もう日本というものの姿はない。目の前にあるのは、ただの屍だ。



今日の国家なるものは、構造的に幻想に過ぎない——多くの人がそう指摘しているし、私もそれに気づいた。

日本はもはや、文化圏を共有するだけの、外国経済に深く取り込まれた、自国では大したものが育たない、ただの地域に成り下がった。

叫びすら、もはや意味をなさない。そもそも私がこの国に生まれた時点で、国際社会における立場は不利だった。

いつまでも昔の物語に閉じ込められて過ごすのは、もう終わりだ。

できることは、自身の足元にある人生の充足にすぎない——それはみんな薄々知っている。
しかし、そんな「僕みたいな人間」が大量に生まれる構造こそが、国を弱くしたのではないか。目標もモチベーションも、すべて外国にあるわけではないはずなのに、輝ける場所が日本国内にほとんどなくなった。
国内で育つべき価値観が育たず、みんな国内のことを参照しなくなった。
仮に日本のことが絡んでいたとしても、それは外国から見た日本の像を、日本人がただ消費しているに過ぎない。 だからこそ、人々はより自分に近い場所で充足を感じるようになり、個人主義が加速した。

性というものは、関係性の中で消費されるものへと変容した——まあ、元々そうだったのかもしれないが。

私が言いたいのは、何というのだろうか。

「消費者主権」などという幻想はとっくに崩れ、逆に『消費』そのものが社会の絶対的な支配者、主権者になってしまったということだ。