週刊今川氏真詠草&おんな城主直虎の不都合な真実 Vol.24 4月29日号
(2020/04/22-04/29)


コロナ自粛の連休の今宵も『おんな城主直虎』23話「盗賊は二度 仏を盗む」のお話をば。


イノシシ鍋パーティーの二日酔いに苦しんでいる直虎のもとに小野政次と共に胸毛の近藤さんがやって来ます。


近藤康用は永正十六年(1517)生まれなので、永禄八年(1565)末頃のこの頃四十九歳。当時の平均寿命は五十歳以下だとされるので、老人と言っていい年頃ですが、本編での近藤さんはもっと若く見えます。


それがしは、胸毛の近藤さんは、作劇上息子の秀用と合体させたようなキャラクター設定になったと思います。


『おんな城主直虎』には登場しなかった近藤秀用は天文十六年(1547)生まれ。武田信玄の遠江侵攻の時には、圧倒的な武田の軍勢に井伊谷を占領されますが、夜襲を繰り返したというエピソードがあります。


直政が井伊家を再興し、井伊谷の主になると、家康から直政の寄騎に任命されますが、徳川家の直臣にしてほしいと繰り返し家康に嘆願するも認められず、とうとう直政の許から出奔して、長い間浪人します。


直政死後になって秀忠から帰参が許され、井伊谷藩一万五千石の領主になりますが、子供たちに領地を分割相続させたので、近藤家は五つの旗本家となり、井伊谷周辺を治めました。


秀用は、「人斬り兵部」というあだ名がついた直政の苛烈な性格を嫌ったようですが、直政からすると、近藤家を始め、井伊谷三人衆は井伊家を裏切って家康の進軍の手引きをして、井伊谷を「横領」した憎いかたきだった可能性が高いですwww


『井伊家伝記』など江戸時代の史書では小野但馬が井伊谷を横領した後、家康が遠江に侵攻して小野但馬が誅殺されたというストーリーですが、極めて乏しい井伊谷徳政関連の一次史料からは、小野但馬は「井伊次郎」に影響力があり、おそらく井伊家の代弁者として駿府で活動していた人物という以上のことは分かりません。


一方、遠江侵攻後の家康が井伊谷三人衆に井伊谷の分割統治を認めた書状の写しは残っています。


従って、井伊谷を横領したはずの小野但馬が実は井伊家主流派と懇意で、小野但馬に反発していた反主流派が家康に内通して主流派を打倒し、小野但馬を誅殺した可能性が高そうです。


小野家の「横領」については、大石泰史氏の『井伊氏サバイバル五百年』209頁や、夏目琢史氏の『井伊直虎』99~103頁でも否定的な見解が示されています。


しかし、今川家と共に没落した小野但馬たち井伊家主流派と、家康に与して栄達して反主流派のどちらが正しいとは言えません。


小野但馬たち井伊家主流派は伝統ある今川家と累代に渡って築き上げた関係によって井伊家の存続を図ったのでしょうし、反主流派は主流派に反発し、義憤を感じて離反したかも知れません。


『おんな城主直虎』は、そのあたりの相反する認識をドラマに丁寧に取り込んでいます。


『おんな城主直虎』は、脚本森下さんが江戸時代の史書ベースの通説と、研究者による史料批判をしっかり踏まえた良質の歴史ドラマです。


さて、胸毛の近藤さん、菩提寺のご本尊が盗まれた、犯人は最近井伊家が迎え入れた流れ者だろうとのこと。


対する直虎、龍雲丸はもう盗みはしないとか、龍雲党を抱えているのをあっさりばらしてしまいます。とんだうっかりさんですねwww


好き嫌いはあると思いますが、直虎はいわば全国大会レベルではなく、県大会レベルなので、こういうのもありと思います。


それを聞いた近藤さん、当然激怒。龍雲党を引っ捕らえると言い出します。政次からかくまうのか、引き渡すのかと迫られた直虎は、あっさり引き渡すと答え、近藤さんと政次は龍雲党がいるはずの山林に向かいます。直虎はもちろん龍雲党を引き渡す気はないので、中野直之に先回りして龍雲党を逃がすよう命じます。


直之は間に合わない。しかし近藤さんと政次が踏み込んだ場所はもぬけの殻。どういうこと?


龍雲党が近藤さんの捕縛を逃れたのはいいですが、ご本尊盗難事件の容疑は強まります。替わりのご本尊を贈ろうという南渓和尚の提案で、直虎たちは近藤さんを訪ね、ご本尊が入る厨子を見たいと菩提寺を訪れます。


すると厨子の中にはご本尊が!


近藤さんは替わりのご本尊を入れたとかあやふやな言い訳をしますが、作者も同じ康久仏師と判明。結局ご本尊が盗まれたというのは龍雲党を捕えたい近藤さんの自作自演、それを見抜いた龍雲丸と南渓和尚が一計を案じて近藤さんをだし抜いたようです。


直虎たちが来ると聞いて、近藤さんや菩提寺の住職たちはご本尊を別の場所に隠したが、その時には既に龍雲党が張り込んでいて、ご本尊を元の厨子に戻していたのでした。


近藤さんのご本尊盗難事件はこれにて一件落着。しかし家康の遠江侵攻の時、近藤さんが徳川勢を手引きして、井伊谷を占領し、小野但馬が誅殺されたのを知ってる人は知っています。歴史ドラマは大筋は史実に従わなければなりませんが、結果に至る過程をいかに描き出すかでよくも悪くもなります。今回は、一見ささいな近隣領主とのご近所トラブルが井伊谷占領という破局にじわじわと迫っているように感じられて面白かったです。


しかしそれはまだ先の話。政次を除く直虎たちは、高感度アップした龍雲党を木材伐採後も雇うことにしようか、と相談しますが、政次がどういうか、と悩みます。


それを聞いた奥山六左衛門、龍雲党に危急を告げたのがなつ(政次の弟小野玄蕃の未亡人)だったと告げ、なつは政次の意向で動いたのではないか、と話します。


実際その通りで、近藤さんが自分の屋敷にやって来た時、政次は自分が変なせきをしたら、龍雲党に逃げるよう伝えてくれ、となつに頼み、なつはその役目を立派に果たしたのでした。


ここで二人の関係が気になった人は多いんじゃないでしょうか。


さて、六左衛門の話を聞いた直虎は政次の屋敷を訪れ、政次の深謀遠慮を称えつつ、龍雲党を抱えたい意向を告げます。政次は、龍雲党のためではなく、井伊家のためならよい、と条件付きで同意します。


それがし、かなり長い間政次の「闇落ち」を心配していましたが、昔ながらの奸臣でもなく、闇落ちでもないらしいと安心できました。しかし、その分家康の井伊谷侵攻からの別れがつらくなりそうだな、と思いつつも、この先の展開が楽しみになりました。


ドラマに戻って、直虎は龍雲丸に木材伐採完了後も井伊谷に留まるよう勧めます。龍雲丸が戻って龍雲党の面々と相談すると、「お家再興」もできそうだし、いいんじゃない?みたいな好意的反応です。


龍雲丸は、やっぱり武家出身で新田友作がモデルみたいですね。新田友作は、おそらく三河の国人の家に生まれ、遠江にやってきて開拓領主として成功した人物です。


それで龍雲丸、直虎の家臣になるのか、と思いきや、断るそうです。理由は空に雲があったとか。


なに、雲だぁ!?


お前は雲のジュウザか!!!???


と言いたくなった人は多かったんじゃないでしょうかwww


龍雲丸が新田友作なら、家康の遠江侵攻の時には堀川城代にならないといけないですから、井伊谷には留まれません。しかしエピソード不足の直虎のドラマを充実させるためには、堀川城のエピソードは捨てがたい。


そこで脚本森下さんは龍雲丸と直虎をつなぐエピソードを作ったのでしょう。

 

ちなみに今回も脚本森下さんの創作のはずです。ただ、ひょっとしたら、近藤さんの菩提寺ご本尊盗難事件は何か元ネタがあったかも。直虎関連で、盗まれていたはずのお寺のご本尊ごひとりでに戻っていた「戻り本尊」みたいな伝承があったような。また調べ直してみます。


・・・今宵はここまでにしとうござります。以下は過去ツイート再掲です。

 

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昭和の日の今日も氏真さんの一首を。

 

 「夜半より雨晴て早朝三屋のわたりを 
 して尾張奈古屋に着弥境目物さわかし 
 けれはあたりも見す下向卯月廿九日
軒近き竹の若葉も茂り合て又めつらしき庭の面かな(1―321)

 

氏真は対武田戦に後詰すべく強行軍で下向し、天正三年(1575)四月二十九日、浜松に戻ったようだ。二十七日名古屋に到着、二十八日は岡崎か吉田に宿泊したか?
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


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でも時折復活光臨してくださいね(^_^)ゞ

 

残念だなあ(つд`)

 

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面白そうです。


ひなほ‏ @ShihoHyuga 
清水克行先生が語られている「地方と京都の文化格差のなかで、元禁裏女房がハイソな存在として重宝された」というお話に興味がありましたら、清水克行氏「山科言継をめぐる三人の女性-実母・愛人・長女」(『史観』154、2006)をご覧くださいね。

 

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今日も氏真さんの一首を。

 

 雨強く降て一日逗留す赤坂の宿と云
出やらぬ草の庵の雨の日は猶半天に暮そはるけき(1―320)

 

天正三年(1575)四月二十四日。対武田決戦後詰の為かなりの強行軍で美濃赤坂宿に着いたようだ。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

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明智光秀?


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御意。
信玄おじさんに追われるまでの駿河今川家の御曹司→太守様は、恋でも政治でも露骨に嫌われる経験はほぼなかったでしょうからねえ。その後辛酸をなめたのか、色々想像をかき立てる一首です。牧野城時代の調略失敗が大きかったかも


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今日も氏真さんの一首を。

 

 恥身恋
人は只情によると思ひしをいとはれてこそ身をは知ぬれ(2―82)

 

天正五年(1577)?重臣に離反され領国を失った後の経験から、嫌われて身の程を知ると詠むようになったのだろうか。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ
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今日は心が折れたwwwので、早めの夕飯と晩酌。
明日こそ本気出すwww


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氏真さんは永禄九年(1566)に冷泉為益から、細川藤孝は天正四年(1576)に三条西実枝(実澄)から古今伝授証明状を受けてます。実枝は祖父実隆、父公条と続いた伝授を一子相伝にしたかったが息子が幼かったので「返し伝授」を条件に藤孝=幽斎に伝授。かなり神秘化を図った内容だそうです。


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氏真→為満ルートの冷泉流の古今伝授はあるかも(^^)
冷泉為益は1570年没、為満は1559年生まれ。
氏真も幽斎みたいに返し伝授をしたとしたら面白い(^^)
言経卿記では山科言経(為満の義兄)は氏真に敬語を使っていて、慶長八年(1603)以降の冷泉家歌会での氏真のポジションも高そうです。


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今日も氏真さんの一首を。

 

 舟の上にてとかくする間に夕に至る
夕日影嶺のみとりにうつろひてくるゝかたゝの浦の閑けさ(1―299)

 

天正三年(1575)四月二十三日、京都を出てその日の内に琵琶湖畔に至り、翌二十四日には西岸から美濃に入ったようだ。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

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今日は四月二十三日、氏真さんの三首を。

 

 三州境さはかしきと云人あるを聞てい 
 そき下るへきとて
忘れぬを家つとにせむ帰るさの花の都の面影の空(1―288)

 

天正三年(1575)四月二十三日、「人」は家康であろう(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


氏真は信長の意向で京都を去ったらしい。目的は対武田戦の後詰。

思ひ置友の有せはいかならむ留ぬ都もはなれ難さを(1―289)
 卯月廿三日帰路此程知人道迄送る
立ふれて只大方に思ひしもかへりみやこの空そ過うき(1―290)
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

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旧暦四月二十二日は #細川幽斎 誕生日なので豪華版。氏真さんの二首を。幽斎、#里村紹巴 と氏真のコラボ。

 

 帰雁
おもはすよ都はなれて北に行かりの鳴ねにともなはんとは(幽10)

 

これは天正十一年(1583)幽斎の一首(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


この一首は幽斎『衆妙集』冒頭の百首の一首。正親町天皇の百首の題に合わせ、本能寺の変直後天正十一年(1583)に成立した。里村紹巴らが同年幽斎に唱和した百首を詠み、さらに天正十五年(1587)氏真が二人の百首に唱和した(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

幽斎は予想外の本能寺の変で丹後に隠棲せざるを得なくなったのを嘆いたとされる。里村紹巴が幽斎に和したのが次の一首。

行鴈の心にそ知夏かけてこしちや花の盛りなるらん(紹710)
愛宕百韻に参加し光秀と近かった共犯者紹巴は幽斎の歌はスルー。幽斎が題を借りた正親町天皇の歌に合わせた(続


正親町天皇御製百首の一つはこれ。

 

 帰雁
かりがねのかへるさいそぐ越路には都にまさる花やさくらむ(正10)

 

正親町天皇の百首の題は細川幽斎の『衆妙集』冒頭の百首歌と完全一致するが、政治性はなさそう(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


細川幽斎と里村紹巴の百首を借りて書写した氏真さんも同じ題で詠んだ。

 

 帰雁
古郷に帰る友とや暁の夢をさそひて雁の行らん(4-10)

 

「暁」が早朝に始まった本能寺の変を暗示しているようだが、後年もっと露骨な一首を詠んだ(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

 帰雁
捨らるゝ花のうらミの面かけをつはさにそへて帰かりかね(6―560)

 

こちらは慶長八年(1603)。雁=幽斎に捨てられた「花」は光秀の桔梗紋を暗示したようだ。氏真は光秀の心情的共犯と言ってよさそうだ。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 


週刊 #今川氏真 詠草&おんな城主直虎の不都合な真実 Vol.24 4月29日号
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