油もない。食べるものもない。二日三日して少しずつ石油も食べ物もきたそうです。石油も食べ物も半分を半分にして、それを半分、それをまた半分にして全員に行き渡らせたそうです。水道もないので風呂も長いこと入れず、皮膚はタムシや疥癬にかかったそうです。
通信が復旧すると、来る連絡はだれだれが亡くなったという訃報ばかりだったそうです。二万人亡くなった方のうち、まだ八千人が行方不明、先に述べたように遺体の損傷が激しいことや、まだ土砂や瓦礫の中に埋まっている方がいるからだそうです。
その宗教法人の関係者はなぜか全員命が助かったそうです。しかし、声をかけようにも、「がんばって」とか「だいじょうぶだよ」という言葉自体が、被災地では合わないそうです。皆ただ、顔を合わせると笑ってしまうだけ、笑うしかないという精神状態だそうです。笑うのがとまったらあとは鬱病になるくらいのところまできているそうです。生活基盤を根こそぎ奪われ、三十七万世帯が普通は人が住めないところに仮設住宅を建てて暮らし、銀行も学校もないところで家族の遺骨の入った部屋で寝泊まりしているそうです。復興は仙台のような都市中心部は威信もあるのか早く進んだそうですが、五万人以下の町や村は三月十一日で止まったまま、潰れた家屋や根こそぎさらわれて土台だけの家のままで、全く復興などしてないそうです。
生き残った人の現在は一年と二月過ぎてもこのような状況だそうです。
僕は正直この話をお聞きしてショックでした。想像を超えた災害はこのようなものなのかと、またマスコミはこんなことは全然報道してない。地元の人しか知らない。
考えさせられました。