M には「今月末に渡米」とだけ告げた。

だが、本命は一週間でバラを届けてくれたATだ。

私は航空券を買い、空港直結の最高級ホテルを予約した。「ホテル代も自分で払う。私の好きな雰囲気の場所を選びたいから」
そう告げた裏には、34歳の私が辿り着いた冷徹な戦略があった。

もしロビーで顔を合わせた瞬間、お互いに「何かが違う」と直感したら。

もし彼が、画面越しの熱量とは違う「偽物」だった
ら。

私はその場でチェックインし、翌朝には誰に気兼ねすることなく、再び空港のゲートを潜る。そのまま次の目的地へ、あるいは日本へ、翼を広げて飛び立てるように。


それに、自腹で宿泊先を確保していれば、万が一の時に「帰って」と拒絶できる。

相手の家に泊まれば、逃げ場を失い、主導権を奪われる。
ホテルという「聖域」を自力で持つこと。
それは、自分の意思を貫くための「自由の通行証」だった。

10ヶ月間、黄金のシナリオを綴り続けたMと、2週間の熱量をぶつけてきたAT

二つの運命を天にかけ、私はサンフランシスコ行きの機体に乗り込んだ。


「まずは3日間。いや、数分で決まるかもしれい」
  

琥珀色の檻を抜け出し、自立した一人の女として、私は「現実」という名の戦場へ降り立った。



2021年7月某日、金曜日。


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サンフランシスコ国際空港直結ホテルロビー

万が一の時にすぐ空へ逃げられる「退路」を確保した状態で、私はその場所へ足を踏み入れた。
そこには、仕事を切り上げ、期待と不安に揺れるAが待っていた。
視線がぶつかった、その刹那。
私たちの間に、疑いや戸惑いは一欠片もなかった。

「やっと、会えたね」

どちらからともなくこぼれたその言葉は、知り合ってわずか2週間の男女が交わすものではなかった。

毎日2時間、画面越しに魂を削り合うように話し続けてきた私たちにとって、それは初対面の挨拶ではなく、「魂の再会」だったのだ。

Mと、10ヶ月かけて築いた「黄金色のシナリオ」
は、この「0秒の直感」の前に、あまりにも無力だった。
用意していた「逃げ道」など、使う必要がないことを瞬時に悟った。



ー機体から降り立ち、ホテルのロビーで彼と視線がぶつかった、”やっと、、”と言葉を交わした
その後のことは、長いフライトの疲れのせいか、
正直あまりはっきりとは覚えていない。
ただ、断片的な記憶の中で、鮮烈に焼き付いている光景がある。

再会してすぐ、私たちは空港近くの In-N-Out Burger へ向かった。

「ここのは少し小さいから……」そう言って、彼は In-N-Out の代名詞である
「ダブルダブル」に加えて、もう一つ普通のハンバーガーをトレイに載せた。
二つの包み紙を前にして、少し照れくさそうに笑う彼の姿。

10ヶ月間、画面越しにMが綴ってきた、洗練された愛の言葉よりも、目の前で「ダブルダブル」を無邪気に頬張るAのチャーミングな食欲のほうが、ずっと私の心を解きほぐした。

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けれど、10ヶ月という月日は、そう簡単には私を解放してくれない。
「OK、 今月末に渡米するなら、シカゴへの航空券を送るよ」
沈黙していたMが、土壇場で動いた。彼が送ってきたのは、洗練された愛の言葉ではなく、シカゴ行きのファーストクラスのチケットだった。

ATと出会って3日後、私は予定通りシカゴへ向かおうとした。
「....少し、シカゴに行ってこようかと思っている
の」
その時、目の前にいたAが、私の目を見て言った。

「寂しくなるから、行かないで」

Mattが送ってきた高価なチケット。10ヶ月かけて磨き上げた「完璧な御曹司の妻」という脚本。それらすべてを、ATのたった一言、不器用で剥き出しの感情がなぎ倒した。
私は「寂しい」という、たった4文字の体温に勝てなかった。

「ごめんなさい、体調が悪くなったの。.....シカゴには、行けない」
私はMにそう告げ、彼は航空券をキャンセルした。  「大丈夫か?医者は必要ないか?」と、心底心配そうな声を寄せる。

10ヶ月、一度もビデオ通話を許さなかった彼が、私の「嘘の病」をきっかけに、ついにその素顔を晒した。
画面に映ったMは、整えられた髭を蓄え、知的な光を宿した瞳をしていた。
背後には彼が16歳から積み上げてきた膨大な蔵書が並んでいる。

穏やかで、思慮深く、洗練された立ち振る舞い。

彼は、私が10ヶ月かけて攻略し、憧れ続けた
「完璧なエリート」そのものだった。

「ビデオで通話することなんて、そんなに重要だと思っていなかった」
その言葉を聞いた瞬間も、私は、ふーんとしか思わなかった。

10ヶ月間、文字だけで私を繋ぎ止め、自分の世界に「所有」したつもりでいた彼の慢心が、その一言に凝縮されている気がした。
サイトという顔の見えない場所で出会ったからこそ、真っ先に顔を見て向き合うことが最大の誠実さだと信じていた私。
けれど、彼の「黄金のシナリオ」の中に、生身の私への想像力は欠けていたのだ。

「行かないで」と不器用に感情を漏らしたAT。

「重要だと思わなかった」と涼しげに言い放つM。

この決定的な「温度」の差を抱えたまま、私は数日後、ついにこの「幻想」の正体を確かめにいくことになる。